油揚げの含め煮

 富子が嫁いだとき、舅の儀助が大層喜び、これから食うのに困らぬようにと庭に稲荷の小祠を建てたのがつい一年と半年前。なけなしの金でそれを建てた後ぽっくりとこの世を去り一年。実父の往生がたたり、心労で寝込んだ義父喜兵衛が快復したのがついこの間。医者代も安くなく皮肉にも食うのに困らずという願いは叶えられていない。


 ここ最近の江戸の物価は右肩上がりだった。ついこの前まで十文ほどで買えたものが少し目を離したすきに二十文、三十文と値上がりしている。どこの店でもじりじりと値を上げているからか巷では幕府は傾いているのではないだろうかと噂されている。とはいえいくら噂が広がろうとその日食うものが安くなるわけでもなく、富子はその日の献立に頭を悩ませるのだった。



『妾は悲しい』

 さめざめと袖口を涙で濡らすふりをする。狐たちは大きな耳をピンと立て、彼女の声をよく聞こうとじっとしている。

『儀助がこの家に妾を祀り早一年と少し。くりやを覗いてもちっとも豊かになった様子はない。それどころか富子は毎日銭を睨みつけ献立を考える始末』

 そう言い項垂れるとはらりと一房毛が垂れる。

『富子がこの家に嫁ぐと同時に妾もこの家に訪れた。すなわち同胞も同然。その富子が窮地に立たされておるのならば助力をしたいと願うのは当然のこと』

 拳を握り力説すると狐たちはうんうんと頷く。彼女の言うことに思うところがあるのだろう。

『しかしどうじゃ?夫の儀一郎はろくに家に帰らずふらふらと。夫婦めをととは支えあうものであろうに。いったい何をしておるか』

『今は無役です』

 狐がそう言うと彼女は悔しそうに膝を打つ。ぱしんと音が鳴ると狐の耳もぱたんと倒れた。大層気が立っているようで皺の寄った眉間を揉んでいる。しばらくして落ち着きをとりもどしたのか『まあ良い。そう言うこともある』と掌を見せた。

『妾が申しておるのは家に帰らずどこをほっつき歩いておるのかということじゃ』

『少し前は川向こうの花街に。しかし最近は川辺にある蕎麦屋に入り浸っているそうです』

『あそこのとろろそばは醤油だしがよく効いて絶品ですので』

『確かに旨いが、妾は山菜そばも捨てがたいのう』

 そう言い切った彼女は、話が脱線していることに気づき違う違うと頭を振った。

『縁を結んだのは富子じゃろうて。蕎麦屋の主人と細く長く縁を結んでどうする。そもそも花街で遊ぶ銭も蕎麦屋で支払う銭も富子が丹精込めて育てた朝顔があったからこそであろうに』

『ここらでは朝顔屋敷だなんて呼ばれてます』

『老若男女、遠方からも朝顔を買いにきますよ』

『器用じゃのう富子は……』

 感心しながら庭に咲く朝顔たちを見る。日も暮れてきてだんだんと花を閉じてきてはいるがそれでも十分上等なものだとよくわかる。生き生きと伸びた蔓に青々とした大きな葉が茂り、美しい色合いの花が顔を寄せ合っている。これも富子が内職で始めたものだったがなかなか元気に育つものだから最近では噂を聞いてわざわざ隣町から買いに来る客もいた。

