夏休み

 ジリジリと焼きつける日差しを避けるように、私は部屋のベッドに寝転がっていた。

 机の上には真っ白な宿題が開いたまま投げ捨てられている。


「まあ、今日はいいか……」


 夏休みは今月末までたっぷりある。

 焦る必要はどこにもない。

 そう思ってスマホを眺めていると、鶴川さんから通知が飛んできた。


『きょう、ひま?』


 クマのスタンプもいっしょだ。


『うん。ひま』


 私はそう返す。

 スタンプを付けるべきか悩んでいると、次のメッセージが来た。


『うちで宿題やらない?』


 今度は、鶴川さんからスタンプが届く前に、


『やる』


 と返した。


 〜〜


 鶴川さんの家まで電車で10分、歩きで3分。

 新築のマンションの5階に鶴川さんは住んでいる。

 エントランスのドアの前にあるテンキーに鶴川さんの部屋番号を入れて「呼出」と書かれたボタンを押す。


『亀戸さん!』


 鶴川さんの声がスピーカーから聞こえる。


「来たよ」


 自動ドアが開いて、私を迎え入れる。


『待ってるね』

「うん、すぐ行く」


 エレベーターに乗って5階へ。表札の上に書かれた部屋番号を数えていくと、角に鶴川さんの部屋を見つけた。

 玄関のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開く。


「もしかして、そこで待ってたの?」

「待ちきれなくて。さ、上がって」


 部屋着の鶴川さんを見たのは、もしかすると初めてかもしれない。

 英語で何やら書かれたラフなTシャツに、柔らかい素材のショートパンツ。長い髪を適当に結び、黒縁のメガネをかけていた。

 一緒に映画を見に行ったときも、水族館に行ったときも、鶴川さんはコンタクトだったし、服もすごくオシャレだった。

 鶴川さんの気楽そうな服装を見て、ずいぶんと気合を入れた自分の恰好がこそばゆかった。

 そんな私の心持ちを知ってか知らずか、鶴川さんは私の手を取って、鼻歌交じりに部屋に連れていく。


「ようこそ、私の城へ!」


 芝居がかった口振りでそう言う鶴川さんの部屋はどことなく甘い香りがした。

 薄いピンクの壁紙と、水色のベッド、黄色いテーブルにクッションがふたつ。ひとつは黄緑色でもうひとつは深い緑。ふたつ目の方はきっと両親のどちらかから借りてきたのだろう。本棚には少女マンガがびっしり並んでいた。

 私の白と茶色しかない殺風景な部屋とは正反対の、パステルカラーで華やかな部屋だ。


「飲み物持ってくるね。麦茶でいい?」

「うん、お願い」

「分かった。ちょっとまっててね」


 鶴川さんがぱたぱたと部屋を出たのを見送った私は、鞄を下ろして宿題と筆記用具、そして手土産のスナック菓子を取り出す。

 スナック菓子が粉々になっていないか、袋を軽く振って確かめると、シャカシャカと心地のいい音がした。


「お待たせ! 外、暑かったよね」


 お盆の上の、麦茶のコップの中で大きめの氷が立てるカラカラという音が心地よかった。


「ありがとう、鶴川さん」


 麦茶を受け取り、一口喉に流し込むと、清涼感が気持ち良かった。


「来てくれてありがとう、亀戸さん」

「うん。今日、親御さんは?」

「二人でお出かけ。デートかな?」

「アツアツだね。なんかうらやましい」

「亀戸さんには私がいるでしょ」


 鶴川さんの何気ない冗談で、顔が血でかあっと熱くなる。

 それをごまかすように、麦茶をコップの半分ほどぐびぐびと飲んだ。


「やっぱり暑かったよね。蚊も暑すぎて動けないんだって」

「温暖化だね。じゃ、やろうか、宿題」

「よろしくお願いします、亀戸先生」


 そうやってかしこまる鶴川さんが、なんとなく可笑しかった。

 持ってきた宿題は古文と数学と英語。

 私一人では、夏が終わるギリギリまで放置してしまう三つだ。


 手始めに古文の問題集を開く。23ページから42ページまで、たっぷり20ページある。

 右のページに文章があって、左のページに選択肢だったり記述だったり、10問くらい問題がある。単純に計算すれば、古文だけで100問解かなくてはいけない。解答を書き写すという手もあるが、以前それをやってバレた生徒が古文の三宅先生に2時間近くこんこんと説教されたと聞いたので、真面目に解いた方がマシだという結論に至った。


 そういえばあの日から、古文の勉強をする時間が増えた気がする。

 三宅先生は怒りっぽくて苦手だし、「こんなのがなんの役に立つんだ」なんて思ったりもするけど、あの日きらきらと目を輝かせていた鶴川さんの顔が忘れられなかった。


 シャーペンを三回振って、文章を読み始める。勉強の甲斐もあり、すらすら読める。


「ねえ、亀戸さん、ここってさ……」

「どこ?」

「この和歌。訳せって」


『思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ

 夢と知りせば 覚めざらましを』


「この『や』が係り結びで『らむ』にかかってて、疑問か反語。『らむ』が現在推定で、『〜だろうか』。その前の『つ』が完了で、『〜した』とかかな。『寝ればや』の『寝れ』が已然形だから、次の『ば』が原因、つまり『〜だから』。『見え』は『会う』とかかな」

「つまり、『思いながら寝たので、人と会ったのだろうか』ってこと?」

「そういうこと」

「続きは?」

「『せば〜まし』が反実仮想で、『〜しなかったのに』」

「夢だと分かっていたら、目覚めなかったのに」

「うん。正解、だと思う」

「きっと起きたら会えないってことだよね。かわいそう」

「……うん、そうだね」

「私、夢で亀戸さんに会ったんだ」

「え?」

「起きてからも会えてよかった」

「私も、会えてよかった」


 鶴川さんの手が、私の手に触れた。


「私、亀戸さんといっしょでよかった」

「うん。私も」

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