第2話 「人」であって「ヒト」じゃない
彼の家は目と鼻の先だった。
名前のわからない植物を入れた植木鉢が点在する庭だった。
「靴は玄関の方へ置いておくよ。麦茶持ってくるから」
赤の他人の家に上がり込むなんて何ヶ月ぶりだろうか。
今ではなかなか見られない畳が敷いてあるリビング。
広くはないが、薬品類らしき戸棚がそびえ立つせいか、天井が遠くに感じる。
時折、リビングの片隅の水槽に色とりどりの熱帯魚が泳いでいる光景が目に留まる。
理系の大学を選んだけど、名前は知っていてもどんな生物とか薬品とか、専門的なことはよくわからない。
薬品臭くはなく、畳の香りが風で運ばれて広がっている。
低い足のテーブルがぽつんと部屋の中心にある。
彩理は創と机を挟み、向かい合って話そうとしたとき、初めて顔を見ることができた。
髪は長めでアシンメトリー。
染めているのか、緑色が掛かっている。
彩理と同じく学生のあどけない雰囲気があるものの、違和感のある落ち着きを保った表情を持ち合わせている。
切れ長の細い目、細い顔。
声を除けば女子に見えなくもない。
相変わらず出会った時のTシャツにデニム。
「どうぞ」と注いだ麦茶を渡してくれた。
「ありがとう。あの戸棚の瓶は何に使うんですか?」
あまりに、素朴な疑問だった。
「ああ、俺の母さんが使っているんだよ。学者でさ、今は近くの大学で生物学を研究している。あと、タメ口でいいよ」
だから薬品系の瓶が多いということなのか。
創に言われたとおり、慣れないタメ口で話すことにした。
「頭、いいの?」
「どうだろうね。学者なんて奇人変人しかいないし」
「どこの大学も、そうなのかな?」
普通の学生が思っていそうな考えを私が持っていないわけがない。
「それは俺もわからないな……おっと、本題が反れた、そういや何で今日を選んだのさ」
いきなり現実へ引き戻され、彩理は持っていた麦茶をこぼしそうになった。
「無理しない範囲で話せばいいから」
創はできるだけ混乱させないように口調を柔らかくして彩理に伝えた。
「わかった……」
ここまで自分で苦しくなってしまったのは、中学から階段をかけ上がるようにして一気に学んできてしまったことが挙げられる要員の一つかもしれない。
両親から公立の理系を目指しなさい、そう言われて進んできたのだ。
数学、科学、英語は高い位置で平均点を取っていた。
しかし、歯車が大きくずれてしまったのは、狙っていた入試に、落ちてしまったあたりからだ。
運良く滑り止めで受験した、現在彩理が通う鍵岡学園高等部に入学することはできたが、同時に気づいてしまったのである。
自分のしたいこと、すべきことがあって学習していたわけではなく「両親から教わったこと」をこなしているだけに過ぎなかった。
気づいた瞬間に、頭に自己矛盾を抱えてしまった。
一体何のために学んでいるのか、全くわからなくなってしまった。
なぜ今まで気づくことができなかったのだろうと、自分を責めることしか頭にはなかった。両親にも相談したが「通っていくうちにわかるから、たくさんの授業に触れなさい」というばかりで、答えは分からなかった。
授業自体は今までの貯金があったため難なくこなせたが、新たな環境で個室の寮暮らしも始めていたため、慣れない家事をしばらく続けていくうちに、疲弊していった。
徐々に寮やクラスの生徒と話すこともうまくいかなくなり、ただ授業に出て、課題を提出して、遅刻ギリギリまで自分を守るようにうずくまったまま動かない、この繰り返しだった。
今までの吐き出せないストレスが溜まりすぎて、自傷するまで追い込まれ、その快楽にも耐性が付属し、本当にどうしたらいいかわからなくなってしまったところに、創という男はやってきたのだ。
「……こんな感じ……私は、一人で苦しかったんだな……もう……どうしたらいいか」
「一人で、頑張りすぎたのかもな」
彩理は頷いた。
創は麦茶を一口含んだあとにそうつぶやいた。
「要は自分が何をやるべきか、悩んじまったわけだな。本当になんもないのか」
「——ない」
声を絞ってもそれしか出てこない。
「んじゃあさ、俺の『母さん』の研究でも調べたらどうだ?もっとも、俺も『研究材料』の一人なんだが」
「——へ?」
素っ頓狂な声と共に首をかしげないわけがない。
研究材料?