『そんな器量よし愛想よしの富子に苦労を掛けて良いわけがない!』

『そうだな』

『そうだね』

 狐たちが頷くのは同時だった。

『まずは儀一郎を家に連れ戻す。蕎麦で消えていく日銭を無くすためじゃ。お前たちにできるかえ』

 背筋を伸ばし凛とした声で訊ねる。狐たちは承諾すると同時に叩頭した。



 山屋は江戸でも一、二を争うほど有名な豆腐屋で、なんでも相撲を観るなら山屋なしじゃ始まらないといわれるほど繁盛している。

 藍色の暖簾をくぐると下働きの留吉が富子を迎えた。

「留吉ちゃん、こんにちは。油揚げあるかしら」

「へえ。厚揚げも薄揚げも用意してます。どちらになさいますか」

 留吉は「どちらも揚げたてです」と無邪気に笑う。富子は薄揚げを頼むと巾着から銭を取り出す。保存が効くのでいつも同じだけ買っていくのだ。

「はい、これでちょうど」

「はい、確かに。それと値段のことなんですが……」

 帳簿をつけた留吉は申し訳なさそうに富子を見上げた。

「もしかして値上げするのかしら」

 富子が頬に手を当て困った表情で訊ねると留吉はつり下がった眉をさらに下げひとつ頷いた。

 留吉が言うには何とか今までの値段で切り盛りしていたが、繁盛してはいるとはいえ不況のあおりには耐えられずとうとう苦渋の決断を下さなければならなくなったらしい。

「そう……残念だけど仕方がないわね」

「ご理解ありがとうございます」

「そんなに落ち込まないで。あきないってそういうものでしょう」

「おいら、もしこの店がつぶれたら田舎のおっ父とおっ母に合わす面がねえんです。妹や弟たちも暮らしに困るんじゃないかと思うと不安で眠れなくなるんです」

「まあ……」

 まだ十歳にも満たない子供がひどく落ち込んでいる様子を見、富子は大層気の毒に思った。そして留吉の肩に手を置くと腰をかがめ留吉の目を見つめた。くりくりとした硝子玉のような瞳が薄い瞼に収まっている。

「大丈夫よ、留吉ちゃん。家に帰ったらお稲荷さんにお願いしてあげる。山屋さんの油揚げは絶品です。ですからお店をつぶさないでくださいってね」

「お稲荷さん?」

「そう。私と一緒に嫁いできたお狐様よ。庭に祠があるの。だからきっとお願いを聞いてくれるわ」

「本当にですか?」

「もちろん。だって油揚げが大好物だもの」

 富子がそう言い切ると店の奥で帳簿を付けていた山屋の主人が笑いながら出てくる。

「そこまで言われちゃお狐様にお願いしてもらおうかな」

 そう言いながら富子の荷に一枚油揚げを追加した。稲荷の小祠に供えるように一枚まけてくれたようだ。

 富子が慌てて感謝すると「願掛けみたいなものですよ」と笑いながら奥に戻っていった。



 黄金色のつゆに灰褐色の細麺が泳いでいる。儀一郎はそれを眺めながら小さくため息をついた。

「どうしたんで」

「あ、いやあ、なにも」

「せめて旨そうだなって顔してくれよ。客が逃げちまう」

 蕎麦屋の言うことはもっともで儀一郎は閉口した。

 気の弱い儀一郎は喜兵衛に厳しくしつけられた。武士たるものがそんな心持ではいけないと叱咤する。そもそも御家人の末端の末端の末端程度の身分の侍に矜持もなにもないだろうと心の中で悪態をつくのが常だった。

 そんな弱気な儀一郎の面倒をよく見てくれたのが祖父の儀助だった。泣きべそをかいている儀一郎はそんな祖父になつかないはずもなく、祖父が他界すると心にぽっかりと穴が空いたような気になってしまった。それは父も同じだったようで、気丈だった父が弱々しく小さくなっている様を見てさらに家に居づらくなった。

「あんた家に帰ってんのか」

「まあ」

「はっきりしねえな。まさか寝るためだけに帰ってるとかじゃあるめえな」

「……」

「図星かよ」

 店主はやれやれと頭を垂れると儀一郎に向き直った。

「あんたそんなんでどうするんだよ。嫁さん一人でかわいそうだろう」

「父がいるよ」

「そういうことじゃねえ。嫁さんにとっちゃ嫁ぎ先の義理の父でしかないんだ。言い換えれば赤の他人さ。縁を結んだのはあんたとなんだ」

 この店主はなんてひどいことを言うんだと思った。身分で言えばただの商人。しかし儀一郎には言い返す術はなかった。

「せっかく結んだ縁だ。なにも嫁さんが憎くて苦労かけてるわけじゃないんだろう? だったらとっととそれ食って帰ってやんなよ」

「そうだけど……俺が憎まれてるよ」

 我ながら何と子供じみた言い訳だろうと思った。儀一郎は叱られた子供のようにうなだれ蕎麦と面を突き合わせている。

「そりゃあ、そのままじゃ嫌われまっしぐらかもしれねえな」

 となりで山菜そばを啜っていた親父が言う。聞き耳を立てられていたようだが仕方がない。繁盛しているが声が聞こえない距離ではないのだ。

 親父はそれだけ言うとそばを啜った。

「今までの出来事を省みてこれからどうすんのかはあんた次第だよ。うちの亭主はこの世で一番いい男だけど何から何までよかったわけじゃない。膝付き合わせて何度も話し合ったのさ」

