第2話 穏やかで衝撃的な目覚め

目を覚ます。

記憶がはっきりしない。

自分が寝ていることだけはわかった。布団を払いのけ、ごろり寝返り……落下した。


「いってえ! くそ、畳が腐って抜けやがった……ハァ?」


素っ頓狂な声を上げる。

柊二郎があげた声は、明らかに女のものだ。言葉遣いはともかく、綺麗なソプラノだ。


「何だ、流行り風でもひいたか……って、なんだこの服」


身に纏う布は驚くほどひらひらしている。ついでに、物凄く上質だ。もちろん木綿ではなく、下手をすると絹ですらないかもしれない。南蛮渡りの天鵞絨ビロードというやつか。

そして、衣服をいじっているうちに、ソレに行きついてしまった。

あってはならない、脂肪の塊に。

つまり、胸に。


「……落ち着け」


高い声が出る。落ち着けない。


(夢だな……しかしこんな夢を見るってことは、俺にはこういう願望があるってのか……)


少なからずショックを受ける。ここまで驚いたのは、姉が大身の旗本に見初められて輿入れした時以来だ。

衝撃はなかなか引かない。なかなか豊かな胸から目を逸らして部屋を見渡せば、これまた異空間が広がっている。

この空間に柊二郎が知っているものは数えるほどしか置いていない。白と金のドレッサー、優雅な油絵、天上からはシャンデリアが吊るされている。


出島屋でじまやの地下室みてえだ)


出島屋とは、長崎で異国人との貿易に携わる大商人だ。貿易の監督は長崎奉行の仕事だが、商業をいやしむ武家に貿易のいろはがわかるはずもなく、実際に操るのは十数人の商人である。出島屋は長崎貿易商人の中でも特に有力な商人であった。抜け荷の取り締まりで数回店に入ったことがあり、西洋式にあつらえた地下室も見たことがあるが、こんな感じであった。

だが、この部屋は地上だ。ガラスから朝陽が差し込んでいる。

ガラス一つとっても、江戸期の人間にとってはぎやまんという高級品なのだ。


(随分と豪勢な夢をみたもんだ。これで、まともに男の姿だったらどんなに良かったか……)


そこで、ふと思い出す。

寝起きで――夢の中で寝起きというのもおかしな話だと思いながら――ぐちゃぐちゃになっていた思考が定まると、自分が『寝る前』に何をしていたかを思い出した。


「俺は、黒鷺の分左衛門と一緒に土砂崩れに巻き込まれたはずだ」


またもやソプラノ。ずいぶん綺麗な声だな、と感じた。


(じゃあ、俺は生まれ変わったのか)


突飛な発想ではない。仏教思想では輪廻転生は普通の考え方であるし、宗教や迷信に振り回されるのが近代以前の民である。メイドも悪役令嬢もとんと馴染みがないが、転生ネタだけは通じるかもしれない。轢かれるトラックは大八車に変えなければならないだろうが。


(それにしちゃ、俺の体がでか過ぎる)


転生なら赤子のはずだ。

とりあえず立ち上がる。コンコン、と音が聞こえた。

思わず身構える。


「お嬢様。お目覚めの時刻にございます」

「え」


お嬢様。

それが自分の事を指すのだと、気づいてしまう。


「お嬢様。お入りしてもよろしいですか……寝て、いますよね……」


何を恐れるのか、語尾が震えている。


(いや、その前に。どっから入るんだ。この部屋、どこにも障子がねえぞ)


もちろん、ドアからだ。

ガチャリと扉が開き、給仕服姿の女性が入る。

そして、柊二郎お嬢様の姿を見て、真っ青になる。


「お、起きていらっしゃいましたか! 失礼いたしました! 申し訳ありません!」

「はぁ?」

「ひぃぃぃぃ」


過剰なほどにおびえるメイド。当然柊二郎はメイド服をしらないから、変な格好をした女が意味不明に怯えているとしか思えない。


「おい」

「あ、その、すぐにお仕度いたしますので、どうかお仕置きだけはお許しくださいぃ……」


瘧のようにぷるぷる震えながら泣き出す女を見て、柊二郎は冷静になれた。取り乱している人間は、何よりの鎮静剤になるのだ。


(お嬢様、なんて呼ばれてんなら、べらんめえって返すわけにゃいかねえな……仕方ねえ、姉貴の猿真似で押し通すか)


