キャラメル

 ――三月九日

 その日は凍てつくような寒さだった。空が身震いをしたら雪でも振り出すんではないだろうかというほどの冷たい空気が肌に突き刺さった。

 清子は半纏の襟を搔き抱くと生け垣の前に置いた貯水桶の氷を割った。袖に水がしみて畜生と心の中でつぶやいた。

「早いな、清子」

「おはよう。勇兄ちゃん」

 六つ上の勇は「寒い寒い」とつぶやきながら郵便受けの新聞を抜き取った。

しげちゃんは?」

「まだ寝てる」

 勇が答えると清子は「もう」と不満を漏らした。

「お父さんとお兄ちゃんの時間を何だと思ってるのかしら」

「そう怒るなよ。茂だってわかってるさ」

 父春治と兄勇に赤紙が届いたのはついこの間のこと。父だけが行くと覚悟はしていたがまさか兄まで連れていかれるとは思ってもいなかった一家は戦慄した。学徒動員のその日は勇の誕生日、三月十日に合わせ数えで十九の出兵となった。

「でもさ、明日なのよ? もっと自覚持ってくれないと」

「今日一日はずっと一緒にいるから」

「……でも華恵さんは?」

 清子が尋ねると勇の頬に朱が差した。彼女と兄が好い仲なのは清子にはお見通しだった。何なら母も知っているし寡黙な父も知っている。家族で唯一知らないのは色恋に疎い茂だけだった。

しかし完全にくっついたというよりもくっつく前の一番盛り上がる関係性だと言う。これは近所のチエちゃん情報。

 できた兄は近所でも人気で、老若男女誰に聞いても「勇はいい男だ」と口をそろえて言う。誰に対しても優しいし親切にしているから信頼も厚い。近所で有名な頑固おやじだって勇を認めていた。それに家族の色眼鏡なしに見ても男前でしっかりしている。弟の茂とは大違いだった。

 そんな兄を持つ清子はとても鼻が高かった。それと同時にそんな兄の妹なのだから、それに見合う人間にならねばと責任も感じていた。

 そして好い人の華恵さんはこれもまた近所でも有名な器量良しで誰もが憧れる高嶺の花だった。それにとても美しくて頭も切れる。清子は華恵さんが義姉さんになるのなら諸手を上げて歓迎するつもりでいた。

「あ、いけない。お稲荷さんのお掃除しなきゃ」

 そう言って庭に駆けていった清子の背を見、勇は「まじめだなあ」とあくびを嚙み締めた。



 父と母はとっくに店に向かい茂は必死に朝食を詰め込んでいた。茂の後ろでは鬼の形相をした清子が茂の茶碗が開くのを待っている。今日の洗い物当番は清子なのだ。

「じゃあ行ってくるから」

 玄関から勇の声がする。清子が駆けつけるとゲートルを履き終えた勇が上がり框から腰を上げるところだった。

「勇兄ちゃん行ってらっしゃい。気を付けてね」

 清子がそういうと、ポンと頭に手が載せられる。この時が清子にとって幸せな時間だった。

「今日は早く帰るから」

 そういって玄関戸に手をかけると「あ、そうだ」と何かを思い出したのか振り返った。

「これ、二人に」

「キャラメル! どうして?」

 清子の声に居間から茂が顔を覗かせた。

「闇市で負けてもらったんだ。この格好だと得が多くてさ……うれしくないんだけどね」

「そう……」

 勇からもらった餞別を大事に両手に収めた。

「お前たちは双子なんだから仲良くするんだぞ」

 清子は景気よく返事をすると勇を見送った。

居間では茂が空になった茶碗をもってくるところだった。

「勇兄ちゃんこんなの用意してたんだ」

「お父さんとお母さんが帰ってきたら一緒に分けよう。茂ちゃん、絶対外で話しちゃだめだからね!」

「い、言わないよ!」



 日が暮れ、店じまいのころになると使っていない瓶に水を張り店の前に出す。これが日課だった。

「じゃあ、私は先に帰りますから」

「ああ」

 妻の後姿を見送る。

 春治が店の面倒を見ているとあっという間に日が暮れてしまった。外では夜学の女生徒が通学し始めている。こりゃいかんと春治は電気を消し店の鍵を閉めた。最後の家族団らんだ。店のことも心配だがそれは家族が寝てからやればいい。