 蕎麦屋の女将が後ろの机を片しながら言う。それを聞いていた親父が「あんたたちまだまだお熱いね」と揶揄からかうと「おかげさまでね」と笑った。

「もし話し合いすらしなかったら卸して蕎麦の出汁にしてたね」

 そりゃねえぜと店主が額に手を当てると店の中がどっと沸いた。

「ともかく、俺はあんたに一目置いてんだぜ? 侍の癖に偉そうにしないし、物腰も柔らかくて挨拶だとか人として基本的なことがしっかりしてる」

「侍の癖にって……」

 ぽつり、そう呟くと「矜持があんなら甲斐性みせな!」と女将に背中を叩かれる。おっしゃる通りだと儀一郎は思った。

 それから発破をかけられながらそばを胃の中に入れると半ば追い出されるようにして店を出た。


 蕎麦屋の店主は買いかぶりすぎだ。女将も便乗しておだててくるし。

 ぽてぽてと歩を進めるも気が乗らない。草履が大小拵えよりも重く感じた。それにそばを流し込んだから食べた気がしない。いつもならゆっくりそばを食べて遠回りして家に帰っているから、なぜ早く帰ったのかと問い詰められないだろうか。気を揉ませているとさらに歩が進まない。いつもの時刻に帰るには遠回りを三回くらいしなければならなさそうな塩梅だった。

『あの……』

 大きくため息をついたとき何か聞こえたような気がした。ぐるりとあたりを見回した。行燈を高く上げればそれだけ広く照らされるが影も多くなる。

『もし……お侍様』

 風に吹かれててしまいそうなほどか細い声をたどれば、その声に似つかわしい華奢な女が儀一郎を見ていた。正確には顔はわからなかった。帯から上は影ってよく見えないうえに頭巾をかぶっているようだった。

 侍と呼び止められ誰のことかと逡巡した。しかし自分のことかと理解し「何か」と問いかけた。

 女は一歩前に出ると頭巾をとり、顔を見せた。暗がりでもわかる。玉のように白い肌。薄紅の唇と控えめな鼻。黒曜石のような瞳を収める瞼は薄く、弧を描きながら小筆の先のようなまつ毛が目尻を緩やかに跳ね上げていた。

 芸術品のように美しいと思うとともに、あまりにも浮世離れしている顔立ちのせいで儀一郎はぽかんと口を開けてしまった。

『宿屋を探しておりまして』

 ああ、そういうことか。すぐに合点がいった。

儀一郎はあまりこういうことに慣れてはいなかった。家を出ていざ花街に行ってもぶらぶらと往復するだけでいざ女を買うにもしり込みしてしまい、結局は食い物屋に入ってしまう始末。置屋の番頭からは呆れられ、遊女たちからも揶揄われ、儀一郎はとうとう居場所がなくなり蕎麦屋に落ち着いた。情けないと落ち込むがこれが性分なのだから仕方がない。

 気骨のある男だったら喜んで部屋を貸すだろう。儀一郎もそう言う場面によく出くわした。しかしその時の男の下品な顔を何度見ても慣れなかった。自分もそうなるのだろうか。そう思うと気味が悪かったし居心地が悪かった。

『町中の宿屋を回りましたがどこもいっぱいのようで困っております』

 どうにかして断れないかと考えていると先手を打たれてしまった。そしてまず思うことは、富子はなんと思うだろうということだった。いらぬ軋轢を生むくらいなら最初から断ってしまいたい。ただでさえ気まずい状態なのにこれ以上気まずくなるようなことは避けるが吉。儀一郎は覚悟を決めた。