姉が大身旗本に嫁ぐとき、暴れ馬を送り込んで腹斬る羽目にならないかと不安だった。何せ、悪鬼と畏れられる柊二郎を頭ごなしに怒鳴りつけ、時に殴りつける女傑だ。傲岸で粗野な柊二郎も姉には頭が上がらなかった。

そんな姉と久しぶりに会ったら、お姫様ひいさま言葉で挨拶されて、安心と吐き気に襲われたものだ。

まさかあの気味悪い話し方がこんなところで役立つとは思わなかった。塞翁が馬、というものか。


「構いません。そのようなことより仕度を」

「え……」

「何か?」

「い、いえ……お嬢様に、お見逃しいただくなんて……アリアは幸せものです……」


よよよと涙ぐむ。

この体の持ち主は、よほど峻烈な性格だったらしい。同心である柊二郎にとって『仕置』とは『刑罰の執行』である。ぱっと百敲ひゃくたたき手鎖てぐさりなどが思い浮かぶ。


(それはそうと、ありあってのは何だ。この泣き虫女の名前か……)


疑問が浮かんでは、消える前に新たな疑問が浮上する。

思考が追い付かないうちに、アリアが柊二郎の服を手にかける。

しゅるしゅると脱がせにかかって、柊二郎は思わず飛び下がった。


「お嬢様! な、な、何か失礼がございましたか……もしかして爪が引っかかって」

「いきなり脱がせる馬鹿が……ごほん、愚か者がいますか!」

「申し訳ございませんっ! で、ですが……このあいだ、声を掛けたら『いちいちそのくらいで声をかけないで! こっちはまだ眠いのよ!』って」

(この娘、着替えくらい自分でしやがれ)


だが困った。自分で着替えたいのはやまやまだが、女物の服の脱ぎ方がわからない。脱ぐのは引きちぎるでいいにしても、着方がわからない。この体で上裸でうろつくのは、よくないだろう。

柊二郎は、散々悩んで、アリアに任せることにした。アリアの着付けは、文句のつけようもないものだった。もちろん、『お嬢様』のお仕置きの賜物である。


「お待たせしましたっ」

「ありがとうございます」

「……⁉ お嬢様が、ありがっ?」


柊二郎は巨大な姿見と、そこにうつる女性を見て呆けていた。そのせいで、気絶しそうなアリアに気づかなかった。

夜の海のような黒髪は、腰に届かんばかりの長さだ。まげを結わず、鬢付け油の匂いもしない。目鼻立ちがくっきりしていて、吉原の太夫にも劣らないほどの美人だと思った。自分で自分を美人だと思うのは、当然初めてである。

そして、大きい。胸がではない。胸も大きい方だと思うが、それよりも躰そのものが大きい。ぱっと見五尺五寸(約百六十五cm)はある。男の柊二郎は五尺三寸余(約百六十cm)ほどで、享保の男性としては平均レベルである。

振り返れば、アリアも大きい。やはり五尺五寸はありそうだ。

そのアリアが意識を取り戻した。


「あ、お嬢様……お顔をお清めに参りましょう……」


半ば夢遊状態で洗面を施す。

いちいち人任せにするのは癪だが、やり方がわからないから仕方がない。

女性がすべき朝の仕度を一通り終わらせると、アリアがメイド服の裾をつまんで恭しく一礼する。

萌え文化を理解するには、柊二郎は三百年ほど早すぎた。


「改めまして、本日のお世話係はこのアリアがお勤めいたします。ステラお嬢様に誠心誠意尽くし、服従いたします」

(すてら、ってのは俺か? たしかそんな菓子を出島屋で食ったな)


それはかすてらである。

金色の繊毛の上を歩きながら、厚木柊二郎あらためステラ・グリンデルバルト侯爵令嬢は状況の理解につとめていた。

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