第3話 温もりの手

 翌朝、彩理の愛用するスマートフォンがやかましく鳴り響いた。

 

 電話に応答したところ、高校の担任から指定された研究室へ行くように、と電話で連絡があったのだ。

 

 まいったな、と頭を掻いた。


 午前中に創の家に行こうと思っていたのだ。


 彩理の黒髪は肩のあたりまで伸び、寝癖が付きやすいため、準備が大変なのだ。


 それでも担任を通しての呼び出しとなれば行かないわけにはいかない。


 昨日のことと関連性はなく、なにか適当なガイダンスでもするのだろうかと思った。


 理系校舎の研究棟二階にある一番奥の研究室。


 相変わらずここの研究棟は、薬品の匂いが立ち込める。


 選択授業で数回向かった程度で、呼び出しで向かったのはこれが初めてだ。


 一番奥の二〇〇研究室。


 事情もわからないまま、ドアをノックする。


「はーい、入って頂戴」


 ドア越しに聞こえてきたのは女性の先生らしき声。


 研究室入口左側の責任者の名前プレートを見た。


 名前は「芦川夢」という名前。

 

 彩理は自分の目を疑い、同時に目が点になっていた。


「まさか……」


 思わず率直な感情を声に出してしまった。

 

 創の苗字も「芦川」だった。


 偶然でない限り、そんなことはありえない。


 一瞬の躊躇のあと、思い切ってドアを開けた。


「失礼します」


 緊張して言葉が震えている。


 研究室の広さは6畳くらいだろうか。


 室内奥の机に山ほど積み上がった研究用と思わしき書類、ノートパソコン、タブレット端末。手前に来客用の長いソファが一つ。


 壁際の戸棚には見たことのない生物をホルマリン漬けにした瓶や名前のわからない薬品の小瓶が連なっていた。

 

 そして現れた研究室の責任者。


 科学者が着るような白衣は部屋を探してもなく、Tシャツにジーンズという誰かと似たようなラフな格好をしている。

 唯一教授だと分かるのは首にかけているラミネートカードぐらいだろう。


 彩理より若干背が高く、細顔に切れ長の目。ボーイッシュなショートヘアー。黒縁の四角いメガネ。顔立ちや髪型のためか、実年齢がつかみにくい。


 彩理の予感は当たりつつあるのかもしれない。


「いらっしゃい。急に呼び出してしまってごめんなさい」


「新島です。は、初めまして……」

 まだ緊張は解けなかった。元々人と会うたびにこうなってしまうのだ。


 彩理はこのような状況に出くわすと何を話したらいいかわからなくなる。


 しどろもどろしている彩理に、夢は話しかけた。


「新島彩理さんね。昨日は創と話をしてくれて、ありがとう」


「え、やっぱり、創のお母さんなんですか?」


「ええ。創を創った母、芦川夢よ」

 

 声を出せないほど驚いてしまう。


 自分の所属する高等部に創と関係する人が、創りの親がいたなんて。


 今の彩理は顎が外れるほど口を開けて呆然としている。


「そんなに驚くことかしら? 大したことではないし、元は趣味だったのよ?」


 夢という名の先生は苦笑しながらそう言った。


 この二日間で信じられないことが続く中、彩理は頭を振ってはなんとか思考を取り戻した。


 そして肝心の創がいないことに気づく。


「創は家の方にいるんですか?」


「今ここの研究室に向かっているところよ。」


 夢曰く「あと五分で着くからソファで座って待っていて欲しいの」と言われた。


 創が来るまで、私は先生に素朴な疑問を投げかけてみた。


「あの、先生はどうしてわたしを呼んだんですか?」


「簡単なことよ。あなたが創に興味を持ってくれたから」


 夢はあっさりと答えてしまった。


「それだったら、わたしじゃなくてもいいじゃないですか。どうしてわたしを選んだんですか?」


 投げやりに言い返してしまった。


「それは私の直感。私が突然いなくなっても今後の創を見ていてくれる人、つまり研究の『後継ぎ』を探していたの。そこにちょうど現れたのが新島さんだったってわけ」


 論理的ではない答えに、苦笑してしまった。


「直感って、学者が言うにはふさわしくない言葉ですよね」


「そんなことないわ。芸術が完成しないことと同じように、学問にも完成は来ない。それを信じて、私は研究を続けている」


 夢の目は、自信に満ち溢れている。


 それだけ、自分の研究に誇りを持っているのだろうか。


「それで、わたしは何をするんですか?先生の研究のために何をすべきなんですか?」


「とりあえず、秋から私の授業をえらんで欲しいの。そのあとは放課後この研究室にきて頂戴」


「え、それだけでいいんですか?」


 彩理はあっけらかんとしていた。


「ええ。今は特に困っている事も少ないし、新島さんへは少しずつ私の研究を教えることができるわ」


「分かりました。ありがとうございます。こんな私にここまで教えてもらえるなんて」


「いいのよ。そこまで言わなくて」


 彩理にはとても勿体無いほど嬉しいことだった。


 ここまで必要としてくれる人たちがいるなんて。


 そう考えていると、不意にドアが開いた。


 長身に緑色のアシンメトリー、薄手のジャケットにシャツとジーンズ、スニーカーを履き、リュックを背負った創がそこにはいた。


「来たよ、母さん。あと彩理ちゃん、こんにちは」


「創、お疲れ様」


「ど、どうも」


 昨日であったはずなのに、遠い昔のように感じる。


 この感覚はなんだろう。


 心臓の鼓動が、少し速くなった気がした。


「体調はどう?」


 先生が創へ問いかける。創は彩理が座るソファの空いている部分へリュックを下ろした。


「大きく崩れたりはしてないよ。調合してもらった薬のおかげだよ」


「薬って、どこか具合が悪いの?」


 彩理は質問を投げかけた。


 創は右手を腰に当て、少し考えたあとに答えた。


「んー、どこかが悪いとかはないんだけど、俺は生まれつき体組織が不安定で、この体を維持するための安定剤を毎日飲んでいる。この薬のおかげで今まで良好でいられるわけだ」