「それは残念。では、御免」

『え』

 踵を返し、さあどこで道草を食うか、と考えるよりも先に女が儀一郎の前に立ちふさがった。あまりの機敏の良さに今度は儀一郎が驚愕の声を上げた。

『お待ちください』

「私では力不足ですので」

『そう申さず』

 この女、やけに食い下がるなと儀一郎は再度女と向き合うことにした。

『実は人を探していたのですが……』

「宿屋ではないのですか」

 どうやら女は目当ての人物を探すため町を訪れたものの日が暮れてしまい、宿屋を探すも門前払いされ途方に暮れていたという。

「そう申されましてもこちらにも都合というものが」

『……せめて朝顔だけでも見たかった』

 顔をうつむかせた女はさめざめと袖を濡らす。目の前で泣かれるとどうも居心地が悪いもので儀一郎は仕方ないと「うちの朝顔でよければどうぞ」と口に出していた。

『お侍様のお宅にも朝顔が?』

「うちはここらへんじゃ朝顔屋敷だとか言われてるんです」

『朝顔屋敷?まさか富子さんをご存じで?』

 はっと顔をあげた女と目が合う。まさか女が探していたのは富子だというのだろうか。

 儀一郎の顔に出ていたのだろう。女は『朝顔屋敷に伺う予定でしたの』と嬉しそうだ。

 ここまで言われては断り切れない。儀一郎は観念して女を案内することにした。


『こちらが朝顔たちですね。まあ素敵』

 門扉を抜けそのまま庭に案内すると女は破顔させながら感嘆の言葉を漏らした。確かに女の言う通りで、しばらく見ない間に立派になっていた。

『昼間に見たらさぞ美しいんでしょうね』

「ええ、きっと」

 朝顔が立派になっただけ富子を放っておいたということを嫌と言うほど自覚した。

 喜兵衛の世話もあるだろうによくここまで育てたものだと感嘆のため息を漏らす。

 その時だった。背後の雨戸がカタリと鳴った。

「誰かいるの?」



 富子が雨戸を開けると儀一郎がいた。月明かりに照らされた朝顔たちを見ていたようで振り返った儀一郎と目が合った。

「富子……」

「儀一郎さん。お帰りなさい。そんなところでどうしたんですか」

 どこか安心したような表情の儀一郎を見て変わらない人だなと富子も安心した。しっかり顔を見るのはいつぶりだろう。富子がそんなことを思っていると儀一郎は思い出したかのように口を開いた。

「そうだ、富子。こちらの方が……あれ」

「どなたです?」

「今さっき話していたんだ。隣で、朝顔が綺麗ですねって」

「はあ」

 あたりをきょろきょろ見回す儀一郎に倣い富子も縁側からあたりを見回した。左手には門扉につながる庭石が続いている。右手には屋敷の奥、稲荷の小祠が建っている。

 あら、と富子がよく目を凝らすと小祠の奥から白い三角が二つ飛び出している。屋根越しに見えるそれは、聞き耳を立てているのかぴるぴるとせわしなく方向を変えている。そしてどうやらそれは儀一郎には見えている様子はなかった。

「もしかして狐にでもつままれたんじゃないですか」

 富子がいたずらっぽく言うと、三角耳が驚いたように正面を向くのと儀一郎が「まさか」と驚くのは同時だった。

「それよりお夕飯はどうしますか」

「ああ、いただこうか。それと長い間苦労をかけてすまなかった」

 これで今までの富子の苦労がなくなるとは思っていない。これから誠意を見せて富子に恩返しをしなければ。儀一郎は覚悟を決めた。

「良いんですよ。さあ冷めちゃいますからね。早く上がってください」

「献立はなんだ」

「油揚げの含め煮ですよ。しっかり染みてますからね」

 砂糖は高いがたっぷり使った。醤油もしっかりしみている。甘くて辛くて、ふかふかの油揚げ。かみしめるたびにたっぷりのたれがあふれてくる。それだけでもおいしいけどやさしい人と一緒に食べればきっともっとおいしい。

 富子は大概お人よしだと思った。しかし名も知らぬ狐が結んだ縁だ。もう一度大切にしてみようと思った。


 ――虫も鳴かぬ夜。

 富子は小皿を持っている。小皿の中にはおまけでもらった油揚げ――含め煮。向かう先はもちろん庭の小祠。

 音を立てないよう草履を履くとこっそり庭に回った。ひんやりと心地のいい風が通り抜けていく。

 小祠の前、土台の埃を手で掃い小皿を置くとそっと手を合わせた。何を感謝したのかは言わずもがな。

 踵を返し、その場を後にすると背後から『油揚げだな』『油揚げだね』と囁くような会話が聞こえたような気がした。

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