人生の墓場、その傾向と対策
オーチャードロードのブレックファストカフェでのランチ会の帰り道、私は少し退屈していた。毎日同じようなお店で同じような昼ごはんを食べて、同じような人たちとおしゃべりして、買い物をしてから帰る。私は刺激のない日常に飽き飽きしている。そのうえ今日は、よりにもよって、私の好きなハニーフレンチトーストのストロベリースペシャルが売り切れていたのだ。
こんな時は、楽しいことを考えよう。そういえばもうすぐ結婚記念日だ。今年はどこのレストランでディナーしようかな? 早いもので弘樹と結婚してもう四年目になるんだよね。ということは、ここシンガポールでの生活も四年目かぁ。三十歳を過ぎてからの時間は、あっという間に過ぎていくね。
タクシーを降りて自宅の玄関の扉を開けると、弘樹の会社が作っているロボットが出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ただいまー!」
このやりとりも何度目だろう。発音とか声の質とかは人間そっくりなのに、どこか寂しい気持ちになるのは不思議なものだ。弘樹は今日も帰りが遅いのかな。私たちには子供がいないから、帰っても一人。夜はいつも二人きりだ。
リビングルームに入ると、ロボット掃除機が私の足下に寄ってきた。弘樹は、毎日決まった時間に家の中をくまなく綺麗にしてくれるようにプログラミングしたと言っていたっけ。
「今日の晩ご飯は何にする?」
私はキッチンで食材をチェックしながら宙に向かって問いかけた。
「ミートローフとチキンライスの予定です」
天井からロボット音声が答える。
「やった! じゃあサラダもつくろうっと」
返事をする人は誰もいない。
このミートローフとチキンライスは、午前中に来てくれている家政婦のキャサリンが作って置いておいてくれたものだ。キャサリンの料理はいつも最高に美味しい。料理のほかに、掃除とか洗濯とかゴミの処理とか、ロボットにはまだできないことを、キャサリンは毎日やってくれている。そんなわけで、私はこうして毎日優雅な生活をさせてもらっているのだ。
今は午後の四時。まだ少し時間がありそうだ。私は服を脱いで下着姿になると、いつものネグリジェを着て、ベッドの上で横になった。寝転がってタブレットで本を読む。いまは世界のどこにいても日本の本が手に入るから、本当に便利だと思う。
「うふふ……」
私はひとり笑いながら小説を読んでいた。
インターホンが鳴った。
「こんにちは。カナちゃん、来たよ~」
私と弘樹の共通の友達、美菜子の声が聞こえてきた。私は急いで部屋着に着替えると、リビングルームに出た。
「いらっしゃいませ。美菜子さん」
「ひさしぶりだね、カナちゃん。元気にしてる?」
「うん。でも今日はちょっと退屈してたところなの。弘樹がもうちょっと早く帰ってきてくれればいいんだけど」
「そっか。シンガポールはいいところだけど、毎日同じだとつまらないよね。うちの弟なんて出張でヨーロッパに行ってるときのほうが生き生きしてるもん。あたしも日本にいた頃はそうだったなぁ。仕事でいろんな場所に行くのが楽しかった」
「へぇ。そうなんだ」
「そうだ。最近どう? 弘樹とはうまくいってる?」
「それがさぁ、実はあんまりうまくいってないんだよね。弘樹のやつ、さっきメールをよこしてきた。また出張で、今度はインドだってさ。しかも今回は二ヶ月なんだって。だからしばらく会えないんだよ」
「え!? 二ヶ月も? それは淋しいねぇ。それで、弘樹君はいつ出発するの?」
「明日の夜便で行くみたいだよ。なんか急すぎるんだよね。いつも突然言われるからさ。ほんと弘樹のやつ、私のことほったらかしすぎ。まぁ、忙しくて仕方がないのかもしれないけど、こっちにも都合があるじゃん。わたしは家事もしないといけないしさ。そのへんの配慮が足りないっていうか、男としてどうかと思うんだよね」
私は美菜子にひたすら愚痴るのであった。
美菜子と私は学生時代の友人同士。美菜子は私と弘樹の経緯を全部知っている。それでこの質問がくるわけだ。今はシンガポールに住んでいる専業主婦と、世界中を旅して回るフリーターだ。
私は、弘樹と結婚してこっちに来る時、弘樹の希望で会社を辞めて専業主婦になった。今となってはビザの都合で働きたくても働くことができない。美菜子はこのあいだ三十二歳になった。最近は婚活というか、なんかそういう恋愛をしている。なかなか相手が見つからないのだけれど、シンガポールにいるのも理由のひとつで、日本人同士の出会いが少ない。
「そういえば、雄一との話はどうなったの?」
