第8話 放課後の雨傘

「新島さん、そろそろ帰ったほうがいいかもしれないわね。あと十分ほどで生徒は校舎から出ないといけないの」


 話を始めて二時間ほど経過しただろうか。


 スマートフォンで時刻を確認してみると、時刻は夜五時五十分を表示していた。


 この学園の門は、防犯のため六時にはすべての門が閉鎖される。


 特に部活動も閉鎖される十五分前には多くの生徒が門を出ている。


 考え事をしていると、どうしても時間が足りない。


「あ、本当だ! 帰りますね! ありがとうございました」


 大急ぎで広げた荷物を片付けながら挨拶をした。


「お礼を言うのは私の方よ。これからよろしく頼むわよ。あ、鍵はそのまま持っていてね」


「は、はい! では失礼します」


 彩理は急いで研究室を後にした。


 外は既に夜灯がつき始めているが、果たして間に合うだろうか。


 敷地内とは言え寮からは距離があるのが現状である。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 彩理は久しく使わず衰えた脚力を使い全速力で門へ向かった。


 二百メートルほど走っただけで足が悲鳴を上げるとは思わなかった、と若干後悔している。


 だが、努力の健闘はむなしかった。


 門にはたどり着いたものの、既に午後六時を回っており門は閉じてしまっていた。


 高等部校舎の門は生徒が解錠することは不可能で、鍵を所持しているのは学園の警備員と職員のみである。


 というのも生徒がここまで後者へ残ること自体、めったに無いためだ。


 たとえあったとしても研究室で缶詰状態になる研究者ぐらいであろう。


「……先生に開けてもらおう」


 彩理がとぼとぼと来た道を引き返そうとしたとき、彩理の頭上を何かが通過した。


 真後ろで着地した音が聞こえ、振り返ってみる。


「彩理ちゃん、今日はお疲れ様だね」


 緑の長髪、顔に浮き出た植物のような模様――クロロに身を包んだ創の姿があった。


「そ、創!?」


「ああ、門を飛び越えてきた」


 彩理が疑問に思っていたことをバイオロイドは簡単に答えてしまった。


「やっぱりすごいね、クロロって。ちょうど困っていたんだ。出られなくなっちゃってさ。どうしようか悩んでいた」


「それも簡単にできるよ。はい、ちょいとごめんよ」


「きゃっ!」


 創が両腕によって彩理が宙に浮いたと思っていた。


 創の右腕は彩理の背中を、左腕は両足を抱えていた。


 要するに、彩理は創にお姫様抱っこされていたのである。


「そっ、創! 恥ずかしいよ! 下ろして!」


 バタバタと暴れる少女を青年はしっかり受け止めて離さない。


 時間帯も相まって、傍から見れば創が怪しい人扱いされてもおかしくない。


「だーいじょーぶ。一瞬だから――それ!」


「きゃああっ!」


 彩理を持ち上げたまま――創3メートル以上ある鉄柵の門を一気に跳躍し、飛び越えていったのだ。


 そしてそのまま、創は着地し、しゃがみながら両足で二人分の衝撃を吸収した後は何事もなかったかのように数歩進んでから彩理をゆっくりと降ろした。


 彩理を降ろした創は、元の姿に戻っていた。


 創から解放された時、彩理の両足は膝が笑い、立っていられるのがやっとだった。


 彩理にとっては非常に心臓に悪く、心拍数も大きく増加した。


「こ……こここ」


 彩理声が裏返ってしまっている。


「コケコッコー?」


 精神的な余裕は創に軍配が上がっている。


「違うよ! 怖かったんだよ!」

 誰がニワトリだと言ったんだ。


「でも校舎の外へ出ることができたじゃん」


 創は当たり前のように笑顔だった。


「そ、そりゃそうだけど――」


「何か言うことはないかい?」


 言いたいことは様々な彩理だったが、素直に言葉を伝える。


「あ、ありがとう――」


 お礼を言ってはみたが、高所恐怖症の彩理にはまだ恐怖が解けない。


「大丈夫?」


「――誰のせいだと思っているの」


 彩理は口を尖らせた。


「ごめん、悪かったって」


 両手を合わせて謝罪の行動を取ったあと、創は突然彩理の頭を撫でてきた。


 創の温かい手が彩理の髪の毛に、頭に触れた。


 人工物でありながら感じる、生き物の体温。


「ひゃっ!?」


 突然のことに条件反射で身体が飛び跳ねた。


 先ほどの行動とは異なった意味で彩理の心拍数は上がり、おまけに顔が熱い。


「ごめん! 俺、無意識にやってた!」


 創の表情は恥ずかしさよりも、他人へ対する失礼に当たる自覚が先走り焦った表情が強く現れていた。


「い、いや大丈夫だよ。ちょっと驚いちゃった――よく自然に女の子に触れるよね」


 触られたことに平気なふりをしながら、彩理は最初に研究室で触れられたことを思い出しながら話した。


「それっておかしいこと?」


 創の複雑そうな表情を見る限り、それが当たり前だと思っていたのか、それとも本当に知らなかったのか、彩理にはわからなかった。


「人間は――いや、少なくとも日本人の高校生はあまりしないよ」


 目の前のバイオロイドが、少し考えてこう答えた。


「俺が無垢なせいなのかもな。彩理ちゃんに出会う以前に、同年代の人がいなかったのもあると思う。ずっと俺は母さんや先生たちに育てられてきたから」


 創も、自然とスキンシップを行う環境にいた為の行動であったと自己分析していた。


「わたしも同年代の人と話すのが、よくわからないよ」


 彩理の言葉を不思議そうに創は汲み取っていた。


「同年代どうしなのに? どうして?」


 答えを用意することができず、悩んだ。


「――人にも相性があるの。気が合うか合わないというね」


「ということは、俺と彩理ちゃんは気が合うんだろうね」


「そう、なのかな?」


 彩理にとってはお互いに性格も全く違うというのに、そんな風に思えてしまうのだろうか、という疑問ばかりが出てきてしまう。


「でなきゃ、俺に興味なんか沸かないって」


 彩理の目の前にいる青年は、少なくとも人ではない。


 創の言う言葉に、妙に納得してしまった。


「そうだね――あっ」


 ふと、彩理は思い出したことがあった。


 創の存在についてだ。


「外で変身して、大丈夫なの?」


「身体は発光してしまうけれど、まぁ幽霊と勘違いしてくれるだろう。この学校、オカルト研究部もあるし」


「それならまだしも、創が報道されたら大騒ぎになっちゃうよ?」


「どうせ嘘っぱちのバラエティ番組に使われるんじゃないかな。彩理ちゃんは心配しすぎだよ」


「でも……」


「心配いらないよ。いざとなれば俺や母さんを頼りな」


「ははっ」と、満面の笑顔を見せた、楽天的な創だった。


 今日もまた、他愛のない会話をしながら、いつもの帰路を二人で歩いている。


 秋が始まるのだろう。やけに灰色の雲が多い天気だ。


 少し頭が圧迫されているような不快感が彩理にはある。


 気圧の問題だろうか。


 生憎、彩理は傘を持ち合わせていない。


 まもなく土砂降りが来るというのに、どうしたものか。


 と考えているその時、巨大な緑の平べったい物体が私の視界を覆った。


 突然の展開だった。


「傘あるぞ」


「ありがとう、助かったよ」


 となりの創が気を利かせてくれたのか、彩理にハスの葉を模した巨大な傘の中へ入れてくれた――いや、創も元々傘を持っていない。


 彩理は、はっとして気づいた。


 その表情に合わせ、創も小さく頷いた。


「うん。バイオツールで作ったものだ」


「すごい……こんなこともできるんだね」


 こればかりは恥ずかしいなんて言っている場合ではなかったので、拒むことはしなかった。


 相変わらずのオーバーテクノロジーである。


 思考がおかしくなってきたのか、又は創といる日常に慣れてしまったのか、常識的な事例として処理されることが彩理には増えていった。


「バイオツールの名の通り武器じゃなく、あくまで道具だからな」


 ハスの葉を模した傘は巨大で、二人で中へ入っても余裕があるほど広く、服が全く濡れることはなかった。時々水たまりで靴が多少濡れることはあったが、それらを差し引いていたとしても、非常に快適に過ごすことができた。


