ハルキ9.一歩踏み出す


 放課後までの二、三時間を近くのコンビニや公園で消費して、おれは琴音が通学に使っているバス停の前を訪れた。バスで通学する生徒はそれほど多くないのか、帰宅時間だというのに生徒の姿は見当たらない。学校へと続く道の先を気にしながら、おれはバス停で待った。やがて道の先から、薄手のパーカーを来た彼女の姿が見えた。

 琴音は俯きながら歩いていて、かなり近くまでおれに気づかなかった。ふと顔を上げた彼女は、バス停の前で自転車に体重を預けているおれと目が合うと、歩みをぴたりと止めた。


「よう」

「…………」

 午後5時前とはいえど、おれたちの頭頂を焼く日光もアスファルトから立ち上る熱も和らぐ様子はなく、琴音の汗ばんだ顔が日差しを白く照り返していた。

 琴音は何も言わずにおれを見ているだけだった。今度こそ、おれから口火を切らなければいけないと思った。


「昨日の、さ」

 話しかけると、琴音の視線が斜め下に流れた。鞄の持ち手を胸の前で握りしめて、まるで怒られる準備をしているみたいだった。

「ごめん、言い過ぎて」

 おれもまた、琴音と同じように視線を斜め下方の側溝に向けた。琴音はなおも何も言わなくて、焦りがおれの口の滑りを良くしていく。

「琴音のことも、佐川のことも、あと、親のことも。変なこと言ってごめん」


「————遥希」

 視界の端に、汚れた白い運動靴が入り込んだ。さっきまで小石と枯れ葉が詰まっていた運動靴だ。

「遥希はもう怒ってない?」

「怒ってないよ。むしろ、琴音は怒らないの」

「怒んないよ」

 許してくれた、ということでいいのだろうか。くしゃっと笑う琴音にほっとしながら、おれは昨日の暴言があっさりと水に流されてしまった気がして拍子抜けした。


「アイス買って帰ろ」

 しかし、琴音がおれの半袖の先っちょをつかんでねだる姿を見ていると、それ以上この話を深追いする気は失せてしまった。

 おれたちは少し足を伸ばし、大きなドラッグストアまで向かった。

「おれ、さっきアイス食ったんだよね」

「ジュースだけ買ったら?」

「そうする。奢るよ」

「いいの?」

 そんな会話をしながら商品を物色していると、琴音がふと足を止めた。彼女の視線の先には、蛍光灯が眩い棚が立ち並ぶ、化粧品売り場だった。


「見てっていい?」

 許可なんて取る必要ないのに、琴音が気遣わしげにおれを見上げた。

「お前、化粧すんの?」

「するよー。百均のやつとか、ママのやつこっそり借りるだけだけど」

「いつもしてないじゃん」

「今日だってしてるよお。眉だけ、とかだけど」

 ほらほら、と眉を上下させてみせるので、おれはついまじまじとそれを観察した。確かに、粉っぽくて淡い茶色が琴音の薄い眉を染めている……気がした。


「ね?」

 琴音がそう言って目を細めて初めて、おれは琴音の顔とわずか数センチの距離まで迫っていたことに気づいた。ぱっと距離を取りながら「ほんとだ」と適当な相槌を打って顔を逸らす。おれの動揺なんて知らずに、琴音は陳列された華やかな商品の数々を物色し始めた。

「見て、これこれ。アタシこれ欲しいんだよね。……遥希?」

「な、なに」

 肩をつつかれて、おれは慌てて琴音に視線を戻した。彼女の指差す先には、多種多様な暖色の筒があった。そのうちの一つ、少しくすんだピンク色のものを手に取っておれに見せた。

「このリップ。可愛くない?」

「おれに聞くなよ」

 リップって、スティックのりみたいなアレじゃないのか。蓋の中に筆みたいなのがついた見慣れない形状のそれを見て、そんなことをつらつら考えた。琴音は他の色も手に取りながら話しを続けた。


「学校のトイレで、すごい可愛い子がこのリップ使ってたの。たぶん学年違うんだけど、可愛いし大人っぽいし……いいなあって思って」

 それから琴音は、「どれだったのかなあ」と呟きながらリップを選んでいた。しかし、やがて何も手に取らずに「行こ」とおれを促した。

「買わないの?」

「お金ないし、また今度にする。アイス選ぼ」

 ちらりと確認すると、そのリップは1000円もなかった。しかし、琴音は一緒にいても、せいぜい一つ二つの買い食いをしているところしか見たことがないし、下手に無駄遣いはできないのだろう。軽やかな足取りでクーラーボーックスまで向かう琴音の後に続いて、おれは化粧品コーナーを離れた。


 おれは琴音の分のバニラソフトと自分のスポーツドリンクの会計を済ませて店を出た。先に出ていた琴音は、少しだけ傾いてきた陽光に背を向けながらスマホの画面に指を滑らせていた。

「親から連絡?」

 アイスを手渡しながら尋ねると、琴音はスマホを鞄のポケットに入れた。

「ううん。佐川くんがインスタフォローしてくれてたから」

「……そうなんだ」

 つい、返事に言い淀んでしまうと、琴音がアイスを食べようとするのを止めて、眉尻を下げた。


「遥希、佐川くん嫌い?」

 佐川が嫌いなんじゃなくて、琴音のことが。という思いを伝える気はなく、おれはスポーツドリンクを喉に流し込む。冷たくて爽やかな甘さがねばついた喉を通って潤した。

「そんなことない。話したことないし」

 おれと琴音は、どこへいくでもなく交通量の多い通りをゆっくり歩き出した。ちょうど夕日に向かって歩くような形になってしまい、日差しを遮る影はない。琴音は急速に溶け始めたアイスを懸命に食べながらも、少し疑わしげに「そうかなあ」と呟いた。


「琴音は佐川のこと好きだよな」

「えっ、あ、好きじゃないよ、全然!」

「怒ってないよ、別に」

 必死な否定が、おれの胸にちくりと罪悪感の棘を刺した。和解したと言っても、やっぱり琴音にも昨日のことを気にする気持ちはあるのだ。

「告ればいいじゃん。インスタ繋がったんだし」

 おれは少しおちょくるように琴音の肩を肘で突いた。その拍子に、琴音の口が融解しかけたバニラソフトに柔らかくめり込んだ。

「む、む、無理だよ、話しかけられないよ!」

 口周りの白い髭を舐め取りながら、琴音は声を大きくして却下した。琴音の顔が西の空よりも真っ赤に染まった。人はそんなに顔に血が集まるのか。


「ねえ、笑わないでったら」

 おれが思わず吹き出して肩を震わせると、琴音は珍しく拗ねて口を尖らせた。それがまたおかしくて、おれは謝りながら笑いを堪えた。

 琴音がアイスを食べ終えると、おれたちは琴音の家の最寄り行きのバス停を探してそこに向かった。

「応援してるよ。そんで振られたら、またアイス奢るよ」

 傷つけてしまった分、おれにできる罪滅ぼしはせいぜいこの程度である。


「付き合ってもお祝いに奢ってよ」

「は? やだし」

「なんでー」

 おれは失恋したら、きっとそれどころじゃないからだよ。そんなことは口が裂けても言えない。


「じゃあな」

「うん。ばいばい」

 昨日は聞けなかった別れの合言葉を聞いて、おれは目線の高さまで降りてきた西日に目を細め、自転車を漕いだ。

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