「まぁ、とりあえず実験するから見てなよ。キッチンからタオル持ってくる。あとカッター借りるぞ」
「は、はい……?」
創が持ってきたのは濡らしたタオル、そして彩理の購入したカッターナイフ。
カッターを右手に持った男。少しだけ刃を出した。
そのまま、何のためらいもなく自分の左腕に打ち下ろし、刃が腕に刺さった。溢れ出した鮮血が机の上にインクのように落ちていく。
何の意図で“実験”を行っているのかわからなかった。
目の前に見えているのはリストカット。
自傷行為だ。
慣れていたとはいえ、客観的に見ると慌ててしまう。
どうしよう―――若干のパニックに襲われる。
「え?
ちょっと! そんなことしたらダメだって! 神経まで傷が入っちゃうよ!」
「大丈夫。あんただってそれくらいのこと、よくしてるだろ?」
一瞬我に返ったが、あれは自分の意思でやっていることだ。
他人のを見るのは辛い。
そのまま創はタオルで自分の傷跡から出た血液を拭った。
「それとこれとは別! 他人が自分を傷つけてるのは見たくない!」
「もう大丈夫だから。ここからが刮目すべき部分だ」
「そんなことより早く止血して腕を心臓より高く……って、なん……で?」
たった数十秒の出来事。創の左腕は既に血が止まり、少しずつ傷が塞がり始め、最後には自身で傷を入れた形跡すらなくなってしまった。
「……」
唖然としてしまった。これは医学が進歩したためなのだろうか?
そうだとしたら現在の万能とされていた細胞はとっくに昔の技術ということになってしまう。
机に落ちた血も拭き取り、かくして創の“実験”は終了した。
落ち着きを取り戻し、再び机を挟んで座る彩理と創。
「結論から言うと、俺は『人』であって『ヒト』じゃない。『母さん』は生み、いや、創りの親ではあるけど」
「人・・・じゃない?」
彩理は我を疑った。
「そ。戸籍上は人だけどさ、正確には『バイオロイド』っていう人造人間なの」
「え――えええ!?」
バイオロイド? 人造人間? さっぱり状況がつかめなかった。
彩理の勉強したことでここまで精巧な人造人間なんていたのだろうか。
「全身が機械のヒューマノイドロボットってあるだろ?あれの生物版だ。つまり、大半を人以外の生物の細胞を模して創造したんだよ。例えばさっきの傷口の再生能力は身体の一部がちぎれても再生できる貝の細胞を応用したり……俺の髪の毛は自毛だけど応用した植物の葉緑体が混ざっていて、陽に当たると緑がかって見えるんだ。ほかにも様々な生物の細胞が応用されて作られているらしい」
わからないことが多すぎる。
若干のパニックを発生させている彩理だった。
あらゆる言葉を使って説明しようにも、まったく表現を浮かび上がらせることはできす、ただただ信じられなかった。
「え……お母さんはどうしてそこまでして、創を作ろうと思ったんだろう……」
「最初は自分の趣味程度の研究でバイオテクノロジーを使ったオリジナルの生物を作っては実験していたらしい。でも、再生医療用の新たな細胞を知り合いの教授と共同開発していた時に、人を創るという考えが浮かび上がって、こっそり作っていたそうだ。それが今の俺なんだけど」
嘘のようだ。彩理は言葉を失い、あっけにとられてしまっている。
それでも言葉を振り絞って反論する。
「ちょっと待ってよ。こないだノーベル賞でやっと万能に使える可能性のある細胞を開発したのに、それよりすごい技術を創のお母さんは持っていたの……?」
「俺も信じられないが、今こうして生きているんだ。不思議でしょうがない」
「新聞で報道とかされなかったの?学会とか科学雑誌とかに掲載されるはずじゃ……」
