妻を休みたいだけだったのに

 弘樹をインドに送り出してからというもの、私の退屈な日々はますますつまらなさを増していた。二ヶ月という独りの時間はあまりに長くて、私が弘樹に感じていた密かな欲求不満を意識するには、十分すぎる時間だった。


 私はたまに変な夢を見る。弘樹が男の売春婦、男娼になって他の女に買われている夢。夢の中で、わたしは横からずっとそれを見ている。彼には絶対に言えない秘密の夢。


 私は気になって仕方がないのだ。五年ぶりに再会した弘樹が、ものすごく上手になって戻ってきたことが。弘樹がいったいどこの女に仕込まれたのか、私は気になって仕方がない。


 たぶんそれで魔が差したのだ。弘樹のことを考えながら独りでベッドに寝ているとき、くるくると回りながら家じゅうを掃除するロボットを眺めていたら、私の中で何かが弾けた。弘樹がいない間くらい、私は妻を休みたくなった。


 私は夜ごとの妄想を実行に移すことにした。タンスから古い服を取り出して、安物のリュックに詰める。安いジーンズとTシャツを着て、化粧も髪型もできるだけ安っぽく。持ち物は最低限。大丈夫、ちょっと遊んでくるだけ。男の人も隠れてやっていることでしょう。このときの私はそう思っていた。


 私は弘樹の写真に向かって話しかけた。

「弘樹、ちょっと浮気してくるね」

 そして私は家を出た。


 ***


 待ち合わせ場所に美菜子があらわれたのは、約束の時間を三十分ほど過ぎてからだった。

「お待たせ、カナちゃん」

「遅かったね」

「うん……。ごめんね」

「美菜子、来てくれてありがとね。無理なお願いだった?」

「ううん。カナちゃんのこと、どこへでも連れて行ってあげるって約束したから。だから連れて行ってあげるよ。でもね、絶対に無理しちゃダメだよ」

「わかっていますよ」


 ここ、ゲイラン地区はシンガポールでもよく知られた安宿街だ。男性なら風俗店街として聞いたことがある人もいるかもしれない。そう聞くとスラム街のようなところをイメージするかも知れないけれど、そんな感じの場所とは違って、昼間なら普通の人も歩ける場所だ。とはいえ、ちょっと路地裏に入ると、怪しげなマッサージ屋があったりする。


 美菜子と私がいるのは、その地域のホテルの一室。美菜子の話では、この辺りでいちばん安全なホテルとのこと。


「あのね、カナちゃん。私がどうしてそんなことを知っているのかっていうとね……」

 美菜子はとても真剣な顔をしている。

「たまに観光ガイドの仕事をすると、こういうところの情報を欲しがるお客さんがけっこういるんだ」

「まあそうだよね」

「それでいろんな情報を持っているんだけど、もちろん、違法なお店のことは言えないよ。だから私が教えてあげられるのは、合法の、健全な、健全? なのかな、よくわからないけど、とにかく安全なところなの」

「そうか。美菜子、いろいろとありがとう」

「どういたしまして」


 私はいま、何の迷いもなく、欲望のままに行動している。

「女性向けのお店は、ほとんどはホストクラブみたいなところ。でも、中には本当に男の人とできるところがあるから、気をつけて」

「美菜子、できれば私、そういうお店に行きたいの」

「……えっ、本気?」

「うん」


「ねえ、カナちゃん。カナちゃんはもう弘樹と結婚してるんだよ。弘樹が知ったらどんな気持ちになると思う?」

「それはわかっているよ。だから内緒で行くんだ。それに、本当にするようなことにはならないと思うよ」

「……わかった。カナちゃんがどうしても行きたいというのなら止めないよ。ただし、危ないことだけはしないで。あと、あんまりプロを舐めない方がいいよ」

「うん」


「どうして行きたいのか、これ以上私は聞かないし、秘密も守るよ。でも夫婦ってそんなもの? ちょっと悲しいな」

「ごめんなさい。ありがとう。心配してくれてうれしいです。美菜子のことが大好きだよ。美菜子に出会えて幸せ。私は幸せ者だよ」

「もうっ、カナちゃんたら。カナちゃんにも事情があるんだよね。私もカナちゃんが大好き。幸せになろうね」

「はい」

 美菜子とはそこで別れた。


 ***


 スマートフォンの地図アプリを頼りに、目的地を目指した。少し歩くと、小さなバーがあった。店の名前は「G−Five」。中に入ってみると、薄暗くて狭かった。カウンター席が六つだけ。客はまったくいなかった。


「いらっしゃいませ」

 マスターらしき中年男性が挨拶した。

「ひとりです。紹介されて来ました」

 美菜子が書いてくれたカードを見せる。

「はい、ではこちらへどうぞ」


 通された先は、個室だった。狭い空間にベッドが置かれている。天井からはミラーボールみたいな照明器具がぶら下がっている。

「ここでしばらくお待ちください」

「はい、わかりました」


 しばらくして、ボーイさんがやってきた。

「お客様、当店のシステムを説明させていただいてもよろしいでしょうか?」

「お願いします」

「料金は先払い制となっておりますので、最初に八十ドルをお支払いいただきます」

「はい」

「シャワーを浴びたあと、スタッフがコンドームを装着した上で、お客様のお相手をさせていただきます。最初は二時間プレイして、延長するかしないかは、お客様に判断して決めていただきます」

