第7話 新学期の始まり
九月の初旬。
暑さは落ち着いてきていものの、未だに最高気温は真夏日の日もある。
彩理の学園で新学期が始まった。
ひょんなことから彩理は創と夢によって日常が著しく変化している。
彩理は夢の講義だけは集中力を総動員させ、眠気と戦わざるを得なかった。
まさに今――夢の授業を集中して聞いている。
理系校舎内にある実験室を併せ持った教室で彩理は授業を聞いていた。
初回はガイダンスで、生物学の歴史について詳しく学んでいくようだ。
スクリーンに最新のプレゼンテーションアプリで作られた授業の内容が羅列されている。
初回の授業ではあるが、受験で学んだことのおさらいをしているため、彩理がこの講義についていくことは容易だった。
講義が終了し、彩理は大きく伸びをしてペットボトルの麦茶を飲んだ。
「新島さん、お疲れ様」
彩理の肩を夢は後ろからポンと叩いた。
「あ、先生。お疲れ様です」
「どうだったかしら、私の講義」
夢はいつものようにタブレット端末を脇に抱えている。
「中学では深く教わらなかった部分を、追求していくことができそうです」
「ええ、それが高等部なのよ――新島さんには研究室で私の研究について詳しく教えるつもりだから、あとで会いましょう」
「はい。お疲れ様です」
「それと――これを新島さんに預けておくわ」
夢が取り出したのは、なんと研究室の鍵だった。
驚くのも無理はなかった。本来は学生には渡さないものであるから。
「ええ!? 私なんかが持っていていいんですか?」
「大丈夫よ。スペアキーだから無くしても問題ないわ」
「なら大丈夫ですね――じゃなくて、普通生徒に渡したら問題になりませんか!?」
決してノリツッコミをしたわけではない。
「ふふっ、秘密よ?じゃあね。私はこのあと会議だから」
「ちょっと、先生……! もう!」
夢を追うことを諦め、配布されたプリントやメモしたノートを片付け、講堂を後にした。
一番遅い時間帯の授業が終わり、多くの学生が帰宅、またはバイトや部活に勤しむであろう時刻、午後四時三十分。
彩理は研究等へ向かう数少ない真面目な生徒として見られているのかもしれないと考えたが、自意識過剰だと思い、その観念を頭から振り払った。
夢の研究室に着き、扉に目をやると「会議の出席につき、不在」という張り紙があった。
渡された鍵を使って研究室に入った。
「そのうち危ない運び屋にでも回されそうだよ」
誰もいないことを確認して、余計な一言を呟いた。研究室にたどり着くまで、教室での困惑した表情は変わらなかった。
「お邪魔しまーす」
誰かがいるわけでもないので、彩理が声をかけても当然ながら返事は帰ってこなかった。
長いソファにカバンを置き、勢いよく腰をかけた。
彩理は夢の研究をよく知らない。わかっていることは、生物学の研究、谷崎先生との技術提携―――そしてそれらの技術を結集させて創という「人間」を創ったということ――これしか彩理は知らない。
そこから先は、今まで教えてもらうことはなかった。きっと本当に少人数の人にしか知ることの許されないような、秘密なのかもしれない、と
一人で何を考えてもいい方向に考えつくとは思わず、取り敢えず研究に関してはここまでで考えることをやめた彩理だった。
研究室も見慣れた風景なので、毎月定期購読している科学雑誌を読んで待つことにした。
彩理が読むのは毎月発行される科学雑誌「ガリレオ」である。
毎月、最新号が寮に届くように定期購読を行っている。
彩理の中で科学、化学、生物学などは切っても切れない関係なのだ。
この雑誌も三週間の間に数え切れないほど読んだが、探究心が彩理の手を動かし何度も読み返す。
時刻は午後五時を回った。
八月とは違い、日が沈む速度が増している。
まもなく日が沈もうとし、空の青と橙のコントラストが構成されている。
科学雑誌を読み終えた頃、夢先生が研究室へやってきた。
「ごめんなさいね。だいぶ遅くなってしまったわ」
「いえ、これを読んでいたので暇にはならなかったですよ」
「あら、『ガリレオ』じゃない。たしか昨年創刊されたばかりの新しい科学雑誌だったわね」
「はい、表紙がマンガのようなイラストの雑誌ですけれど、最新の学会の内容や、発見、発明に関わる過程の説明に、イラストが多く使われていて私には解りやすいんです」
学者らしく、先生は彩理の読む科学雑誌の話題を話し始めた。
「そうね――科学技術にはとっつきにくい部分もあるから、最近は科学技術コミュニケーターと呼ばれている人たちも出てきているみたいよ?」
夢の言葉から聞いた事のない職業が飛び出した
「科学技術――コミュニケーター?」
「ええ、外国人の言葉がわからない時に通訳の人がいたりするけれど、同様に私たち研究者の言葉を翻訳して科学を学んでいない人たちの為の通訳を行う人なの」
今まで聞いたことのなかった職業を耳にして、彩理は一つ自らの知識にすることができた。
SF――サイエンスフィクションとして処理されてきた出来事が現実へ変わる時には、その法則や現象を知る必要がある。
普段の生活では聞きなれないような、例えば「クロスカップリング理論」とはどういった意味なのか」を分かりやすく伝えることのできる役割の人が、今後必要不可欠ということだ。
