第1章 クロロ

第1話 路地裏の出会い

日本という国にある首都圏の郊外。


 七月の末は非常に気温が高く、午後二時の最高気温はとても外出できるほどではない。

 

 この街に存在する、鍵丘学園かぎおかがくえん


 小学部、中等部、高等部、大学とエスカレーター式に進んでゆく。

 

 故に学内は非常に広大な敷地面積を有する。


 高等部を例にすると文系と理系で校舎が独立される建造物、木々や草花が校舎周辺に生い茂る広い中庭、遠くからやってきた学生のために高等部専用の寮も備えられている。


 授業のスタイルも先進的で、従来の固定された時間割の他に選択可能な授業を積極的に取り込んでおり、一貫して生徒に対する自主性と独創性を尊重する校風である。


 高等部一年目の期末試験をすべて終えた新島彩理にいじまあやりは、心臓の伸縮を加速させながら早歩きで学外の路地裏へと急行していた。


 最後に立ち寄った青色のコンビニ。

 

 購入したのはカッターナイフとカモフラージュ用にノートとテープ。


 誰もいなことを確認し、呼吸を整え、額に滲む汗を拭った。


 周囲は家の壁で囲まれて影を作っている。


 行おうとしていることは、二者択一、死か後遺症か。


 夏でも長袖の制服じゃないといけなくなるほど、彩理は左腕に沢山の傷を平行に作った。


 脳内の快楽物質であるβエンドルフィンだけが苦痛を緩和させていた命綱だった。


「罪悪感は残るけど……」


 今も新しい傷を作ろうとしている。


 心の中では、早い段階で寿命を終えることを懇願していた。


 何もかも嫌だ、と。


 遺書は書いていないが、現場を発見されたのなら、目撃者は容易に理解できるずだ。


 カッターナイフの刃を伸ばし、あてがったのは首。

 

 かすかに流れる風が彩理の長い黒髪をなでていたた。


 頚動脈か頚静脈かはわからず、あらかじめ調べておくべきであったと今更ながら後悔していた。

 

 時すでに遅し、どうにでもなれ。


「さようなら」


 ああ、もうすぐ終われるのだ、もう苦しまなくていいのだ、眠ろう。


 しかし、彩理の覚悟も虚しく目の前から声が聞こえた。


 彩理はその声の主と対峙してしまった。


「おーい、そこで何してんだ?」


「ひゃっ!?」


 真正面に陽気そうな男、二十代だろうか。


 彩理より身長も歳も上のように伺える。


 影に隠れて顔までは見えなかったけど、Tシャツにデニム、足はサンダルというラフな格好をしていた。


 変な声と共にカッターナイフを落としてしまった。


 何も声が出ない。


 切ろうとしていたなんて言えない。


 怖い、ただただ怖い。


 逃げたい、そう思っても、足がすくんで動くことができない。

「あ……あ……」

 

 最悪だ。


 人に見られてしまった。


「―――大丈夫。落ち着いて。このカッター、あんたのだろう?しっかり持ちな」


 男は冷静だった。刃を収めたカッターを彩理へ戻した。


「あ……は、はい……」


 これしか言葉が返せなかった。


「もしかして、今日は決行日か? 女の子が路地裏で刃物持っていたら、それしか浮かばんけど」


「え……あの……」


 陽気そうに話すが、それ以前に彩理は何かを悟られたと直感で自覚し、余計にしどろもどろになってしまった。


「ってことは図星かぁ――もし今日がそうなら、俺に何があったか話してくれないか? 別に引き止める気はない。ただ、せめて失う前に話せる人に話して置いた方が、悔いなく終われるんじゃないかっていう俺の持論でしかないんだがな」


 一瞬、事態が飲み込めなかった。


 この男、実に変だ。


 本来、自殺ないしは自傷という行為は社会的にタブーとされている国が多い。


 この社会なら「自殺は甘え」とか「親より先に死ぬな」などと発言を受けるたびに余計に追い込まれてゆく事態に直面するとも知らずに。


 一年で自殺者は三万人―――いや、十万人という説もある。


 マジョリティを重要視する社会から思考するのならばこの男は変人だと考える。


 むしろ死ぬことを助長しているのだろうか?


「無理ならいいよ。話すことができないほど辛いならね。これで俺は失礼――」


「あ……あのっ……話しても……いいですか?」

 

 男の声を遮って、思い切って話を切り出した。


「聞くだけならタダさ。うちでお茶も用意する。ついてきな」

 

 男はニッとして口の端を釣り上げていた。


「あ、ありがと……ございます」


「お安い御用だ。名前はなんていうんだ?」


新島彩理にいじまあやりです」


「彩理ちゃん、か。いい名前だ。芦川創あしがわそう。創って言うんだ。呼び捨てで構わない」


 気さくな対応を行う創と呼ばれた男は来た道を戻ってゆく。


 そして後ろを子犬のように後をついていく彩理だった。

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