 いずれは一家に一台、バイオツールが普及するのだろうか。一体どのくらいのコストがかかるかはわからない。ついでに、今は緑色のカラーバリエーション以外、増やすことはできないのだろうか。


 気づけば、いつもの路地裏に着いていた。


「家に寄っていきなよ。雨が止むまででいいからさ」


「うん」


 彩理の住む寮には、門限がないのだ。


 生徒の安全を考えたら非常に問題があるように思われるのだが、大丈夫なのだろうか。


 既に行き慣れた場所である、創の家へたどり着いた。


 彩理が初めて訪れた時は驚きの多かった場所でもあるが、今ではすっかり自分の居場所へと変わっていた。


 創は玄関に入りながら、傘に変形したバイオツールをライムグリーンの長板に戻した。バイオツールに水滴は一粒も付着していなかった。


 おじゃまします――現在は庭からではなく、しっかりと玄関から入る。


 部屋は暗いけれど畳のリビングも、水槽も、薬品棚も―――全部見慣れた景色だ。


 創がリビングのライトを照らし、彩理はいつものように畳の上に座った。


「温かいものでも淹れようか?」


「うん。カフェオレが飲みたい」


「よし、今から淹れるよ」


 創はベージュのマグカップに淹れていた。


 ミルクが入っているが、そこまで甘くはなく、ほろ苦い。


 失恋の味、とも言えようか。彩理は現在恋愛をしていないが。


 続いて創も別で黒いマグカップにコーヒーを入れ、彩理の隣に座って飲んでいた。


 コーヒーは彩理には苦すぎる。これでは、背伸びをしたい子どもにしか思えない。


「身体は冷えていないかい?」


「大丈夫。あの傘のおかげでずぶ濡れにはならなかったよ。ありがと」


「お安い御用だ。こいつはいろんなものに変形できるから、もっと細かいものに変形させるのも不可能ではないぞ」


 細かいものに変形させる?


 彩理はこの言葉が引っかかっていた。


「……ねぇ、門が閉まったときに鍵を作って開けようとは思わなかったの?」


 彩理は疑いの目を創へと向けた。


 創は、彩理を絶叫させた張本人だからだ。


「ああ、それやったことあるよ。ミスっちゃって鍵をぶっ壊したんだ」


「できなかったの?」


「従来の鍵であれば不可能ではないんだよ。ただ、門の鍵は後で調べてわかったんだけど、ピッキング不可能な鍵だったんだ」


 苦笑しながら創は答えた。


「不可能? というか言っておいてなんだけど、ピッキングって違法だよね」


 彩理もたった今気づいてしまった。よく考えたら犯罪じゃないか。


「俺もバイオツールでほぼそっくりの鍵を制作できたが―――差し込んだ瞬間に鍵穴がキーをロックして大変なことになった。やっぱり、なんでもズルをするのは良くないな。うん、いい教訓になったよ」


 懺悔を言い終えたあと、遠い目をしながら創はコーヒーを一口含んだ。


 そんな理由から、彩理をお姫様抱っこして飛び越えるという結論に至ったそうだ。


 それでも彩理は不服だったが、創の言い分に納得もしているので許すことにして、彩理もカフェオレを一口飲んだ。


 彩理が考えるに、創の家は非常に落ち着くようだ。このままゆっくり時間が進んでほしいほどに、と。


 彩理の授業が始まってから、生活のリズムを立て直すことが大変になるだろうが、毎日創や夢という数奇な日々に出会った人に会っておきたい。


 彩理にとって今こうして創と何気ない会話を行っていることが、こんなにも楽しいのだ。


 くだらないことで笑え、新しい発見を繰り返して、未来を待つことができたら、どんなにいいことだろうか。


 そんなことを脳内でちらつかせながら、彩理たちは延々と話し合っていた。

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