 春治が家に到着するころには一家全員が食卓に並び待っていた。妻が「遅いですよ」と小言を言う気持ちもわかる。今日は特配の米を炊いたらしい。ぬるい湯につかっていない米を見るのはいつぶりだろうか。春治はそんなことを思っていると茂が「米が立ってる!」とはしゃいで清子に怒られていた。親子だなと心の中で笑った。たくあんと山屋の湯豆腐。めざしが二匹。ここ最近で一等豪勢な夕食だった。


「そうだ!」

 皿を片していると清子が思い立ったかのように叫び水屋に走っていった。そして取り出したのは小さなケース。

「これ勇兄ちゃんが私たちにくれたんだけど、最後の日だからみんなで食べようと思って」

 清子がそういって一粒ずつを手渡していく。勇の番になると「俺はいいよ」と断る彼の手に無理やりキャラメルを押し付けていた。

「余りは明日ね」

 口の中に入れると夢見心地のように蕩け、甘みが広がっていった。



 それは十時を過ぎたころだった。寝静まった一同の耳に警戒警報が響く。

 清子は枕元に置いた持ち出し鞄を肩にかけ防災頭巾を被ると両親の部屋へ急いだ。もちろん寝ぼけ眼の茂をたたき起こしてだ。

 二人が部屋に到着するとすでに春治がラジオを付けて状況の確認をしていた。

「お前たちは先に出てろ。俺もすぐ行く」

 春治はそれだけ言うと兄が母と清子たちを引き連れ軒先に出た。

 びゅうびゅうと吹き荒れる北風が突き刺さるようだった。

「勇兄ちゃん、それは?」

 茂が尋ねた。勇の手には一つの封筒が握られている。あて名は見えないが清子はそれが何なのかすぐに分かった。

「大事な手紙だよ。ついでに出してこようかと思って」

 そう言って勇は笑った。

「お前たち。家に戻れ」

 軒先に顔を見せた春治は敵機が去ったことを伝えるとすぐに中に引っ込んでいった。

「何かしら、けん制かしら」

 不安そうに母がつぶやく。

「そうだといいね。さ、母さん。冷えるから早く入ろう」

 そう言って母の背に手を添える勇。玄関に入っていく勇に清子は声をかけた。

「手紙、いいの?」

「ああ、明日出すよ」

「……華恵さんでしょう?」

 清子がそういうと勇は動きを止めた。そしてゆっくり振り向くと「わかった?」と真っ赤な顔で訊ねた。

「行って来たら?」

「でも、もう夜だし」

「今日華恵さん夜学じゃない。ちょうど帰ってくるくらいよ」

 清子が言い切る。勇は困った風に頬を掻いた。

「どうせ明日も理由つけていかないんでしょう?」

「行くさ」

「何時?列車乗るまでの時間?そんな暇あるなら今行ったらいいじゃない。ゆっくりできる時間なんてないのよ?」

 勢いに任せて清子は言い切った。気圧され黙った勇は清子を見つめたまま動かない。

 すると再び玄関に現れた春治がゲートルを履き始める。

「勇、着いて来なさい」

「え……ああ、はい」

「……店に行く」

 清子は何も言う間もなく二人は行ってしまった。



『清子は勝気だな』

『そうだね、勝気だね』

 狐たちは軒から彼らの様子を見下ろしていた。

 春治は本当に店が心配らしく、やり残した仕事をしてくるといっていた。

『心配だな。俺はついていくからな』

『相分かった。私は家を見ておくね』

 そういうと二匹はぴょいっと高く跳んだ。


 寡黙な春治は何も話さない。

 着の身着のまま出てきたから夜の寒さが突き刺さった。もちろんポケットの中には例の手紙。

 本当は赤紙が来た時に覚悟を決めるために書いた手紙だった。渡そうと思えば思うほど手放すのが怖くなった。これを渡してしまったら本当にもう会えなくなるような気がして。どこの誰ともわからないような奴に華ちゃんが嫁いで行ってしまうような気がして。覚悟の手紙だとかきれいな言葉を並べているが結局のところ遺書なのだ。

 人々は皆自分のことを優しいという。でもそうじゃない。戦争になんて行きたくない。死にたくないし痛いのは嫌だ。嫌われたくないから優しくするし争いごとが嫌いだからそれを避けているだけなのだ。みんな買いかぶりすぎなんだ。それを吐露する勇気もなかった。

