ライスカレー

 ここ最近、春治の様子がおかしい。気がふれてしまったとかではない。ただふとした時に表情に影を落とすようになった。母はどうしたものかと頭を悩ませた。

 精の出るものでも食べれば元気になるだろうか。とはいえここ最近の配給は前のようにはいかなくなっていた。

 どうしたものかと川辺を歩いていると、蕎麦屋の若女将に呼び止められた。相談してみると彼女は「いいものを上げるから春治ちゃんと一緒においで」と言われ半信半疑ながらもそうすることにした。

 店を閉めた後春治の手を引きながら歩きだす。

「今日はちょっと行くところがあるからね」

 春治はきょとんとして見上げてきた。西日に照らされた瞳がキラキラと宝石のように輝いている。それが美しくにこりと微笑んだ。そんな母の様子を見た春治もうれしくなったのかにこりと微笑み返した。

「おかあちゃん疲れてない? 梅子おんぶしようか?」

 春治の視線は母の背中に向いた。すやすやと眠る妹の梅子は柔らかい頬を母の背中に押し当てている。

 一日中店に立ち、働きづめだった母を労わろうと春治は訊ねた。しかし母は首を横に振ると「今日は春治にいいものがあるんだって」と話をそらした。

 影踏みをしながらたどり着いた先は蕎麦屋だった。

「お、来たね。すぐ用意するから待っててね」

 蕎麦屋の若女将は春治に挨拶をしてから店の奥へ引っ込むと、すぐに小包をもって来た。

「ほら、これ。カレー粉」

「カレー粉?」

 春治の手のひらに乗せられた小包からはつんと独特な香りがした。

 春治と母が一体どういうことだろうとそれを見ていると若女将が景気よく笑いながら口を開いた。

「これね、うちで出してるカレー南蛮の材料なのよ」

 カレー粉が普及しだすと我先にと献立に取り入れたのが蕎麦屋だった。物珍しさに訪れる客は多く、かつ旨いと話題になり繁盛した。

「これライスカレーが作れるからよかったらもらって」

「いいんですか。こんな大変な時に」

「大変だからこそだよ。それに見たところ、うちよりあんたたちのほうが大変そうだからね。作り方は書いて入れておいたからやってみなよ」

 女将は春治の頭を撫でながら「ごちそうが食べられるからね」と笑った。

 若女将には春治も母も同じくらい元気がないことに気づいていた。原因ももちろんわかっていた。そしてそれはどこの家にも言えたことだった。家族が戦争に行って心休まるはずがないのだ。普段は空元気を出せていてもふとしたとき、張り詰められていた糸が不意に切れてしまうと、もうどうしようもない。何もかもなし崩しになってしまって心を取り戻せなくなる。

 春治たちは今その寸前のところだった。まだ元気だから。まだ大丈夫だから。そう心に言い聞かせるのも限界だった。だから若女将はせめてもの思いでなけなしのカレー粉を渡した。ただのおせっかいといえばその通りだ。でも見ていられなかった。決して若女将の家も余裕があるわけではなかったが。いてもいられなかった。心をすり減らし身をやつれさせ人の形を保てなくなる様子を見ているのが嫌だった。

 春治と母は深く深く頭を下げ帰路についた。その小さな背中が見えなくなるまで若女将は通りに立ち続けた。



 母が台所で若女将の手紙を見て黙っているのを見て、春治は梅子を背負い「散歩に行ってくる」といい外に出た。まだ小さな体の自分には背負い紐が食い込んでひどく痛んだ。それよりも目に涙を浮かべていた母の顔を見たときの心の痛みのほうが苦しかった。

 父が戦争に駆り出され家には春治と母と梅子しかいなくなってしまった。僕は男だからおかあちゃんと梅子を守らなければ。そう心に決め勇ましくいられたのは最初の一週間だけだった。あとの日暮らしは心が押しつぶされそうなほど恐ろしかった。もし父が帰ってこなかったら。首を締める真綿が紙縒こよられ擦られ麻縄のようにきつくなったのはいつだったか。春治にはもう思い出したくもない記憶だった。

 おとうちゃんは無事だろうか。痛い思いをしていないだろうか。死んでやいないだろうか。考えれば考えるほど紙縒られた真綿が首を締める。

 おかあちゃんは毎日元気に店に出ているけれど、どんどん小さくしぼんでいくようだった。擦り切れていつか石鹸のようになくなってしまうのではないだろうかと春治はいつも心配だった。

