レナ10.夏の日々、羽ばたく兆し
また、似たような白昼夢を見たらどうしよう。
そんなことを考えてしまい、授業もいつも以上にやる気が出なくて、私は午後から保健室で休むことにした。
養護教諭にクラスと名前を伝えて、窓際の空いているベッドに横になる。私の他にも、もう一人ベッドを使っていて、スリッパの色から3年生であることが分かった。
単純に眠かったこともあり、清潔感がありつつも薬品っぽい独特な匂いのシーツに包まれると、体が弛緩して幾分気持ちが和らいだ。
「先生、ちょっと相談室に行ってるから。何かあればそこに来てね」
「……はい」
私がぼそりと返事をする横から「ん」と男子のくぐもった声が聞こえた。昨日の夢を思い出して私はどきりとした。隣のベッドから背を向けて、体を折り曲げ縮こまる。
しん、と保健室内が静まり返って、遠くで体育教師が笛を吹く音や歓声が聞こえてきた。どこかのクラスが体育をしているのだろう。
窓の外は、初夏とは思えない暴力的な日差しで真っ白に染まっていて、けれども保健室の中は冷房でひんやりと肌寒くて、布団が私の体温を帯びて暖まっていくのが心地いい。私は昨日見た、真夜中の暗がりから抜け出せそうな気がした。そしてふと気がつけば、窓の外の日差しとそれを反射してきらきらひかる常緑樹の葉っぱに見惚れ、唇の隙間からは歌がこぼれ出ていた。Summertime、夏の昼寝にぴったりの子守唄だ。
「————うるせえ」
ぼそぼそと口ずさんでいると、隣のベッドから声をかけられてぎょっととする。その声は鼻が詰まっているように聞こえて、風邪を引いているのかな、と余計な心配が頭をよぎった。
「ご、ごめん……なさい」
起こしてしまうくらい、うるさいつもりはなかった。もしかして、寝ようとしている邪魔だったかな。それにしても「うるさい」なんて言われたの、小さい頃に食事中歌った時以来で、あたしは怒られたことよりもそっちに狼狽たえてしまった。やっぱり、何も知らない他人から見れば、私の歌なんて、声なんて大したものじゃないんだと、そんな恐ろしい事実が目の前に突きつけられている気がした。
「——あの」
「…………」
「私、歌、下手ですか」
「は……?」
いてもたってもいられなくてそう問いかけると、カーテンの裏で横たわっているであろう男子は、力なく、それでも大きな戸惑いを声に滲ませていた。体調悪いのにごめんなさい。それでも私は、どうしても確かめたくて自分でも止められなかった。
「小声でも耐えられないくらい、下手……ですか」
「————それで下手って言うやつは、よっぽどお前が嫌いなんだ」
どういうことだ? あまりにも捻くれた言い回しに、私は彼の言いたいことがすぐには理解できなかった。
「今じゃなくて、文化祭にでも出てろ」
「あ、えっと……すみません」
よく分からないまま、不機嫌な苦情にとりあえず謝ってみる。すると、隣で男子が身を起こす気配がした。
「……だる。帰ろ」
私と彼を隔てるカーテンが少し揺れて、男子がベッドから降りる音がする。そのまま彼が保健室を出て行った後、私はようやく、彼が褒めて……少なくとも、私の歌が下手とは思っていないことを察した。
それから私は、1時間くらい眠ってしまっていた。6限目の始業時間はとっくに過ぎてしまっていて、寝たフリをしながらこそこそとスマホをいじっていると、彩香から「保健室? 大丈夫?」とDMが届いた。白昼夢を見たのだろう。私が「大丈夫、ありがと」と返すと、「放課後ご飯食べるの、また今度にしようか?」と返ってきた。私はそこでようやく、二、三日前にそんな約束をしたことを思い出した。
彩香の言葉に甘えようかという考えが過ぎった。けれど、ここで彼女を避けてしまえば、臆病な私はこの先ずっと近づくタイミングが分からないまま、せっかくできた友人と疎遠になってしまう気がした。
「風邪ひいてるわけじゃなさそうね。さぼり?」
と、いうわけで、放課後になると、私と彩香は二人の通学する路線の途中駅で、激安イタリアンファミレスに立ち寄り、夕食を食べることとなった。彩香はドリンクバーからウーロン茶を持ってくるや否や、ニヤニヤしながらそう言った。
「眠過ぎてしんどかったんだよね」
嘘ではないけど本当とも言えない返事でお茶を濁して、私は自分の分のコーラを取りに席を立った。