 バイオロイドだからといって問題がないわけではない、ということなのだろう。


 そう思っていると夢が補足のために創の言葉にこう付け足した。


「もし服用しなければ、数日後には一気に老化を起こして体組織が完全に死滅して、砂の城のように崩れてしまうの。つまり、人でいう死を意味する。私がオリジナルの生物を作り出した時にそれがわかったの」


 その瞬間を脳内で想像した瞬間、ゾッとして頭を抱えてしまった。


 もしも自分の目の前で創が死を迎えたら……。


「安心して。そのために新島さんがいるのよ」


 夢から自分の名が出てくることに妙な疑問を感じた。


「そのため、に?」


「今までは私が創をメンテナンスしていたのだけれど、学会に参加するうちに忙しくなりそうなの。そこで、新島さんが私の代わりにメンテナンスをして欲しいの。それがあなたにお願いする最も重要な『研究』よ」


 メンテナンス?


 機械製品などに使う言葉であるが、身体を切り開いて解剖する、とかではなさそうだ。


「先生・・・私に、それができるのでしょうか?」


 夢に質問した彩理だったが、心配をさせまいとわざとらしく間に入った創が明るく前向きに応じた。


「だーいじょーぶだって! 俺は薬のストックを家や服の至るところに持っている。最初は彩理ちゃんはその薬の一部を持っていてほしい。万が一のためにもね」


「そういうこと。最初は私の作った体組織への安定剤をいくつか持っていてほしいだけだから。作り方はゆっくり教えるわ。簡単よ」


「は、はぁ」

 

 彩理は冷静さを取り戻した。

 

 最初は創のために使う薬を持っていること――――これが彩理に託された最初の「研究」であると。


 創といることによって観察から、何が変わっていくか、どのように成長するかを調べていくのだろうか。


 夢は優しくフォローしてくれている。


「新島さんそんな難しい顔しないで―――あ、もうこんな時間。これから先生方が集まって会議なの。創、新島さんをよろしくね」


 そう言いながら夢は、急いでタブレット端末を持ち扉へ向かった。


「うん、わかったよ―――母さんも気をつけて行ってきてね」


「あ、お疲れ様です」


「じゃあ、行ってくるわね」


 扉が閉じた。


 昨日と同じように彩理と創の二人きりになった。


 異なっていることは研究者である夢の研究室にいるということぐらいか。


 彩理の隣に座り、拳を作った両手を突き上げて「ん~」と伸びをしていた。


「創って、本当にバイオロイドなんだ――やっぱり苦労しているとこがあるんだね」


「そうかな――もう慣れっこだよ。小さい頃はまだ薬が完成してなくて、培養液に浸かってから寝ていたんだ。そのあと薬ができても三〇種類くらいあった。そこから少しずつ研究で減らしていって、今は五種類まで減ってきている」


 簡単に話しているように見える創だが、話す内容は生々しく感じた。


「――そうなんだ。自分がバイオロイドだって自覚したのはいつごろ?」


「物心がついたあたりかな。俺、一切学校通ってなくてさ、母さんや周りの先生たちが勉強を教えてくれたんだ。年上の人ばかりで、俺と同い年ぐらいの友人はいなかった。だから彩理ちゃんと出会った時は嬉しかった。初めてだよ。こんなに年が近い子と仲良くなれたの」


 創は彩理のことを、嬉々として話している。


 笑っている時の表情が純粋無垢な子どものようで、自分まで嬉しくなってしまう。


 彩理が思うに、これが潜む母性本能なのだろうか。


「ありがとな―――俺と出会ってくれて」


 そう思った瞬間、何かが溢れたような感覚が彩理の肌を伝った。


「彩理ちゃん、どうした?涙出てる」


「あれ――なんで、どうしたの、か、な」


 誰かに必要とされて、嬉しくなったのかやりたいことが空っぽになった過去のことを思い出したのかはわからない。


 しかし、この気持ちは―――おそらく嬉しいのだろう。


 隣には自分を認めてくれる人がいる。


 正確には人ではないが、人らしさを持ったバイオロイドが、隣にはいる。

それが嬉しかった。


 創を通して人の温もりを知ることができたのだから。

彩理の意思とは関係なく、涙がこぼれ落ちていく。

 

 声を出すこともできず、ただ、うつむいて嗚咽を漏らすことしかできなかった。


「これからよろしくな、彩理ちゃん」


 頷いておいた。今は言葉を発せないからである。


 創の手が、そっと彩理の手を繋いだ。


 ナチュラルに手を握ったことは見逃そう。


「彩理ちゃんは、紛れもなく俺や母さんの大事な人になった―――俺が手を繋いでいるのはその証だ」


 ますます涙が止まらなくなるじゃないか。


 泣きながらも彩理は、この人たちの力になると決心した。


 彩理を救った創と夢の奇妙な親子。


 藁にすがるためではなく、彩理自身が決めたことだ。


 この日を境に彩理の環境は大きく変わっていくことになるのは目に見えていた。

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