『少し聞いてもいいかな』

 とぼとぼと長い影を踏みながら歩いていた時だった。板垣の間から、ぬっと出てきた羽織袴のおじさんが声をかけてきた。山高帽に凛々しい眉。涼しげな目元と立派な口ひげを蓄えたおじさんだった。

 春治が胡乱に見上げているとおじさんは言葉をつづけた。

『少し道に迷ってな。案内をしてほしいんだが』

「……どこ行くの?」

 最近女子供を狙った人さらいがいると聞いた。母が知らない人についていかないようにときつく言っていた。春治は警戒しながらおじさんの様子をうかがった。

『花屋を探しているんだが』

「うちは花屋ですけど、もう店は閉めました」

 春治がそういうとおじさんは立派な眉を少し下げ『そうか……』と残念そうにつぶやいた。

『お世話になった人に会いに来たんだが』

「おかあちゃんの知り合いですか?」

 そう訊ねるとどうやら祖母のことらしい。死んだことを伝えると彼はまた『そうか』とつぶやいた。そして『線香だけでも上げたいのだが』と尋ねてきた。

 家から離れたがる人さらいはいても家に来たがる人さらいはいないだろうと春治は半信半疑ながらも了承した。


 おじさんと隣り合って歩くと自分の長い影よりもさらに長い影が並んだ。

『妹のお世話かな』

「はい……」

『……そうか。偉いな』

 そういって頭をそっと撫でられる。こうして撫でられたのはいつぶりだろう。母とは違う男の人の武骨な手。海を越えた地で戦う父を思った。つんと鼻の奥が痛んだ。話題を変えようと春治はおじさんに話しかけた。

「おじさんはどうしてそんな恰好をしているの?」

『……変か?』

「うちの裏のおじいさんなんて縁側にふんどし一丁で涼んでるよ」

 春治がいたずらっぽく言うとおじさんは口許を手で押さえ『間違えたか……』と小さくつぶやいたような気がした。

「すごく暑そうだね。お呼ばれでもあったの?」

『あ……ああ、そうさ! お呼ばれされていたんだ!洋食屋に行ってきたんだ』

 春治はとても興味を持った。話には聞いていたがお金持ちや偉い兵隊さんしか食べられないものだからだ。どんなものを食べたのか尋ねるとおじさんは『ううん……』とうなって黙ってしまった。そしてしばらく悩んだ後ゆっくり考えながら口を開いた。

『ええと……獣肉を焼いたものと』

「獣?」

『多分……牛』

「牛?」

『不思議なたれがかかっていて』

「たれって?」

『あとは煮込んだ野菜だ』

 春治は容量を得ない話にぽかんと見上げるしかできなかった。そんな春治を見て慌てたおじさんは『うまかったぞ!』とまるで自分に言い聞かせるように言い切った。

「おじさんはお金持ちの人?」

『いいや』

「それとも偉い兵隊さん?」

『違うぞ』

「……ふうん」

 お金持ちでも兵隊さんでもない人が戦争に行かずにいられる方法があるのか。春治は不意に思ってしまった。

 足を止めぽつねんとしている春治を見た。数えで七つになるただの小さな子供だった。その小さな体に苦渋がしみこみ弱音を吐けず泣きもせずただ身を震わせ耐えている。

『坊や、君はひどく苦しそうに見える』

 だまってうつむいたままの春治。きゅっと握ったこぶしが震えている。泣くのを我慢するときの癖だった。

『苦しかったり悲しかったりしたら泣くんだ。君はまだ子供で甘えられる母親がいる』

「そんなことしたらおかあちゃんが壊れちゃうじゃないか!」

 春治は目一杯叫ぶと堰を切った涙たちがあふれてきた。ぼろぼろと子供らしい丸い頬を転がっていく。落ちた涙はくたびれた着物に染みた。

「僕が頑張らなきゃダメなんだ。どれだけ待ってもお父ちゃんは帰ってこないから。おかあちゃん頑張ってるから、梅子の世話もあるから、お店もあるから。じゃないとおかあちゃんがいっぱいになって、いつかダメになっちゃうんだ」