彩香はいつも通りだ。昨晩あんな……いや、思い出すのやめよう。私がそういうの、よく分かんないだけで、彼氏がいる高校生なら珍しくないのかもしれないし。気にしないように振る舞わないと。
「玲那、なんかあった?」
「えっ」
「なんか話したそう」
気にしないなんて、やっぱり全然無理だ。
「その、彩香に聞きたいことが……」
「おっ、どしたどした?」
子供が急かすみたいに、両手でテーブルを軽く叩いて見せる彩香から、私はぼうっと目が離せなかった。半袖の白いシャツから伸びる腕は健康的で瑞々しく、昨晩の生白くて艶っぽいあれと同じだなんて、考えられなかった。
「私さ、昨日ちょっと——」
そこまで言いかけて、自分の意思に反して言葉が全く出てこなくなってしまった。首と耳がじわあっと熱を持ち始めるのを自覚する。私は顔の周りに髪の毛を掻き寄せ、コーラを飲むふりをして顔を伏せた。私は今、とんでもなく恥知らずなことをしているのではないだろうか。
同級生のそういうことに、首をつっこむなんて悪趣味にも程があるんじゃないか。そもそも、学校外の白昼夢についてはお互い話さないでおこうとルールを決めたんだ。
「————昨日、ちょっと考えていたことがあって」
すんでのところで正気に返り、好奇心に後ろ髪を引かれつつ話題の軌道修正を試みた。彩香は「そうなの?」と相槌を打ちながら烏龍茶をちびちびと飲んでいる。
「あの…そう、文化祭。文化祭で歌うとしたら、どうすれば——」
「え、歌うの!? いいじゃん!」
私を遮って身を乗り出すと、彩香は目を輝かせ息巻いて話し始めた。
「あたしの仲良い子に実行委員いるから、連絡しとく……あ、玲那から直接言う? アカウント教えていいかだけ聞いとこうか?」
「や、あの、まだ出たいかどうかは……」
「まあまあ、ほら、話だけしてみたら? 他にも応募者いたら辞退だってできるしさ」
そこで私たち二人のパスタが運ばれてきた。一旦会話は止まり、二人してフォークでくるくる麺を弄っていいると、また彩香が口火を切った。
「なんか、嬉しくて推しすぎたけど。玲那がやる気じゃないなら、無理にとは言わないよ」
「そ、そう。ありがと」
「でも、出てみて欲しいな。あたしはオーディションで頑張ってるんだから、玲那も道連れよ」
悪どい顔して口角を上げて見せる玲那につられて、あたしもくすっと笑いが零れる。
「道連れって。言い方ネガティブすぎる」
「ふふ。ねえいいでしょ。頑張ろうよ」
「んん……まあ、来年出ようと思っても受験で難しいだろうし」
「そうそう、今がチャンスだよ」
「幕間くらいなら……大コケしてもみんな忘れてくれる、よね」
「そうそうそう、出よ」
「彩香、なんか適当じゃない?」
私が首を傾げがなら彩香の目を見ると、彼女はわざとらしくスマホを手に取り「じゃあ、とりあえず実行委員の子に彩香の連絡先と事情教えとく」と言って、軽やかに且つ素早く画面を叩き始めた。
あれよあれよと事が運んで、パスタを食べ終えて会計をしている最中になって、私は何かとんでもなく柄にもないことを始めてしまったのではないかと思い至った。後悔なのか高揚なのか、よく分からない感情が心臓を叩き跳ねさせる。
「じゃ、出演決まったらちゃんとあたしに教えてね」
「あれ、彩香は電車乗らないの」
改札に向かう途中、彩香が当然のように立ち止まるので、私もまた歩みを止めて少し後ろの彼女を振り返った。すると彩香は出口を指差して笑った。
「あたし、ちょい寄るとこあるんだよね。だから、またね」
別れの言葉とともに手を振られて、私は同じように手を振り返しホームへと向かった。電車を待っている間にスマホを見ると、知らないインスタアカウントから連絡が来ていた。彩香の言っていた、実行委員の子だ。
あたしはとりあえず、「よろしくお願いします」とだけ返して、風を巻き込んでやってきた電車に乗り込む。もう一度、インスタを確認する。歌っちゃうのかな、歌えるかな。白けないかな。そんな不安の言葉が思考を埋めていく。
それでも、この胸のざわつきはきっと高揚なんだ。
車窓が縁取る、夏の湿気にぼやけた彩雲がやけに綺麗に見えてしまって、私はそう確信した。
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