第34話
欠伸を噛み殺しながら、用意してもらったトーストを齧る。
「眠れなかったんですか、昨日」
「ん、まぁ……」
同じようにトーストを齧っている彼女に対し、曖昧に頷く。
あんな怪我をして帰って来たのに、彼女はあまりにもいつも通りすぎた。
まだ包帯や絆創膏はしたままだが、傷が痛んだりしている様子はない。
その表情にも、陰り一つなかった。
俺のほうがよっぽど不景気な顔をしているに違いない。
「もしかしてですけど、私のせいだったりします?」
トーストを食べ終えた彼女は、マグカップに口をつけてから改めて俺を見る。
質問の形式を取ってはいるが、ほとんど確信していそうだ。
「そんなにわかりやすい顔、してるか?」
「はい。それと、あなたの性格を考えるとそうかなって」
「まいったな」
出会って間もないというのに、もうそんなことがわかるのか。
単純に俺がわかりやすいだけかもしれないけど。
なんにせよ、隠しても仕方がない。
「大丈夫なのか? その、いろいろと」
「心配しすぎです。あれくらい、一晩あればある程度治りますから」
彼女はそう言うと、頬の絆創膏をはがし、右腕の包帯も取って見せる。
「ほら、この通り」
「……みたいだな」
手当てをしたのは俺だから、どこにどんな傷があったのかはわかっている。
だからこそ、あったはずの傷がほとんどなくなっていることに、俺は驚きを通り越して呆れてしまった。
頬の切り傷は跡形もなく、腕の傷と痣は薄っすらと残っている程度。
腕を取ってマジマジと見ても、もしかしたら気づかないかもしれない。
そこに怪我をしていたと知っている俺ですら、それが信じられないくらいなのだから。
まだ半日程度しか経過していないのに、驚異的な治癒能力だ。
「これなら確かに、手当てなんていらなかったな」
最初から知っていたら俺だって……いや、どうだろうか。
一晩あれば治るからと言って、そのままにしておくのはやはり、違う気がする。
あくまで気持ちの問題なので、彼女にしてみたら余計なお世話だったかもしれないが。
「私は嬉しかったですよ。心配してくれたんだって実感できて」
「心配させないのが一番いいんだけどな」
「……えぇ、そうですね」
まただ。
彼女の表情に一瞬だけ古傷のような痛みが浮かび、すぐに消え去る。
俺と出会う前に抱えた、彼女だけのなにか。
「この感じだと、夜にはもうすっかり元通りだと思います。だから今日の夕飯は期待しててください」
「それ、治る前に料理するってことだぞ」
「誤差の範囲です」
彼女がそう言うのなら俺としてはもうなにも言えないので、判断は任せるしかない。
こうして話していると、本当に怪我をしたなんて思えない。
治癒速度もそうだが、あまりにも彼女が平然としすぎているせいで。
日常生活に支障はないのだろう。
けど、怪我をしたことは事実で。
そこには間違いなく、傷による痛みがあったはずだ。
なのに彼女はそれを一切感じさせない。
だから、だろう。
俺の中で上手く消化しきれないのは。
「またその顔……本当にもう、やれやれですね」
「……仕方ないだろ」
呆れたような声の中に優しい色を混ぜて、彼女は肩を竦める。
これじゃあ俺が、意地を張っている子供みたいだ。
そんな俺の様子を見て楽しげに笑うのは、どうかと思う。
「本当に心配しなくていいんですよ。こんなのはいつものこと。慣れてますから、私」
「慣れてるって……」
「まぁ、誤解されそうな言い方になっちゃいますけど、痛いのは慣れてるんです、本当に」
俺にとっては衝撃的すぎる言葉だというのに、彼女の表情は明るい。
本当になんでもないと、否定のしようがないくらいにその笑みが物語っていた。
傷を負うのは彼女の日常であり、特別なことなどなにもないと。
言葉にしがたい断絶が、はっきりと見えた。
「伊達じゃないってことですよ、正義の味方は」
俺には到底理解できない世界の、彼女の日常。
彼女にとっては、俺とこうしている時間こそが非日常なのだろう。
それが嫌というほど、わかってしまう。
「どうして、君みたいな女の子が……」
にも関わらずこぼれてしまった疑問に、彼女は一瞬きょとんとしてから、僅かに首を傾げて表情を緩めた。
「そうなっちゃった、としか言いようがないですね」
そして、これ以上ないほどに曖昧な答えを口にした。
「…………」
どういう意味なのか、訊いてしまいたかった。
もっとはっきりと、どういう経緯で正義の味方になったのかを。
いや、それだけじゃない。
もっと先の、深いところまで。
――君は、何者なのか、と。
だがそれを許さなかったのは、彼女の笑顔だ。
どこまでも優しく見えるが、あらゆるものを弾き返す硬い笑み。
明確に線を引かれた。
これ以上は立ち入らないで欲しい、と。
「さて、片付けちゃいますね。はやく着替えないと電車、遅れちゃいますよ?」
「っと、そうだな。じゃあ、頼む」
「はい、任せてください」
この話はここまでだ。
彼女が望まないのなら、俺にはどうしようもないのだから。
二人分の食器を持ってキッチンに向かう彼女に背を向け、俺はクローゼットを開けてスーツに手をかけた。
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