「もう別れちゃった。雄一とは、今回来る前に話し合ったんだけど、『俺は一生結婚しない。おまえは自由にしろ』とか言っちゃって。それからは連絡も取ってないし、会ってもいない」
「あらら……。そうなんだ。残念だったね。美菜子のこと応援してたのに」
「まぁ、自分でも薄々わかってたことだし、もう過去のことだから気にしてない。それに、新しい恋人ができたの。その人のことを、雄一よりも好きになれるかどうか、いまはわからない。だけど、このままずっと独身でいられる自信もない。いろいろ考え中なんだ」
「そう。それならいいけど。ところで、相手はどんな人?」
私は美菜子が結婚できない理由を知っていた。現実の問題として、結婚して子供をつくれば、女が働くことのハードルが上がる。美菜子のように世界を旅した女子が自分の自由な時間を優先させるのであれば、結婚は男女双方にとってデメリットが多い。
「そのうち紹介するよ。今はまだお互いお試し期間だから」
「ふぅん。そういうことか。お幸せにね、美奈子さん」
「ありがとう、カナちゃん。お礼にキスしてあげる」
「あはは。別にいらないよ。それより、またどこか旅行に行こうよ」
「じゃあ、二人でどこか遠い国に行っちゃおうか。カナちゃん、もうすぐ結婚記念日でしょ? それなのに旦那が出張だなんてかわいそう。せっかくシンガポールに住んでるんだし、海外に行こうよ」
この場合の「海外」とは、シンガポールの外という意味だ。
「いいわね。どこの国がいいかな? グアム? ハワイ? バリ島? タイ? マレーシア? インドネシア? それとも、もうちょっと遠くて、アフリカとか……」
「うーん。私は全部行ったことがあるから、カナちゃんの好きなところに連れて行ってあげるよ」
「そっか。ありがとう。じゃあそのうちね」
***
弘樹が帰ってきたのは深夜になってからだった。私はベッドの中で眠っていた。弘樹がシャワーを浴びている音が聞こえる。
弘樹がベッドの中に入ってきた。
「ただいま。遅くなってごめんな。寂しかっただろう?」
「おかえりなさい。弘樹。全然大丈夫だったよ。いつもと同じだったから」
「そうか。僕が居なくても平気っていうのもちょっと寂しい話だな。でもそりゃよかった」
「うふふ……」
「あっ、笑ったな」
「ねえ、弘樹。今日、私がどんな下着を着けているかわかる?」
「もちろんわかるさ。黒のレースのTバックだろ」
「えへへ。すごいなぁ。正解。やっぱり弘樹は私のことが大好きだよね」
「ああ、そうだな」
「じゃあさ、今日は久しぶりに私が上になるよ。騎乗位でしてあげようか?」
「だめだよ。カナちゃんはマグロのままでいいの。僕の好きにさせてくれればいいの」
「わかった。弘樹の好きにして。私はなんでも受け入れるから」
「うん。じゃあいくぞ」
弘樹は私の身体を触り始めた。
弘樹に抱かれるたびに、この世で一番幸せな気分になる。本当は、昔付き合っていた弘樹が大好きだった。けれどもセックスが下手で、というかセックスする勇気すら出せなくて、セックスレスが原因で一度は私と別れたんだ。あまり器用な人ではなかったけれど、優しくて、とても紳士的だった。再会してからの弘樹は別人のように積極的で、ものすごく上手。でも結婚してからは少し手抜きで、最近は強引になってきたように思う。
弘樹が私の後ろにまわった。後ろから激しく突いてくる。
「あんっ……、弘樹、もっとぉ、ゆっくりぃ、感じさせてぇ」
「ダメだよ。カナちゃん、声が大きすぎるから」
「だって、気持ちいいんだもん」
「我慢して。聞こえちゃうでしょ」
「いいじゃん。みんなしてるんだからぁ」
「だめだよ。隣に聞こえたらまずいでしょ」
「そうだけど、あぁ、そこ、もっと強く、はぁぁ」
「ほら、静かにしないと」
弘樹は私の弱いところをすぐに見つけて責め立てる。私は弘樹とのセックスが好きすぎて困っている。
「もうダメェ、イッちゃう」
私の身体が弘樹を欲している。弘樹とのセックスがあまりにも良くて、こんなに気持ちいいことが世の中にあるなんて、一度知ってしまったらとても離れられない。と弘樹は思っているようだ。
「はぁ、もっと奥まで。もっと激しく。めちゃくちゃにして」
「今日も中でいいよな」
「うん。あぁそれ気持ちいぃ、あぁ………、奥まで。はあぁ、んふぅー、あん」
もし昔の弘樹が今の私たちを見たら絶対に引くよね。でも今の私たちの間には、夫婦にしかない特別な絆がある。そう思って、今日も私は弘樹に身体を任せて夫婦になる。だからこれでいいのだ。たとえそれが男性にとって都合の良い妄想の産物だとしても。
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