ハルキ8.煤を払う風

 午後の授業が始まろうとする頃には、おれの他にもう一人、体調不良もしくはサボりに来た生徒がいた。不機嫌そうで低い声だけれど、たぶん女子生徒だ。おれは筒井に聞こえないように布団の中で小さく舌打ちをする。その生徒が、カーテンで仕切られた隣のベッドに乗り上げる気配がした。

「先生、ちょっと相談室に行ってくるから。何かあればそこに来てね」


 筒井がおれたちにそう声をかけると、女子生徒が控えめに返事をするのにつられて、おれも「うん」なのか「ああ」なのか自分でもはっきりしない相槌を返した。隣の女子生徒が寝返りを打って、ベッドのパイプフレームが耳障りな悲鳴を上げた。おれもまた、カーテンに背を向けた。なんとなく、その女子生徒とおれの間にぴんと張り詰めた空気が漂う。双方ともに息を潜めているかのような静寂、それでも隣には生きている誰かがいて、外からはどこかのクラスの体育の掛け声が聞こえてくる。だから家にいるよりはマシだった。


 琴音も、家よりは学校の方が好きなのかな。けれど、今日のあの光景を見る限り、学校だって彼女の安息地とはならないはずだ。布団の中で目を閉じているとそんなことを考えてしまう。哀れだ、惨めだと勝手に思われて見て見ぬフリをされる不快さは、おれ自身が散々味わってきた。それなのに、ついさっき、いざ「そう思う側」に立ったおれは、琴音に対して何をしたんだ。やり直しなんてできやしないのに、それはおれが一番分かっているはずなのに、どうしてこんなにうまくいかないのだろう。今更、取り返しのつかないことをしてしまった実感がおれを雁字搦めにして、身動きが封じられた気がしてくる。


「Summertime and the livin’ is easy————」


その声は、目蓋の裏を見つめながら思考の暗闇を彷徨うおれの意識を、真夏の保健室の静寂への引き戻してくれた。


「and the cotton, cotton is high」

 あやふやな発音の、寝言や呟きに近い歌だった。それでも、その掠れつつも幼さを孕む声音に、おれは急激に寒気を感じた。声が透き通った風になり、おれにまとわりついていた感情の煤を取り払っていく。


「so hush, little baby, don’t you cry」


「——うるせえ」

 寒気の正体が、感動が粟立てた鳥肌だと気づいた瞬間、おれは満たされかけた気分を振り払って歌を遮った。一時停止を押したように室内が静まりかえった後、「ご、ごめん……なさい」と歌声とは打って変わって太い声が聞こえた。おれはその差に困惑しながらもまだ、気怠げで心地よいひと時の余韻から抜け出せないでいた。


「あの」

 おれが声をかけたせいで萎縮しているのかと思いきや、何故か隣のベッドの女子生徒はおれに話しかけてきた。おれの方が驚いてしまい、謎に居留守のごとく息を潜めた。

「私、歌、下手ですか」

「は……?」

 何だこの女。


 恐る恐る、それでありながら、ずけずけと女子生徒は問いを重ねた。

「小声でも耐えられないくらい、下手……ですか」

 今、それを俺に聞かないでくれ。歌声を思い出すだけで、おれが大事に抱えていた葛藤が、いとも簡単に希薄になっていってしまうのを感じて、おれは自分自身に向けて嘆息した。

「それで下手っていうやつは、よっぽどお前が嫌いなんだ。……文化祭にでも出てろ」


 皮肉という名のオブラートで何重にも覆い隠した、それでもうっすらと透けて見える本音が溢れてしまい、おれは眉間にしわを寄せた。女子生徒が、おれの言葉の意味を解さずに謝っているうちにこの場を立ち去ろうと、おれはベッドから降りた。

 保健室から出た途端、蒸された廊下の熱気が冷房の風に冷やされたおれの肌に触れる。それが心地良かったのはほんの一瞬で、すぐに蒸し暑さが不快になった。当たり前だが、どこのクラスも授業中で、校舎の1階の廊下には俺以外誰もいない。おれは今更教室に顔を出すことも億劫で、瑠美さんや義典さんが帰宅するまでどこかで暇を潰すことにした。


 靴箱で履き替えている途中、不意に隣の琴音のクラスの靴箱が目に止まった。怖いものみたさで、琴音の運動靴を探して靴箱の奥を覗いた。

「…………」

 履き潰したノーブランドの白い運動靴の中には、枯れ葉が詰められている。

 おれは琴音の靴を持って外まで出ると、靴の中身を掻き出した。枯れ葉だけでなく、小石も飛び出て正面玄関の階段を跳ね落ちた。おれは琴音の小さな運動靴をもとの場所に戻す。これで、彼女の顔が陰る回数が一回減った。


 いつのまにか、保健室の歌声がおれの脳内で反芻されていた。

 やり直すことなんてできない。一度起きたことは、二度と取り返しはつかないことは身に染みて分かっている。それでも、夜の団地の自販機の前で、また落ち合える日が来る可能性が塵ほどでも残っているのなら、おれの子供じみた意地をかなぐり捨てる価値は十分にあった。そうすれば、彼女の顔が陰る回数はもっと減ってくれるだろうか。あわよくば、また笑って欲しい。そんな邪な下心を抱えて、おれは頭の中で繰り返される旋律を、うろ覚えのまま鼻歌でなぞった。

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