「いや、母さんや知り合った教授たちは俺を隠すことにしたんだよ」
「どうして?」
再生医療が可能なほどの技術は、今後必要だと考えられるはずだ。
もっと広く知れ渡るべきだと思ってもいい。
しかし、創は自分の言葉で彩理へ丁寧に説明した。
「まず、俺みたいに人と同じように生活し、自我を持っていたとしたら人としての権利とか、そういうものをどうしたらいいか、倫理的に混乱するんだよ。それに大量生産されて戦争のためのコマにされかねないだろう?だから、周りと同じように普通の『子ども』として、そして母さんは『母親』として俺を育てたんだ」
ハッとした。
新しい技術は人の未来のために使用される事も、悪用されることもある。
悪用されるリスクを考えて発表しなかったというのか。
「でも、どうしてわたしなんかに、話してくれたの?」
「だって、今日が寿命なんだろ?冥土の土産にでも持って行って話のネタになるかなと思ってな。でも彩理ちゃん、すげぇ真剣に聞いているんだもん。興味があるんだって分かってしまうくらい」
「あ……」
確かに、心臓を握りつぶすほど苦しかった気持ちがいつの間にか消えていた。
「今は……生きていたい。だって創は、研究してもいいって言ったんだから。私はあなたを研究してみたい」
この気持ちはごまかすためのものじゃない。
本心から自然と言葉が出ていた。
こんな不思議な感覚、久々でいつから忘れてしまったのだろう。
興味を持つことがこんなに楽しいだなんて。
「嘘はつかない。母さんが帰ってきたら、相談してみるよ」
「え、本当にいいの?」
創は快く承諾して、彼の「お母さん」に伝えてくれるらしい。
「母さんの学問は取り組んでいる学者が少なく、かなり先進的なんだ。きっと喜んでくれると思う」
彩理は思わず顔がほころんでしまったため、とても変な表情をしているのだろう。
「ありがとう。そろそろ帰るね」
お邪魔しました、言ったあとに持ってきたカバンを肩に引っ掛け、玄関先で靴を履き、ドアに背を向け、玄関に来た創を見た。
「そんなに苦しむ必要もないんだよ、本当はね。彩理ちゃんの秘密を共有できて、俺は良かった。俺に興味を持ってくれる人が出来て良かった」
静かに頷く彩理だった。
「多分、創と会ってなかったらわたし、あのまま死んでいたよね……」
重荷が外れたように、彩理の表情は柔らかくなり、瞳には輝きが現れていた。
「かもしれないな。もう大丈夫だから。話し相手がいないようであればまたここに来なよ」
「うん……わたしの居場所でいいんだよね?」
創は黙って頷いた。笑顔が浮かんでいる。
あっ、そうだ。と思い創に話しかけた。
「創は人ではないけれど、回りの人間よりも『人』らしいと思うよ」
「それはありがたい。お礼にまた相談にのってあげるよ」
「また明日来るよ。創のお母さんのことも気になるからね。ほんとに、ありがとう」
「ああ、じゃあな」
玄関のドアを閉め、私は寮への帰路を辿る。
すっかり空はオレンジ色に染まっている。
会話をしていた時間が三十分のように感じるほど、話していたのかもしれない。
創という人であって「ヒト」でない誰かが、彩理には強烈に印象に残ってしまった。
本のページの続きが気になるように、宇宙の先を見たくなるように、気になって仕方がない。
考え事をしたためか、甘いモノが食べくなった。
ちょっと高めのデザートが欲しくなったのだ。
今日ぐらいは贅沢しようとコンビニへ駆け込み、彩理はショートケーキを買った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます