ハルキ13.白昼夢

 文化祭から10日経ったらしい。らしい、というのも、おれはあの日から自分の部屋のベッドで体を横たえていることが多く、時間の感覚が鈍麻していた。それでも今日は、義典さんが「もう10日目だし、俺も瑠美も仕事休めなくてごめんな」と言い残して家を出ていってしまったので、10日経ったということが分かった。


 部屋の中はイーと耳鳴りが聞こえるくらい静かだ。それでも締め切った遮光カーテンの外から時折車の走行音が通り過ぎてゆく音が届き、琴音が死んでも、おれが部屋でじっとしていてもお構いなしに時間は過ぎていくことを実感する。おれの体もまた、空っぽで何に対しても反応しなくなった心とは裏腹に、呑気に空腹を訴えるし喉も乾く。枕の横のスマホを見ると、午後3時を過ぎていた。ついさっき、瑠美さんと義典さんが出ていったはずだと思っていたけれど、いつの間にか自分が寝落ちしていたことにも気づかなかったらしい。


 おれはベッドにへばりついた自分の体を剥がした。そこでふと、今は家に自分一人であることを思い返して、財布とタバコの入ったポーチとブルゾンを持って、浴室や台所になるべく目を向けずに外に出た。

 上空には薄く雲が敷かれ、この時季にしては空気が少し湿っていた。おれはブルゾンのジップを首まで上げると、玄関脇に立てかけてあった自転車のサドルの露を軽く払う。


 自転車を漕いで最寄りのドラッグストアにたどり着くと、飲み物の陳列棚から緑茶のペットボトルを掴み取った。傍で品出しをしていた店員が、平日の日中に学校も行かず寝癖もそのままに買い物をしているおれに対して、ちらちらと怪訝な視線をよこしてきたが、それを無視して緑茶をレジに持っていく。

 支払いを済ませて出て行こうとした時、出入り口付近に列を成している化粧品コーナーが目に入った。


「…………どれだっけ」

 無意識に真っ白で眩い陳列棚に吸い寄せられて、おれは琴音が欲しがっていたリップを探した。それはすぐに見つかり、琴音が最初に手を伸ばしたであろうくすんだピンクの小さなリップを手に取る。掌に転がるプラスチック製の艶々した円筒を眺めていると、あの時懸命に棚を覗き込んでいた琴音の横顔が思い出された。羨ましそうに眺めていた琴音に、けんかしたお詫びだと言ってこれを贈っていたら、何か違っていたのだろうか。あるいは、佐川にふられたともっと早く知って、アイスを奢っていれば琴音を引き留められたのだろうか。


 化粧品コーナーから真っ直ぐに店を出た俺の手には、そのリップが握られていた。

 今更手に入れたってしょうがないのに、一体自分は何をやっているのだろうと虚無感に襲われる。おれは通りがかったコンビニのゴミ箱にそれを捨てて、明仁に借りたバイクの保管場所——近所の市営住宅の駐輪場へと向かった。

 市街地を抜けて、おれは目的地も決めずにあぜ道をバイクでひた走った。黄金色の田園の中、運転に集中している間は、冷酷な風が頬を擦る感触や思考を叩き割るようなエンジンの音のおかげで、何も考えずに済んだ。

 そうして1時間もしないうちに、周囲一帯が黄昏に染まり、かと思えばあっという間に薄闇に移り変わる。秋の日の短さを感じながらも、おれは琴音たちとよく集まっていた公園へと向かっていた。


 公園に到着する頃には、辺り一体は自販機と東屋付近の街頭の灯りだけが頼りになっていて、おれは東屋でなんとなしにスマホをいじった。瑠美さんから、誰と遊んでいるのかとか、あまり遅くならないようにとか、ラインが来ていた。明仁や雄介とは、琴音が死んだ日から連絡していない。向こうも落ち込んでいるのか、もしくはおれにかける言葉がなくて距離を置いているのかもしれない。

 おれはスマホの画面を東屋のテーブルに伏せると、肩にかけたポーチからタバコを取り出した。残り五、六本となった白い紙筒を咥え、端っこをライターの灯火に当てる。ぽうっと丸く赤く光る様子を眺めながら大きく息を吸うと、おれの体に毒ばかりを巡らせて役目を終えた灰が、ぽろりとテーブルの上に降った。そうしてはらはらと落ちる様から嫌なことを連想してしまい、おれは眉根を寄せて目を瞑った。


 ——今日、ありがとね。


 その瞬間、この数日のうちに頭の中をずっと反芻して止まなかった声がはっきり聞こえた気がして、おれは勢いよく振り返った。

 振り返れば、暗闇に浮かぶ自販機の明かりがあるばかり——であるはずだった。

 おれの目に飛び込んできたのは、強烈な真夏の日差しに目を細めながらこちらを見上げる、琴音の笑顔であった。


 ——すっごく楽しかった。

 いつもより、少し低い位置にある琴音の頭。おれたちは真夏の日射に炙られながら、公園をゆっくりと歩いていた。

 ——帰りたくないな。

 琴音がそう呟くと、おれの足が勝手に止まって、視線が公衆トイレに向かった。

 ——秋村、俺のことどう思う。

 おれは琴音に向き直って、おれのじゃないもっと低い声でそう尋ねていた。そこでおれは、自分が元野球部の同級生、佐川宏翔になりきっているのだと理解した。


 琴音は目を丸くしたかと思うと、真っ赤に火照った顔をぱっと伏せた。

 ——す、か、かっこいいと思う。

 ——付き合う?

 なんだ、この都合の良いのか悪いのか分からない展開は。おれは胸を高鳴らせながら、琴音が自分のTシャツを握りしめているのをじっと見ていた。

 ——いいの?
 

 ——うん。

 おれは短く答えると、琴音の手を引いてトイレに向かった。


 ——だから、やろ。

 ——うん?

 ——付き合うなら、やろうって。

 琴音がきょとんとこちを見上げて、それから俺の手を解いて一歩引いた。

 ——待って、えっ。

 ——彼氏となら普通じゃん。

 ——で、でも、でも、ここで?


 おれが一歩近づくと、琴音が後退りをして女子トイレに一歩足を踏み入れた。

 ——付き合いたくない?


 ——そんなことない!

 ——こういうことするなら、嫌いになる?

 ——ち、違うけど……。でも……。

 首どころか鎖骨まで真っ赤にした琴音の肌に滲む汗が、Tシャツの襟ぐりに染みているのが見て取れた。

 ——いいじゃん、ね?

 低く囁く声に、琴音が顔を上げて、それからまた目を逸らした。俺の視線が、腹の前で焦れったく絡む指先に移ろう。細い手首に大きな手が伸ばされた。


「待って!」

 叫びながらおれは東屋のベンチから立ち上がろうとして、ベンチに蹴躓いて盛大に転ぶ。吸いかけのタバコがコンクリートに放られて目の前で燻った。

「ってえ……」

 周囲は真夏の炎天下から、中秋の真夜中に戻っていた。そこでようやく、自分が転寝でもしていたのだろうと気づく。それにしても、うっかり居眠りで見ていい夢ではなかった。おれは転んだ勢いで打ち付けた膝の痛みよりも、腹部のもっと下の違和感に項垂れる。


「クッソ……」

 最悪だ。さっきの夢も、呑気なおれの体も。

 腹いせに東屋の柱を蹴って八つ当たりをしながら、おれは虚しい衝動を吐き出すために公衆トイレに向かった。

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