ハルキ12.裏切り
さすがにここから佐川を探して一緒に見て回ろうなんて言い出さないと踏んで、おれは琴音にようやく聞く勇気が出た。琴音は、輪飾りと画用紙の星やハートで装飾された階段を降りつつ、前を向いたまま少し微笑んだ。
「んー、振られた」
おれたちとすれ違いざま、階段を駆け上っていく一年生の女子の笑い声に紛れて、琴音は確かにそう答えた。虚を衝かれたおれが何の反応も示さずにいると、琴音は階段を最後まで降りて、数段上で立ち止まっているおれを振り返る。
「早く行こ」
おれは我に返って階段を降りると、琴音に並んでその顔を覗き込みながら歩いた。
「ふられたって、聞いてないんだけど」
「だって、聞かれなかったんだもん。ふられた話って自分からしたくないじゃん」
「いつ?」
「いつっていうか……。夏休みに一回お出かけして、それで終しまい。DMしなくなったし、ふられたってことかなあって」
「自然消滅、みたいな」
「うん、そんな感じ」
そう言って琴音が大股になっておれの先を進み出した。薄桃のパーカーを羽織った背が、体育館へと続く渡り廊下をするりと遠ざかっていく。おれは慌てて琴音の腕を掴んだ。
「わ、なに?」
泣かせたかと思って冷や冷やしたが、振り返った琴音はおれの咄嗟の行動に目を丸くしているだけで、その目は潤んでいなかった。
「いやっ、別に。先に行くなよ」
「ごめんごめん」
琴音が悪戯っぽく目を細めた刹那、
体育館の中は薄暗く、パイプ椅子を並べただけの観客席はほとんど埋まっているように見えた。空席を探すのも面倒で、おれと琴音は後方の立ち見席の真ん中あたりを陣取った。おれとしては、壁際で背を預けた方が楽に観られると思っていたけれど、琴音がどうしても、その幕間の女子生徒をよく観ていたいと譲らなかった。
おれたちが体育館に入って来た時には、ちょうど見ようと思っていた劇が始まっていた。題目は「ピーターパン」で、クラスや学年の身内ネタを挟みながら定番のストーリーをなぞったものであったが、琴音は観客の笑声に混じってけたけた笑っていて、おれはその横顔を観ている方が劇よりも愉快だった。
やがてエンディングの音楽が流れ始め、キャストの生徒たちが降ろされた幕の前に出てくる頃、琴音が少し背伸びをしておれの耳に顔を寄せようとしてきた。おれは歓声と拍手の中から声を拾うため、少し彼女の方に頭を傾けた。
「あたしが観たかったの、次の幕間で歌う子だよ」
「何歌うの?」
「わかんない。けど、声がすごく綺麗で、生で聞くの楽しみにしてたんだ」
そんなに熱心なファンだったのかと、琴音の知らない一面があることに少し驚いた。こう言っては何だけど、その時々を気の赴くままに生きているような彼女は、何かに長く深く夢中になれるような性格ではないと思っていた。
琴音は持ち歩いてくしゃくしゃになったパンフレットの「幕間:笛木玲那」の一文をじっと見つめながら、どこか熱っぽく呟いた。
「嫌な気持ちになった時に聞くとね、なんか、頭にじんわり沁みる感じの声なんだよねえ」
「やばい薬じゃん」
「からかわないでよ、本当なんだから」
「はいはい」
琴音の華奢な肘がおれの腕を小突いたところで、アナウンスが幕間であることを告げ、その女子生徒の名前を呼んだ。
拍手と共に現れたのは、長い黒髪を片側だけ耳にかけた、背の高い女子生徒であった。遠くからではその顔立ちはよく分からないが、猫背気味な立ち姿も、マイクを掴んで観客席をきょろきょろと見回す様子も、とても歌手活動をしている人間には見えなかった。琴音の様子をちらりと伺うが、彼女はぎゅっとパンフレットを握りしめて、見栄えのしない歌姫を照らすスポットライトをその目に反射させていた。
「笛木玲那です」
その声におれの心臓が大きく跳ねた。たった一回だけ遭遇した、けれども忘れられない保健室の歌声の持ち主だと悟った。
おれが動揺しているうちに、物憂げな演奏が流れ始める。
「Someday my prince will come————」
遠くでマイクスタンドに指を絡める女子生徒が、最初の一節を発するとともに、ほんの些細な話し声さえも消え去った。
琴音の先ほどの言葉に、おれは今更大きく同意したい気分だった。保健室で呟く程度に口ずさまれた歌でさえ、否応なく脳に染み込むあの感覚を思い出す。束の間、おれは隣に琴音がいることすら忘れて、舞台にたった一人で立ち尽くすその人影に釘付けになった。
この声は毒だ。気付きたくもなかった飢餓感を満たしてしまう。中学1年生から知らないふりをしていた、胸中の肌寒さに耐えられなくなる。この歌声の中に暖かさを求めて救われてしまう。
「————ありがとうございました」
ぼそぼそと挨拶をして女子生徒が幕の前から去っても、しばらく体育館は静まり返っていた。ぱちん、と隣で手を叩く音が聞こえ、そんな琴音の拍手を皮切りに館内に歓声と拍手の嵐が巻き起こった。おれはその轟音で正気を取り戻し、隣の琴音を見遣った。
「琴音、さっきの歌……」
「うん、めっちゃ感動だった!」
何度も頷く琴音は、満足げに笑っていた。てっきりおれと同じように、あの女子生徒の歌にのめり込んでいるものと思っていた。しかし琴音は目一杯拍手をすれど、いつもどおりの無邪気な様子を見せている。自分だけが我を忘れて聞き入ってしまっていたと察して気恥ずかしくなり、おれはポケットに手を突っ込むと琴音から顔を逸らした。
次の劇が始まる前に、おれと琴音は体育館を出た。時刻は午後3時を過ぎようとしていて、あと1時間もすれば文化祭は終わろうという時間になっていた。ちらほらと、店仕舞いを始めた生徒たちが片付けに奔走している姿が見られ始めて、一般客の姿も1時間前よりも減っていた。
「おれ、帰るけどどうする?」
文化祭後のホームルームに出席する気のなかったおれは、自分のクラスに荷物を取りに行きつつ琴音に尋ねた。琴音はおれの教室の出入り口で足を止めると、後ろ手に指を組んでおれを見上げた。
「あたしはクラスの片付け手伝おうかな」
「あっそ。じゃあ先帰ってるわ」
「分かった。ばいばい」
「ん。またな」
琴音に手を振り返して、おれは教室の中に入った。琴音が自分の教室まで駆けていく足音を耳に、教室後ろの自分のロッカーから鞄を取って、風船と花飾りにまみれながらも閑散とし始めた校舎を出た。
それがおれと秋村琴音の別れだった。
その日の晩、動揺して言葉が出ない瑠美さんに代わって、声を震わせた義典さんが保護者の連絡網で回って来た事実をおれに突きつけた。そこから先、義典さんが何か慰めるようなことを言っていたはずだけれど、おれの耳は音を拒否したように何も聞こえてこなかった。おれはただ、鼻の奥に、あの頃の酒缶と生ゴミと腐ったカップ麺の残り汁の匂いを感じていた。
おれはまた、裏切られた。
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