第35話
鏡に映った自分の顔を見て、ため息が出た。
これが自宅の鏡ならまだ良かったが、ここは会社のトイレ。
まだ数時間は仕事をしなければいけないというのに、徹夜明けみたいな顔だ。
確かに眠りも浅かったし、寝不足なのは間違いないが。
今日は朝から仕事にも集中できていない。
原因はわかりきっているが、だからと言ってこれは良くない。
もう一度洗面所の水で顔を洗ってからトイレを出る。
早くデスクに戻って仕事を続けなければ。
そうじゃないと、残業が確定してしまう。
「えーっと、トイレの出待ちは趣味が悪いぞ」
「バカじゃないの?」
廊下に出た俺を待っていたのは、壁に寄りかかりながら腕を組んでいるスーツ姿の女性――咲奈だった。
同じ会社で同じ部署に配属されているのだから、こうして顔を合わせるのは普通だ。
ただ、彼女の様子を見るにたまたま、ということはないだろう。
有無を言わせぬ迫力が、内側から放たれている。
すぐに察したから軽口を叩いてみたのだが、逆効果だったかもしれない。
「ちょっと来て」
壁から離れた咲奈は、顎で廊下の奥を示して歩き出す。
これでついて行かなかったらどうなるか、想像するのも怖い。
咲奈が向かったのは、少し行ったところにある休憩用のスペースだった。
自販機とちょっとしたテーブルや椅子が置いてある、息抜き用の場所だ。
喫煙所も併設されているが、そっちは完全な個室になっている。
幸いにも、咲奈と俺以外に姿はない。
「はい、これ」
「……自分で買うのに」
「遠慮するとこじゃないでしょ」
「そうだな。じゃあその、ありがたく」
咲奈が当たり前のように自販機で買ったコーヒーを受け取り、とりあえず口をつける。
苦みよりも甘ったるさを先に感じる味だが、悪くはない。
「で? どうしたわけ?」
同じようにコーヒーを一口味わった咲奈は、大部分を省いてそう切り出して来た。
十分伝わると確信しているのだろう。
もちろん、その顔とこの状況、奢られたコーヒーから言いたいことはわかる。
「別にその――」
「何回寝落ちしそうになったか、わかってる?」
「……たまにはあるだろ、寝つきが悪い日」
「まぁね。でも今日のあんたは目に余る。そもそも集中できてないでしょ」
「よく見てるな……」
「気づく人は気づくレベルってこと。私以外にもたぶんいるし」
「それは、良くないな」
ただでさえここのところ、仕事で大した成果を出せていないのだから。
就業時間中に居眠りしそうなところを見られたら、低空飛行中の評価を現状維持すらできなくなる。
「悪い。気を付けるよ」
「それは当たり前。じゃなくて……はぁ。誤魔化すつもり?」
俺が彼女のちょっとした仕草や表情から察するように、咲奈にもわかってしまうのだろう。
単純に俺が寝不足なだけではないということが。
それを誤魔化そうとするのは、たぶん悪手だった。
だが、どう説明すればいいというのか。
今の俺には、それすらわからない。
「なんか、今の達明を見てると思い出す。あの頃の……別れる少し前のこと」
「……すまん」
さすがに咲奈でも、当時のこととなると声のトーンが下がる。
表情に翳りこそ見せないが、普段よりも声が強張っていた。
「まぁ、余計なお世話って思われるかもしれないけど、見過ごせる限度ってのがある」
どうやら今日の俺は、その限度を超えてしまっているようだ。
そこまでとは自覚していなかったが、咲奈がそう言うのなら間違いはないのだろう。
「仕事に支障が出るのは困る。会社としても、あんたとしても。そうでしょ?」
「……だな」
「悩み、あるんでしょ? 寝不足になるくらいの」
「お見通しか」
「さっき言った通り」
なるほど、別れ話を切り出す前は寝不足になっていたな。
毎晩ずっと考え、決めた答えをどう伝えればいいかと。
数分前に鏡でみた顔は、確かにそうだったかもしれない。
「一応上司だし。他の人には話せない悩みでも、私になら話せない?」
咲奈の立場を考えれば、それも仕事のうちなのだろう。
いや、それだけじゃないのは十分わかっているし、咲奈の気遣いはありがたい。
が、本当にどう説明したらいいものか……。
「あの女の子が原因?」
「……まぁ、そうとも言えなくもないけど」
そうだった。咲奈はあの子のことを知っているし、なんなら会ってもいたんだ。
うっかり失念していた、と思っておこう。
「まだ一緒なんでしょ、あの部屋で」
全てを見透かしたような声に、思わず目を逸らしてしまった。
どちらにせよバレているのだから、俺の立場が弱くなるだけだというのに。
しかし、どうしてわかったのだろうか?
あの飲み会以来、彼女について話したことはないのに。
いや、今の問題はそこじゃない。
たとえ同居していることがバレていて、悩みの原因が彼女にあると見透かされているとしても、事情が事情なだけに話しようがない。
彼女は正義の味方で、怪我をして帰って来ただなんて。
なにより、そんな彼女になにもできない自分の情けなさを吐露するなんて。
「……そう」
黙り込む俺の肩を軽く叩き、咲奈は飲み干したコーヒーの缶をゴミ箱に入れる。
「とにかく、仕事だけはちゃんとして。わかった、佐原君?」
「もう一回顔、洗ってから戻るよ」
「うん、そうして」
それだけを言い残して、咲奈は一足先に戻って行った。
なにも言わなかった俺に対して追及しなかったことを、優しさだなんて思ってはいけない。
訊かずに終わらせてくれた咲奈の気持ちに応えるためにも、まずは仕事をちゃんとしよう。
そうしなければ、悩む資格すらきっとないのだから。
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