クリームソーダ

「清ちゃん、これ変じゃない?」

「うーん」

 清子の生返事に思わず茂は振り返った。清子はうつぶせに寝ころびながら雑誌をめくっている。この様子だと茂の様子など一寸ほども見ていないことはよくわかった。

「清ちゃん! ちゃんと見てくれない?」

「あーはいはい。見てますよ」

 相変わらず視線は雑誌に釘付けだ。

 茂が焦るのも無理はない。今日は新沼和子との初めてのデートなのだから。


 茂と和子の出会いは清子のかかりつけの病院だった。清子の足の治療のため、付き添ったことが出会いの始まり。新人看護婦としてあいさつをした時が初めての会話だった。

 その瞬間茂の体を電撃が貫いていった。一目惚れだった。

 しかし和子は若くまじめで美しくほかの患者や医師にも大層気にかけられていた。これはいけないと気弱な茂が勇気を出して話しかけるも「業務連絡以外はお話しできません」ときっぱり断られてしまった。それは茂だけに限った話ではなくほかの男性たちのお誘いも意に介さずただ黙々と仕事をつづけた。

 そんな茂に転機が訪れたのは清子のおかげだった。

 清子が東京大空襲の日、狐に助けられたという話をすると和子は大いに食いついた。どうやらこういう話が好きなようだ。しかし茂はこういった怪談話は大の苦手で肝試しに行こうものなら、一瞬で肝が冷えて失神してしまうほどだった。

 その時、話の流れを変えようと口をはさんだ。

「それを言うならキャラメルを取りに飛び出した清ちゃんも命の恩人だ」

 すると和子の視線が茂に移り「それはどうしてです?」と興味ありげに訊ねてきた。

「防空壕から飛び出した清ちゃんを追って出たから僕と母は助かったんです」

「まあ、天啓ですね」

「そうですかね?僕はただ無意識に……」

「天啓です」

 それから和子と顔を合わせるたびに狐談義が始まるのだ。

 そしてあるとき清子が行った。

「茂ちゃん、和子さん誘ってみたら?」

 青天の霹靂だった。思わずむせたせいで米粒が変なところに入ってしまったくらいだ。

「好きなんでしょ?」

 とどめと言わんばかりに追撃され茂は白旗を上げた。

 話を聞いてみれば茂が一目惚れした時からわかっていたらしく、ずっと何をしているんだとやきもきしていたそうだ。

「清子は勘が鋭いからね」

 母が含み笑いをしながらそう言った。

 そして勇気を出し玉砕覚悟で食事に誘うと二つ返事で承諾された。その時家の狐の話を出しにしたのは言うまでもない。なのでデートというよりも怪談話をしに、新しくできた喫茶店に繰り出すのだ。


 ようやく雑誌を畳んだ清子が起き上がる。

「まあよほどおかしなことが無ければうまくいくんじゃないかしら」

「よほどのことをするのが僕だろう?」

「……骨は拾ってあげる」

 茂は緊張で腹が痛くなってきた。



 きりりとした視線、シャンとのびた出で立ち。小さな狐は小さな体を凛々しく見せようと必死だった。

『小こいのぅ……』

『はい……』

 新しく据えられた狐は手配がままならなかったのか霊力が弱く体が二回りほど小さかった。かつ土地に降ろされたばかりでいろいろと拙い。

 身を引き締めた狐には悪いがかわいらしい子狐にしか見えなかった。

 一つ咳払いをした。そして子狐をじっと見下ろす。潤った巨峰のような瞳が見上げてくる。

『そなたにはこの家の社に憑いてもらう』

『あい!』

『子細はそこの狐に聞くように』

『あい!』

『ああ……その、無理はせぬように』

御上おかみ!』

 思わず気弱になったところを狐にせっつかれた。すすす、と顔を寄せ合うと声を抑え口を開く。

『いけませぬぞ。曲がりなりにも狐の端くれ。御上には威厳を持ってもらわねば』

『妾には無理じゃ……あんなにかわいらしい子狐にきつく言い聞かせるなど』

『そこをしっかりしていただかねば』

『そなたも初めはあやつのような可愛らしい姿での。それが今は……』

『今はあの新顔についての話です!』

 彼女たちの話はまとまらないようで言い問答をつづけている。

 残された子狐はどうしたものかとぽってりと腰を据えたまま考えた。

 きっとこの姿だからいけないのだろう。しかしこの姿はすぐにどうにでもなるわけでもないし。ならば実績を作ってしまえばいいだけ。

 さてどうしたものかとさらに考え出すと玄関の開く音がした。そして「行ってきます」の声とともに茂が出てきた。出かけの装いで緊張しているようだった。ならば彼の手助けをしたらば御上も狐も満足するのではなかろうか。そう思った時にはすでに飛び出していた。



 和子が待ち合わせ場所に着いてしばらくすると茂はやってきた。涼しげな麻の開襟シャツとベージュのスラックス。ハンカチで汗を拭きながら駆け寄ってきた頭には帽子。そして小さなしっぽ。

「え?」

「どうかしましたか?」

 和子は思わず口許を手で覆った。まさか狐の話を聞きに来て本物に出会えるなんて。

 和子がこういったオカルト話に興味を持ったのは看護師になる前からだった。土着、風習、怪談、伝説、伝承。この世のオカルト話が和子の知的好奇心を刺激した。肝試しだって幽霊に会えるならちっとも怖くなかった。

 今働く病院だっていろいろなうわさがある。死体安置所や手術室。資材室の幽霊の噂を確かめようと部屋に入ったら婦長と若医者の不倫現場に鉢合わせて別の意味で肝が冷えたのは別の話。