「あの、もし延長した場合は、どれくらいの時間になるんですか?」

「基本的に一時間ごとに計算します。お客さまのご希望があれば、何回でも延長できます」

「な、なるほど……」

「ご質問がなければ、シャワールームへ案内しますが?」

「はい。お願いします」

「かしこまりました」


 私はシャワーを浴びて、使い捨ての下着を身につけた。それから部屋のベッドに寝転んだ。部屋の中は暗かったので、電気をつけたままのほうがいいのか迷ったけど、結局、消して真っ暗闇にした。


「はじめまして。よろしくお願いします」

 部屋に入ってきたのは、背の高い青年だった。年齢は二十歳前後だろうか。

「は、はい。こちらこそ」

「失礼します」

 彼は私の身体に触れて、軽く肩をもんでマッサージを始めた。

「今日はどういったコースになさいますか?」

「じゃあマッサージを先にしてください。お願いします」

「かしこまりました」


 うつ伏せになるように言われて、指示に従った。彼の指先は驚くほどなめらかで、首筋から背中を這うように移動してきた。ゆっくりと動いて、やがて腰まで到達する。すると彼の手は足首に移り、ふくらはぎから太ももへと流れていく。私はだんだん気持ちよくなって、頭がぼうっとしてきた。


 それから今度は仰向けに寝るように言われた。私は視線が合うと恥ずかしいから目を閉じることにした。マッサージオイルが塗られる感覚。首筋に手が伸びる。鎖骨を通って、胸元に到達する。彼の手のひらが優しく、ゆっくりと動く。


 そして下半身のほうへ。脚の付け根のあたりまできたところで、彼が私に言った。

「この先に進んでもいいですか?」

「はい、お願いします」

「脱がせますね」

「はい」

 彼はマッサージ用の使い捨てブラとショーツを外した。

「あっ……」

 思わず声が出るけれど、思ったよりは恥ずかしくない。


 彼の手は私の乳房を支えるように動いて、胸の周りをマッサージする。

「美しいです」

「ありがとうございます」

「すごく綺麗です」

「恥ずかしい」

「とても柔らかくて弾力があって素敵です」

「嬉しい」


 彼は丁寧に時間をかけて私の身体を愛撫してくれた。身体の部分が充血して、濡れてきているのがわかる。

「はぁ、はぁ……」

「声を出してもいいですよ」

「はい」

「気持ちいいですか?」

「はい、すごく気持ちいい」

「ここが好きなんですね」

 全身が熱くなってくる。


「そろそろ次に行ってもいいですか」

「はい」

「どんな体位にしましょうか」

「えっと、まずは普通にしてくれませんか?」

「はい。じゃあ、最初は普通の正常位でしましょうか」

「は、はい……」

 彼が私の脚を広げて挿入しようとしたとき、私はハッとして言った。


「待って! やっぱりバックからにして!」

「はい、わかりました」

 せめて相手が見えない体位にするのが自分への言い訳になるように思えたからだ。挿入させるようなことはしないつもり、とか言ってここに来たのだけれど、その考えはとっくに頭から消えていた。


 私は四つん這いになってお尻を突き出した。彼がゆっくりと私の中に入ってくる。彼のは硬くて、内側から掻き出すように擦れるのがとても気持ちいい。

「あんっ……すごい。いいっ……ああっ」

「ねえ、もっと奥まで突いて」

「わかりました」

 彼は私の要望に応えて、さらに激しくピストン運動を始めた。

「ああぁっ……気持ちいいっ……イクっ……イッちゃうっ……あぁぁぁぁぁっ!!」


 驚くかもしれないけれど、本当にものすごく気持ちよくてこうなってしまったのだ。だって、夫でも彼氏でもないんだから、気を遣ってあげる必要もないでしょう。そんなわけで私は、ちょっと遊んでくるつもりが、大変なものを知ることになってしまった。


 ***


 無事に自宅に帰り着くと、まず私はリビングに行って、写真立てを倒して弘樹の写真を伏せた。


 ベッドの上で横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。頭の中で、今日一日の出来事を思い返している。

「ああ、やってしまった」

 私はため息をついた。


 知らない男性とセックスしてしまった。私は弘樹に不満はないし、離婚するつもりもない。それでも私はもう一度、どうしても弘樹以外の誰かとセックスしたかった。弘樹のためのセックスではなく、自分のためのセックスをしたかった。ただそれだけのことなのに。


「これからどうしよう」 

 相手はプロだ。きっと私が誰なのかわからないだろうから心配はいらない。それでもなお、私の記憶に残った経験は、深く考えれば考えるほど、私の価値観を内側から崩しかねないものだった。



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