 春治は自分に言い聞かせるために言葉をつづけた。心についた無数の傷が涙に沁みた。どれだけ言葉をつづけようと涙は止まらなかった。

『きっとおかあちゃんが悲しそうなのは、お父ちゃんが帰ってこないこともある。でもな、君がおかあちゃんを頼らないのも悲しいんじゃないかな』

 子供に無理をさせている負い目からいつの間にか自分を責めてしまうようになった。夫を亡くす不安とやせ我慢をする息子を見て心を痛めていた。

 そんなことをおじさんは優しく春治に伝えた。

『坊やのおかあちゃんはきっと優しい人だから、君が甘えてくれたらきっとうれしいと思うな』

 おじさんはかがんで春治と目を合わせた。西日が反射しておじさんの目がキラキラと輝いている。

「そうかなあ……」

『きっとそうさ。だって坊やはおかあちゃんのことを思うほどやさしいだろう?』

 喉を鳴らしながら春治は頷いた。


 それからの帰り道、春治はおじさんと手をつなぎながら帰った。祖母のこと、父が生まれた時のこと、母が嫁いできた時のこと。どれも子細に話してくれた。

 まだ涙目ですんすんと鼻を鳴らす春治にはなぜそんなことを知っているのか訊ねることはできなかった。

 さらに長くなった影を踏みとぼとぼと歩いていると、嗅いだことのない不思議な匂いがした。顔を上げると見慣れた近所の風景ですぐそこの角を曲がると家の生け垣が見えた。

 家の前には近所のおばさんや友達が群がるようにして家を除いている。みんなこの不思議な匂いにつられてやってきたようだった。

『さあ、着いた』

 そういうとおじさんの分厚い手が離れた。そして一歩下がり春治を見つめる。

「おじさん、線香あげてかないの?」

『今度にするよ』

 そういったおじさんの視線はとてもやさしかった。

『ほら、行きなさい。おかあちゃんが待ってるぞ』

「うん、ありがとうございました」

 ぺこんと頭を下げ家のほうへ駆けていく。すると春治に気づいた近所の子が「あ!春ちゃん!」と叫ぶ。春治は手を振って応える。

 もう一度、おじさんのほうを振り返った。おじさんは神々しい西日の中で季節外れの山高帽を上げ春治に微笑んだ。まぶしすぎる西日のせいか、蜃気楼のせいか、おじさんの頭に犬のような立耳が生えているように見えた。


 食卓に並んだライスカレーはどうやら成功したらしい。母はとてもうれしそうに春治を見ている。春治もまたうれしそうな母を見てうれしくなった。

「これはね春治のおばあさんが好きでよく食べていたものなんですって。おばあさんが好きだったものはカレー南蛮だったけど、きっとライスカレーも好きなんじゃないかしら」

「知ってるよ! よくあのお蕎麦屋さんに行ってたんだよね」

 春治が嬉しそうに話すと母は大層驚き目を見開いた。どうして知っているのか訊ねると春治はおじさんに教えてもらったという。

「本当はお線香をあげに来たそうだけど、帰っちゃった」

「どんなおじさんだった?」

「山高帽に羽織袴のおじさんだよ。立派なおひげが生えてたの」

 そのおじさんは春治の家のことをなんでも知っていたらしい。話を聞いているとなんと自分たちの婚姻の話まで知っているという。しかしあの場にいたのは互いの両親のみで親類縁者は誰一人として呼ばなかったのだ。何者なのだと眉間に皺を寄せていると春治が不安そうに見つめているのに気が付いた。

 この子は器量がよくて心の機微によく気付く。子供にいらぬ心配をさせてはいけないとにこりと微笑んだ。

「春治、ライスカレーおいしいわね」

 つややかな白米にかかる黄金のカレー。近所から寄せ集めたであろう野菜はほっくりと柔らかく、鼻を通り抜けていく独特な香りも白米の甘みとよく合った。

 春治はうれしくなり元気に返事をした。



 家の中からはしゃぐ親子の声がする。狐たちは久々の団欒の声に耳をそばだたせていた。

『不服な顔をしているね』

 不貞寝をする狐に問いかけた。ぶるると身震いをして起き上がってもなお不満げで大きくため息をついた。

『子供が子供らしくいられない世なぞ、価値があるのか』

 もう一匹は何も言わず言葉を促した。

『人々を苦しめていることがなぜわからない。苦しむことをなぜ強いる。勝利のためだと理由をつけているが幸せになるためになぜ人を不幸にする』

『愚かだね』

 もう一匹がそういうと狐はもう一度身震いした。まだ怒りが収まらないようだった。

『人は叡智の生き物だと思っていた。しかし己を傲り力を見せつける様はなんと滑稽か』

『いつか地獄を見る時が来るね』

 もう一匹がそういうと狐はとても情けない顔になった。

『……春治やこれからの子供たちにその火の粉が降りかからなければいいんだがな』

 空には大きな満月がかかている。それなのに狐たちは耳を下げ互いにうつむいた。

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