「……それ」

「はい?」

「手紙だろ……」

 春治がようやくしゃべったのは大きな辻に差し掛かってからだった。

 春治はじっと見つめ勇の言葉を待っている。

「……明日出します」

「今渡してこい」

 春治は目をそらさずに言った。

「後悔するようなことはするな」

 この辻は華恵の家に続く道だった。

「手紙を渡したら納得するまで話をしてこい。何時間かかってもいい。それが終わったら店に来い」

 春治はそれだけ言うと一人歩いて行ってしまった。



 どうやら勇は行ったようだ。様子を見ていた狐の神通力で知らせがあった。そのまま春治についていったようであとは沈黙。

 狐は残された一家の様子を見ていた。


「ねえ清ちゃん、これ一つ食べてもいい?」

 茂がキャラメルの箱を除きながら訊ねた。すかさず「ダメに決まってるでしょう!」と清子の雷が落ちる。

「だってさ、明日みんなで食べるんだろ? それだと一つ余るんだよ」

「あーもう、うるさいうるさい。さっさと寝るわよ」

 キャラメルの箱を茂からさらうとそのまま水屋にしまった。清子は念のため茂に食べないように言い含め釘を刺し寝床に戻った。


 ――轟音だった。

 畳が裏返るのではないかというほどの轟音だった。飛び起きた清子はすぐさま窓を開けた。

 警報が鳴っていない。

 そしてまたすぐに爆撃の音が轟いた。

「茂ちゃん起きて!」

 防災頭巾を被りながら叫んだ。

 そうかこれは奇襲攻撃だ。いつものように身の回りの準備をし、家族と家を飛び出したとき理解した。なぜなら空が赤く燃えていたから。

 町を焼く劫火は夜空を照らしていた。それに慌てて家を飛び出してきた近所の人の驚く顔がはっきり見えるくらいだった。

 三月十日、勇の誕生日のことだった。



 先ほどの警報とは違う“空襲警報”が町中に響き渡っている。

 春治が店の時計を見ると零時十五分に針が差し掛かっていた。

 慌てて店を飛び出すと強風に巻き上げられた木くずが火をまといながら降り注いでくる。まるで大雪じゃないか。春治は駆けだした。

 もちろん向かう先は家。勇は賢いから防空壕へ逃げるか家に向かうだろうと信じ、ひたすら走った。その間も上空を銀蠅のように汚い音をさせながらB29は滑空していた。時折トンボの産卵のように地上に近づいて焼夷弾を産み落としていく。そして時々思い出したかのように機銃で逃げ惑う人々を撃ち殺していった。

 春治の目の前に焼夷弾が降ってきた。前を走っていた大八車は荷物もろとも燃え上がった。あたりにまき散らされた油脂は粘度がありこびりつくと払うことはできない。

 春治は荷物もろとも燃え盛る人を横目に走った。

「こっちは駄目だ! 火が迫ってくる!」

 目の前から飛び出してきた見知らぬ男が叫ぶ。そうすると皆慌てて、もと来た道を引き返した。何人かは横道にそれ飛んできた火の粉にまかれて燃えていった。

 先ほどの大八車はとっくに崩れ、押していた人間は真っ黒の炭になり、地べたで炙った烏賊のように反り返っていた。



 家の前に置いた防火水槽の水を一家三人は頭からかぶり町の中を逃げ惑っていた。家は飛んできたトタンくずが屋根に突き刺さり頓狂な家になってしまった。茂がそう騒いでいたが母がポツリと「この家も残らないかもしれないわね」とつぶやいていた。

 逃げ惑う人々ともに防空壕に到着した。中はすでに寿司詰め状態。ひしめき合った人々が安堵の表情を見せている。

 清子もようやく一安心かと腰を据えようとした時だった。

「あ!」

 忘れ物をしたことに気づき大声を上げる。母と茂はもちろん周りの何人かも清子を見上げた。母がどうしたのと尋ねようとした時だった。

「忘れ物!」

 清子はそう叫ぶと防空壕から飛び出していった。普段は絶対そんな行動をとらない。しかしこのときは違った。なぜか居ても立っても居られなくなり清子は本能のまま飛び出した。その様子を見ていた茂も脱兎のように飛び出していき、慌てた母もそれについていった。


