第36話

「た、ただいま」

「お帰りなさいです。今日もお疲れさまでした」

 彼女が当然のようにそう返してくれることに、自分でも驚くほど安堵していた。

 仕事のほうは多少危うくはあったが、どうにか残業にならないよう遅れは取り戻せた。

 退社する際、咲奈がなんとも言えない顔をしていたが……。

「なんだか汗だくですね」

「ん? あ、あぁ、暑かったからな」

「天気良かったですもんね」

 半分は天気と気温のせいだが、それだけではない。

 自分でも意識していなかったが、駅からここまで、歩くペースが早くなっていたから、そのせいだろう。

 スマホで連絡が取れていたので、彼女が今日はちゃんと部屋にいるとわかっていたのに、どうしても不安が拭えなかった。

 料理をしている彼女の姿を見て安堵したのは、それがあったからだ。

「先にシャワー、浴びたらどうです? 出来上がるの、もう少し先なので」

「そうだな。じゃあ、そうするか」

「お湯、張ってなくてすみません」

「いや、いいって」

 帰宅早々シャワーを浴びるハメになっているのは、自業自得なのだから。

 スーツをハンガーにかけ、タオルと着替えを持って浴室に入る。

 シャワーを浴びながら、汗と一緒にこびりついていた不安も洗い流す。

 今のうちに気持ちを落ち着かせておかなければ、変なことを口走ってしまいそうだった。

 寝不足による眠気のほうは、今のところ感じない。

 とは言え、今夜は悩む暇もなくすぐ眠れそうな気がする。

 手早くシャワーを浴び終えた俺は、タオルで髪を拭きながらリビングに戻った。

「もう上がったんですね。これなら温め直す必要ないかな」

「えっと、チャーハンか」

「以前教えてもらったレシピで作ってみました。不安だったので、おかずのほうは出来合いのものですけど」

「妥当な判断かもな」

 いつもの場所に座りながら、テーブルに並んだ皿を眺める。

 メインがチャーハンなので、おかずには中華系を選んできたらしい。

 全部を作ろうとしなかっただけ、成長していると思う。

「失敗はしてないと思いますので、採点、お願いしますね」

「採点って……とりあえず、いただきます」

「はい。いただきます」

 手を合わせてレンゲを手に取る。

 チャーハンのレシピは、俺が昔バイトしていた飲食店で学んだものだ。

 なので、ちゃんとレシピ通りに作れば、店の味をそれなりに再現できる。

 材料の質などで多少は見劣りするだろうけど、家庭で食べる味としては文句なしだろう。

「どうです?」

「ん、よくできてる。調味料の分量とか、ちゃんとできるようになってきたな」

「当然です。日々進歩してますから」

「みたいだな」

 これなら安心して食べられると笑いながら、二人で食事を続けた。

「ところでだけど、体調とか、大丈夫だったのか? 外、出たんだろ?」

「見ての通りです。動くのに支障はありません。だから安心してください」

「ならいいんだけどな」

 朝はまだ包帯などを腕に巻いていたが、今はそれがない。

 買い出しに行く際、取ってしまったのだろう。

 テーブルを挟んで見る限り、目立つ傷痕はない。

 本当に一日足らずで、完治してしまったようだ。

「そっちこそ、大丈夫でした? 会社で居眠りとかしてないですよね?」

「――ん、大丈夫だ」

「あ、嘘ですね、今の。一瞬詰まってるし」

「……居眠りは、してない」

 だから嘘ではない、と主張する。

 危ういところまでは行きかけたけど。

 そんな俺の様子を見て、彼女は呆れたように笑う。

「社会人としてそれはどうかと。まぁ、私が口出すようなことじゃないですけど」

「ちょっと眠くはあったけど、心配されるほどじゃないって」

「確かに今は大丈夫そうですけど」

「問題があったら、今頃残業してたって」

「あ、なるほど。じゃあ、本当に大丈夫だったんですね」

 彼女は小さく『良かった』と呟き、自分の料理を自画自賛しながら食べる。

 多少なりとも気にしてくれていたのだろう。

 寝不足の理由が理由なだけに。

 彼女といい咲奈といい、俺は心配をかけてばかりだ。

 原因がなんであれ、そのままでいいわけがない。

 二人とも、俺よりずっと大変なものを抱えているのだから。

「次はイタリアンとか挑戦しようと思うんですけど、どうです?」

「なんでそうなる?」

「ほら、和食と中華はクリアしましたし。もう一段階レベルを上げてもいいかなって」

 イタリアンが和食や中華より上かどうかはともかくとして。

「まだ早い。というか、チャーハンが作れたから中華はクリアとか、怒られるぞ、料理人に。和食もそうだけどさ」

「正論ですけど、いいんですか? それだと和食とか、何日も続く感じになりますよ?  飽きません?」

「下手なイタリアンよりはずっといい」

「あ、その言い方どうかと思います。訂正してください」

「別に料理が下手って意味じゃ……それくらいわかるだろ?」

「それはそれってやつです。あとたぶん、私がイタリアン作ったら失敗するって思ってますよね、心の中で」

「ノーコメントで」

「ほらやっぱり!」

 彼女のテンションに釣られてしまったのか、ついそう答えてしまっていた。

 あれだけあった不安や濁った感情が、綺麗に溶けていく。

 どこにでもあるような、当たり前の食事風景。

 たった一日なかっただけの日常に、俺は笑えるくらいの安らぎを覚えていた。

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