お稲荷さんのいるところ
鳳濫觴
稲荷寿司~プロローグ~
夏風邪をこじらせると面倒だとよく言うが、祖父の茂は梅雨に入るころ肺炎にかかり入院したかと思うと梅雨が明けてから逝った。本人は至って元気だったし、なんなら退院してから結衣と動物園に行く約束までしていたくらいだから茂の死は一家にとって青天の霹靂だった。
「お母さん、今日の晩ごはんは?」
結衣は訊ねた。しかし母と祖母は弔電がどうとか香典返しがどうとか店を休まねばだとか色々話し込んでいる。
父は親戚を最寄りの駅まで送りに行ったため不在だった。だから外に食べに行くこともできない。
「ねえお母さんごはんは?」
先ほどよりも語気を強めて言えば「冷蔵庫にあるから食べちゃって」と口早に応えた。
すでに準備済みならそう言えばいいのに、と結衣は台所に向かった。
むせ返るような熱気が体を包んだ。じんわりとした嫌な汗が噴き出してくる。居間と仏間はエアコンが効いていたから余計に暑く感じる。しかしそれは冷蔵庫を開ける前までの話で、目の前にある扉を開くとひんやりと心地のいい空気が降り注いでくる。
しばらく涼んだ後に母が言っていた晩ごはんを探す。扉のポケットには作り置きの麦茶と瓶ビールと調味料類。四段ある棚の上から納豆のパック、作り置きの漬物の小鉢と切った葱、いつ使ったかわからない鰹節パック、新品のラップがかかったままの寿司桶。寿司桶に関しては昼間にも見たから覚えている。きっと誰も手を付けなかったあまりだろう。
「お母さーん! 晩ごはんってどれ!」
半ば叫びながら居間の母に訊ねると「お寿司あるでしょう!」と、やまびこのように返事が帰ってきた。
しかしラップ越しに見えるのは昼間に食べた助六寿司。正直乗り気ではなかった。
特別苦手というわけでもない。ただ欲を言えばサーモンだとかマグロだとかが食べたい。寿司と言えば魚が乗ってこそだろう。
オレンジがかったピンク色に程よくサシが入った切り身。ねっとりと絡みつく濃厚な脂にはほんのりと甘みが感じられ癖のない柔らかい身は舌にのせると体温でほどけていく。想像するだけで唾液腺が刺激された。
ごくり。あふれそうな唾液を飲み込んだ時だった。
『稲荷だよ』
『稲荷だな』
結衣の耳許で誰かが囁いた。しかし囁いたというにはその言葉は結衣に向けられた言葉ではないような気がした。
結衣は振り返り台所を見回した。食器が行儀よく並んだ水屋箪笥とその横には暖簾のかかった広めの間口、そこから伸びる飴色の廊下しかない。誰かが囁いて出ていくには距離も時間も足りない。それに何よりその声は母のものでも祖母のものでもなかった。
暑さでおかしくなってしまったのかもしれない。気のせいだと言い聞かせ冷蔵庫の寿司桶に向き直った。その時だった。視界の端に白く棚引くものが見えた気がした。蒸気の塊かとも思った。しかし蒸気というにはしっかりと縁どられていたし、かといって質量があるような感じでもなかった。何より炊飯器もやかんもポットも使われていない。
そうか。思い出した。
理科の授業で水の変化条件を学んだ時に寒暖差があると水蒸気が発生すると先生が言っていた。それに冷蔵庫を開けたときも冷気が雪崩のように降り注いだのを見た。
なあんだ。そういうことか。
結衣は再び寿司桶を見た。黒い漆塗りの桶の中に行儀よく並んだ稲荷寿司と太巻きがある。
『やっぱり稲荷だよ』
『やっぱり稲荷だな』
どういうわけかまだ幻聴が聞こえる。右の耳許で囁いたかと思うと今度は左の耳元で呼応する。耳に虫でも入ったのだろうか。
『うまそうだよ』
『うまそうだな』
にょろりと白い何かが視界の端に映った。結衣はすかさずそれを掴んだ。それは『きゅう』と獣のような悲鳴をあげた。
なぜそんなことをしたのかはわからない。とにかく無意識だったしまさか掴めるとは思ってもみなかったから驚いた。
手に掴んだそれは潤沢に生えそろった毛並みをしており生き物であることは容易に想像できるような手触りだった。台所に現れる毛並みの揃った生き物など相場が決まっている。
もしかしたら強く握りすぎて死んでしまったのかもしれない。恐る恐るそれを眼前に持ってくるとそれは結衣が想定していたものではなかった。
白い毛並み、大きな立ち耳、猫のような瞳に犬のような長い鼻先。何よりも立派な尾っぽ。それを結衣はつかんでいた。
どこからどう見ても狐だった。動物図鑑や動物園で見るそれだった。しかし狐というにはあまりにも小さくチワワほどの大きさしかない。仔狐のようにも見えるが体躯はしっかりしている。そして何より掴んでいるのに全く重量を感じなかった。
「……ハクビシン?」
『狐だよぅ……』
彼らは庭の小祠に仕える狐たちで稲荷寿司の匂いに誘われて様子を見に来たらしい。
「どうして話せるの」
『霊力があるからだよ。結衣のご先祖たちが大切にお世話してくれたおかげだよ』
「みんなとも話せる?」
『それは無理だな。人によるとしか言えん』
二匹は稲荷寿司にかぶりつきながら結衣の質問に答えた。正直要領を得ないし、言っていることの半分も理解できなかったが、満足そうに稲荷寿司を食べ『馳走になった』と頭を下げる様子を見て結衣は閃いた。
「願い事叶えられるの?」
『それは無理だ。我らの役目はお前たちを見守ること』
「食べてるじゃん」
『……そういうこともある』
ばつの悪い様子で顔を逸らす。獣の体をしておいて所作はずいぶん人間臭かった。
『稲荷おいしかったよ、ありがとう』
『茂のことは残念だったな』
「おじいちゃんのこと知ってるの?」
去ろうとする二匹に結衣が訊ねた。
『知っているよ。茂のことも結衣のことも。結衣のご先祖たちのことも、みんな知っているよ』
『いつも見守ってきたからな。いろいろなことがあった』
二匹は振り返り結衣を見つめる。くゆる尾先は二股に別れていた。
『茂はクリームソーダが好きだから時々供えてやるといいよ』
『俺たちにも時々何か供えてくれ。思い出した時でいいからな』
「結衣、どうしたの。起きて」
身を揺らされ顔を上げた。ぼうっとする頭であたりを見回す。台所の机で突っ伏して眠っていたようだった。台所のエアコンがいつの間にか起動していた。とはいえ夏の暑さを感じないわけではなく、じんわりと額にかいた汗のせいで前髪がひじきのように貼りついていた。
母が結衣の髪の毛を払い、汗をぬぐった。
「今日は色々忙しかったからね。疲れちゃった?」
否定とも肯定とも取れない返事をしながら眠気眼をこすった。さっきまで狐たちと話していたはずなのに。どうやら夢だったようだ。
「まだごはん食べてないの? インスタントのお味噌汁だけど用意しようか?」
母がそんなことを言いながら冷蔵庫を開ける。すると「あら」と驚いた声をだしたかと思うと寿司桶を取り出した。
「結衣……もう食べたの?」
「まだだよ」
「そう……お寿司屋さん間違えちゃったのかしら。二貫足りないわ」
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