 二つほど辻を行った先で茂には追い付いたもののすでに清子の姿はなく目の前には大火の壁が迫ってきていた。

「おい!」

「あなた!」

 振り返るとぼろぼろになり煤けた春治が立っていた。

「清子が! 家に戻っていったの!」

 母がそう叫ぶと春治は「お前たちは壕で待っていろ!」と叫び走って行ってしまった。

 母はすかさず茂の手を取ると「絶対離しちゃだめよ」と言い駆けだした。

 茂は自分とさほど背の変わらない母の力強さにすがるしかなかった。

 しかし防空壕に戻ると出入り口の穴からごうごうと火炎が噴き出している。その入り口には逃げようとした途中で息絶えた人型の炭が倒れていた。

「ここもだめだ……」

 茂は思わずつぶやいた。



 清子が家にたどり着くとまだ家は家の体裁を保っておりかろうじて火が燃え移っている程度だった。

 庭から土足で家に飛び込むとそのまま水屋のキャラメルをひっつかむ。

 みんなで食べようと約束したからどうしても持っていたかった。そして明日、キャラメルを食べてみんなで笑うのだ。

 そして縁側に立ち、庭に飛び出す間際だった。

 目の前からB29が清子めがけて突っ込んでくるのが見えた。そして操縦席のアメリカ人と目が合うと相手はにやりと笑い大量の爆弾をまき散らしながら清子の家の屋根瓦を吹き飛ばしていった。


 ――清子、しっかりして。

 誰かが呼んでいる。意識がもうろうとして瞼すら開かない。

 ――あともう少しで春治が来るからね。

 お父さん。私、死んじゃうかも。ごめんなさい。ごめんなさい。キャラメルが惜しいばっかりに。ごめんなさい。

 ――きっと助けるから。私が絶対助けるから。

 誰だろう。

 まどろむような意識の中何とか目を開けた。そんな清子の目に入ってきたのは焼け落ち、がれきになってしまった家と地べた。そして清子に覆いかぶさる白い体の狐だった。



 ――春治。

 轟音に紛れて誰かに呼ばれた気がした。しかし振り返る余裕はない。

 春治は火のない道を選びつつ家に向かおうとしていた。しかし走れば走るほど火にまかれ家から遠ざかっていく。降りかかる火の礫には鉄やら木くずが燃えて体を切り裂いていく。

 ――春治、よく聞け。

 どこかで聞いたことのある声だな。そんなことを頭の片隅で思い出していた。非常事態になればなるほど冷静になる。不思議なことだと、どこか他人事のように思っていた。

 ――清子はまだ生きている。俺についてこい。絶対に遅れるな!

 ああ、そうだ。子供のころに出会った不思議なおじさん。

 すると火炎の中から一匹の動物が飛び出してきた。体躯は白、犬のようでありながら潤沢な毛を蓄えた尾。炎の熱のせいか二本生えているように見えた。

 それは春治をじっと見つめたかと思うとぴょんと跳ね煙の中を突き進む。

 春治も何かに突き動かされるようにそれについていった。

 狐が行った先は燃え盛る炎が待ち構えているのにそこだけ通れるように火がくすぶり、通り過ぎるとまた燃えだした。

「畜生!」

 熱せられた空気のせいで腰に引っ掛けた手ぬぐいが勝手に燃えだした。気が付けば髪の毛もチリチリとくすぶっている。

 すると真上から豪雨のような水が降ってきたかと思うと見慣れた水瓶がゴロンと転がった。

「これは……店の……」

 ――急げ!

 狐は一度春治の方を振り返るとそのまま駆け抜けていった。そして辻を曲がると燃え盛る生け垣の中へ突っ込んでいった。

 春治は絶句した。これが家なのか――。

空に向かってごうごうと火柱を上げる様はまるで空をなめる大蛇の舌のようだった。

「清子!」

 庭につくと火にのまれたがれきの中に倒れる清子がいた。しかし奇跡的にがれきが組み合わさり清子は押しつぶされずにすんでいた。そしてまた不思議なことに店の前に並べて置いた水瓶がいくつも転がっている。

 春治は燃える家に飛び込み清子を引きずり出す。その瞬間がれきは崩れごうごうと火炎をまき散らした。

 引きずり出した清子の左足はめらめらと燃え盛る炎に包まれていた。春治はすぐさま濡れた羽織を清子の足に巻き付け、踏みつけ火を消した。

 タスキをほどき負ぶった清子を巻き付けると春治は燃え盛る町に飛び出していった。



 がれきの下敷きになった狐は叫ぶことなくもう一匹を見つめた。

『清子は無事だった?』

『ああ、ああ、無事だとも。春治が連れて行った』

 ほっとしたようにため息を吐く狐。そして意を決したようにもう一度顔を上げる。

『私はもう駄目だ。お前は春治たちを家族の元まで導いて』

『……ああ、わかった』

『達者でね』

『ああ、お前も達者でな』

 一匹が赤い空に吠え大きく跳ねると守るべく家族たちの元へ向かった。そしてごうごうと燃えるがれきが雪崩のように崩れ小祠の半分を押しつぶしていった。

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