「いえ、つい」

「つい?」

「素敵な帽子だなと思って」

 和子がそう言うと茂は目に見えて顔を真っ赤にし照れた様子を隠すことなく締まりのない顔で「どうも」と微笑んだ。


 いざ喫茶店につくと休日を満喫しようとするアベックでいっぱいだった。茂はそれに気づいているのかいないのかウエイトレスに「二名で」と指を二本立てている。

 幸か不幸か天井で回る扇風機の真下の席に案内された。時折心地のいい風が吹いて和子は助かったと思った。

 帽子を脱いだ茂の周りを探す。あの小さなしっぽはどこに行ってしまったのだろう。きょろきょろと見まわしているとメニューを持ったウエイトレスがやってきた。

 目の錯覚だったのだろうか。ふと視線をテーブルに下げるといた。ちょこんと腰をすえた子狐が天井の扇風機を見上げている。短いせいで投げ出した脚の肉球まで丸見えだ。首を振る扇風機が珍しいのか動きに合わせて子狐の首も回る。

 和子が思わず吹き出すと目の前の茂は困惑した。

「なにか?」

「あ、いえ。すみません……」

 するとメニューを持った茂が和子に問いかけた。

「あの和子さん。もし僕におかしなことがあったら教えていただけませんか?」

「おかしなこととは」

「恥ずかしい話、僕はこういったことに慣れてなくて、いつもぼけっとしてるせいなのかここぞというときに決まらなくて……その、もしかしたら和子さんに失礼なことをしてることにすら気づかないことがあるかもしれなくてですね」

「わかりました」

「えっと、それは」

 すると和子はにやりと笑い茂を見つめた。

「何かあれば最後にお伝えします」

 茂は有罪判決を受けたかのような顔になった。


 二人の前に並べられたのは冷たいアイスクリームの乗ったクリームソーダだった。シロップ漬けのサクランボも乗っている。

 こういったものを食べるのが初めてなのか茂は目をキラキラと輝かせている。

 そして和子は視線を子狐に向けた。子狐も茂とそっくりな顔をしてクリームソーダを見つめている。

『翡翠の霊水だ!水晶が浸かっておる!』

 短いしっぽをピンと立てて興奮しているのが可愛かった。

 その様子を見てにこにこしていると勘違いした茂が尋ねてくる。

「和子さんもクリームソーダがお好きですか?」

「え? はあ、まあ」

 正直好きでも嫌いでもなかった。甘いものはあまり得意ではないし本当だったらウインナーコーヒーでも頼みたかったが「ここのクリームソーダはとても人気なんです」と茂が嬉々として話すものだからつい断れなかった。というより子狐に夢中で話を聞いていなかったという方が正しい。

 いつだってどこの誰も私の話なんか聞きやしない!

 いつもはそう憤慨する和子だが、今ばかりは人のことを言えなかった。

「ちょっと前までは行列ができてすぐ売り切れになっていたそうなんです。だから今日はラッキーですね」

「ええ、そうですね」

 確かにこの世のものではない子狐に出会えたのだからラッキーであることに違いはなかった。もしコーヒーを頼んでいたら子狐はどうなっていたのだろうか。それもちょっとだけ気になった。

 とうの子狐は高いグラスに並び後ろ脚で立ち、てっぺんのアイスクリームをぺろりと舐めるところだった。冷たさに驚いてしっぽがピンと立ち上がる。

「それで和子さん、うちの狐のことなんですが」

「え? ああ、はい」

 和子は思わず茂の方を見た。この子狐が見えているのか。わかって連れてきてくれたのか。

 しかし茂は全く子狐に気づいている様子はない。

「お話、本当に聴くんですか」

「もちろん。今日はそのために集まったんですよ、私たち」

「その……和子さんはオカルト話が得意なんでしょうか」

「ええ。得意も得意。大好物です」

 和子が自信満々に答えると茂は青い顔をして身を震わせている。そんな茂の様子に気が付いた子狐もプルプルと身を震わせているではないか。思わず和子は気の毒になり「今日はほどほどにしておきましょう」と伝えた。すると茂はほっとしたように胸をなでおろし、同じように子狐もため息をついた。


「ところで茂さんはその狐たちを見たことはあるんですか」

「いえ、僕は全く。清ちゃんと父だけです」

 見つけられるのは限定的な人間だけで、一家の人間だから必ず見えるというわけではないらしい。

「そもそも狐の祠が建てられたのが幕末だったらしいんです」

 代々家には不思議な出来事が起こり、そのたびに狐の仕業だろうと言われてきた。

 茂はその時代ごとの不思議な話を話すと和子は今まで見たこともないような楽しそうな顔で話を聞いている。つい茂もつい夢中になり長々と話してしまった。

 そしてふと、せっかくクリームソーダがおいしい喫茶店に来たのにもったいないことをしたなとテーブルを見るといつの間にかクリームソーダが減っているではないか。ぎょっとして空のグラスを見ていると茂の視線に気が付いた和子もテーブルを見る。

「あら」

「か……和子さん、これ」

「不思議ですね」

 なぜか和子は楽しそうだ。それどころかくすくすと笑いながらテーブルを見ている。

「信じられない。一口も飲んでないのに」

「そうですか? 私は狐の仕業だと思いますよ」

「ええ?」

 茂ははじかれたように和子の顔を見た。彼女はいたずらっぽく笑っている。

「ますます興味がわいてきました」

「和子さん?」

「今後もぜひお話を聞かせてくださいませんか?」

 見たこともないはつらつとした表情で和子は言い切った。テーブルで氷がカランと鳴った。

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