「そんな職業があるんですね」
「ちょっとした豆知識よ。じゃあ、そろそろ私の研究について詳しく話そうと思うの」
ようやく研究の本題へと突入することになる。
「はい――創にも関係することなんですか?」
「大いに関係するわ」
ずっと前から気になっていたが、一体何なのだろう。
「現在使っている創の薬を、一般の人に使えるように改良を加えて万能な医薬品として広めていきたいの」
「創の体組織を――安定させる薬ですよね?」
「そうよ。この薬は、体組織の安定の他に、死滅した臓器の機能をコピーして代わりに行う『代償機能』が備わっているの。でもこのまま使うだけでは時間が経過していくうちに細胞が死滅して機能を全身ごと失ってしまう。そのためには創と同様に薬を飲み続けなければならない――それを一度の服用だけで済むように変えていきたいの」
「なるほど・・・でも、そんなことができるんですか?」
「理論上は構築できたのよ。実現させるには途方もない年月がかかってしまうかもしれない。でも、私はこの研究を成功させる。たとえ私の生きているうちに研究が終わらなくても、私の研究を受け継いでもらえる人にお願いしたい――それが新島さんだったの」
「そうだったんですか。確かに、創の薬と考えると周囲には言うことができませんよね」
今、創がバイオロイドとわかってしまう――メディアなどで報道されてしまうと、本当に混乱が起きてしまうことは目に見えた形になる。
バイオロイドという「創造された人」に人権はあるのか。人の「概念」にバイオロイドは含まれるのか。そして、人が「人を創造する」ことは禁忌であるのか――。
「だから私たち“親子”の関係を知っている人たちにしか、この研究のことは教えていないもの」
「わたしも、その中の一人なんですね」
「勿論よ」
夢は当然のように言葉を返した。
「とは言ったものの、創が赤ん坊のころから研究を続けて、まだ完成していないの。創の薬だけでも液体の培養槽を錠剤サイズの薬まで小さくするのに十五年を要したわ」
夢の言葉が引っかかった。
創が赤ん坊、とはどういう意味なのか、と。
「先生。創って最初は赤ん坊だったんですか?」
「ええ。どの生物も最初は小さいけれど、成長することによってこうして大きくなるのよ? 別の機会に教えるわ」
夢はただ人を創造するのではなく、始まりから終わりまでを考えて創り出したのかもしれない。
生物は生まれ、成長し、老いて、死に、消えていく。創造した人であっても、ライフサイクルに則って創は生まれたのだろう。
「だから創は、私の子どもなの」
血の繋がらない創と夢には普通の家族にはない強い絆を持っていると、確信出来る言葉を彩理は感じ取った。
「先生は、素晴らしいお母さんです」
「ありがとうね、新島さん」
「それで、わたしには何を手伝えることはありますか?」
「薬品類は私じゃなければ取り扱えないものがほとんどだから、新島さんには研究、実験の助手をお願いするわ――」
「わかりました――でも学年的にわたしでいいのでしょうか?」
「創のこともあるし、私は一人で行いたいという口実で助手を募集していないの。研究は私を含め創、新島さんの三人で充分可能よ」
今日は特に実験や作業の補助はなく、数十ページの及ぶ新薬のプロジェクトをまとめられた学会の冊子を丁寧に夢が説明してくれた。
学会プロジェクトというものは、もっと規模が大きいのかと思ったが、夢の場合は事情が事情だった。現実的に研究員を呼ぶのは難しい。
大抵の人であれば創の身体的特性――特に創のクロロを発生させた際には誰かが情報を流してしまってもおかしくはないだろう。
人が異形のモノに出会うと、多くは恐怖を感じその場から離れてしまうことも珍しくはない。
しかし、モノに友好的に接するか、探究心によって理解しようとしたとき――研究へと繋がるのだ。
彩理が創への恐怖心がなかったのは、知ることへの探究心が勝っていたのだ。
死を決心した時に、創と出会って少しずつ変わることが出来ているのは、彩理の心のどこかで「生きる」という部分が少しだけ残されていたのだと、そういうことにしておきたかった。
「話は変わるのだけれど――新島さんは、創のこと好きなの?」
「――はい?」
彩理は一瞬、耳を疑った。
「創のこと――ライクとラブならどっち?」
「え、あの、その……」
二択の質問に対し、どちらを答えたらいいのか分からなくなり、一応ライクです、と答えておいた。
彩理は創へ好意を持ってはいるけれど、果たしてそれが恋なのかはわからない。第一創は人ではない――はず。
「ふふっ、それがラブになると良いわねぇ」
夢が明らかにからかっているとしか思えない。
「やめてください。いくら1ヶ月経過したとはいえ、まだわかりませんよ」
すると先生は“ライク”から“ラブ”になるだろうと思われる裏付けを、こんなふうに伝えた。
「あらあら、ここ最近おめかしするようになった女の子はどこの誰でしょうね?」
「うっ……」
―――紛れもなく彩理だった。
何も言い返せず、ついムッとして口を尖らせてしまった。
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