帰り道

 終業のチャイムが鳴って、私は荷物を鞄にしまう。

 ついさっきまで二人の間に置いてあった教科書も例外じゃない。くっついている必要性を失った机たちは、鶴川さんの手で離れていく。


「今日はありがとうね、亀戸さん」

「ううん。困ったらまた、いつでも」

「うん。ありがとう」


 鶴川さんが帰り支度をするのを見て、このまままた明日というのは、もったいないというか、寂しいというか、とにかくそんな気持ちになった。


「ねえ、鶴川さん」


 だから思わず、鶴川さんを呼び止めてしまった。

 ここで言葉を詰まらせちゃダメだ。続けないわけにはいかない。

 思っていることを、そのまま言う。


「鶴川さん。よかったら、一緒に帰らない?」


 鶴川さんは少しだけ俯いたあと、すぐに顔を上げて、朝に見たはつらつとした笑顔で、


「うん!」


 と、弾ける声で返した。

 鶴川さんはてきぱきと支度をして、鞄を肩にかける。


「じゃあ、帰ろ!」


 あまりにも嬉しそうで、かえって申し訳ない気持ちになった。

 鶴川さんには、女の子らしい小柄だが健康的なスタイルに、かわいらしい大きな瞳が目を引く整った顔と長い黒髪と、張りのある元気な声がある。

 コミュニケーション能力だって、私は鶴川さんの足元にも及ばない。

 鶴川さんに私がどう見えているのか分からないけど、客観的に並べてみたら、きっと私は随分と見劣りするはずだ。

 そんな人を、私が今日一日独占していた。普段周囲とあまり関わろうとしない私は、きっと周りからも奇怪に映ったはずだ。


 でも、鶴川さんのそばにいられるなら別に構わないと思っている自分もいて、それはなんだか恐ろしいことのように感じられた。

 鶴川さんと会ったのは、今日が初めてだ。


 下駄箱で靴を履く。紐を結んで、つま先で地面を蹴るように、靴の具合を整える。


「亀戸さんはスニーカーなんだね。ちょっと意外」


 その様子を見て、鶴川さんがそう言った。


「へ、変かな?」

「そんなことないよ。とっても可愛い」


 私が履いているのは、薄い水色のスニーカーだ。

 この暑さの中で、なんだか爽やかな気分になるので気に入っている。


「ありがとう。鶴川さんはローファーなんだ」

「うん。お母さんが見た目だけでもちゃんとしなさいって」


 鶴川さんの、丸っこくて茶色いローファーが、その小さな足を包んでいた。


「なんか、かわいい靴だね」


 私が思ったまま、口をついて言葉が出た。きっとまずいことを言った、なんてことはないはずだけど。


「そう、かな。ありがと」


 鶴川さんは跳ねるようなリズムでそう返した。

 なんとなく気まずい思いをしているのは、きっと私だけだ。


 校門を出て、駅に向かう。

 みんな部活をやっている時間だからか、人足はまばらだ。


「亀戸さんはどこに住んでるの?」

「M駅。鶴川さんは?」

「‪S駅だよ」

「じゃあ、三つ隣だね」

「あ、そっか。じゃあ、電車でもずっといっしよにいれるんだ」


 鶴川さんが嬉しそうにそう言うのが、なんだかむず痒い。


「う、うん。そうだね」


 日はまだ高い。

 ジリジリとした熱線が西の方から私たちを照りつけている。

 鶴川さんの頬を汗が伝う。

 アブラゼミがジージーとやかましい。


「私ね、」


 駅に着いた頃、鶴川さんがそう切り出した。


「本当は、転校なんてしたくなかったんだ。友達もいて、演劇部だって、次の機会があったかもしれない」

「……」

「でも、私一人残る訳にいかないし。だから、しぶしぶお父さんたちに着いてきたの」

「……そうだよね。どうしようもないもんね」


 改札を通りながら、精一杯の言葉を絞り出す。


「でも、だけどね、今はそんなに悪くないかなあって、思うんだ」

「え?」

「亀戸さんがいたから。背が高くて、頭が良くて、なんかクールで、優しくて、落ち着いてて。そんな人が隣なんて、私はなんてラッキーなんだろうって」

「……そんな。褒めすぎだよ」

「そんなことない。亀戸さんに比べたら、私なんてただのちんちくりんだよ」

「……鶴川さんに比べたら、私なんてただの根暗なのっぽだよ。鶴川さんは可愛くて、元気で、素直で、多分、私なんかよりずっと優しい」


 そんな自虐を言った途端に、回送電車が通り抜けて、風を避けようと背けた目が鶴川さんの目と合った。

 私はなんだか可笑しくなって、ぷっ、と吹き出した。

 鶴川さんも同じように笑った。


「私たち、似てるのかも。お互い、自分に自信がないんだね」

「そう、だね」

「でも。お互い、自分が思ってるよりいい人間なんだね、多分」

「うん。鶴川さんはいい人だよ。私が保証する」

「じゃあ、亀戸さんのことも、私が保証するね」


 電車に乗りこんで、端からひとつ手前の席に座る。すると、端の席に鶴川さんが座る。なんとなく、鶴川さんの隣には私以外の誰にも座ってほしくなかった。


「そうだ、亀戸さん。ライン、教えてよ」

「う、うん」


 スマホを取り出し、QRコードを見せると、アニメ調のクマのアイコンから、同じクマが親指を立てたスタンプが送られてくる。私は、黄色いネズミが手を振るスタンプを返した。


「亀戸さんのスタンプ、かわいいね」

「子どもの頃から、好き、だったんだ。鶴川さんの、このクマは?」

「アメリカだかイギリスだかの絵本のクマなんだって。かわいいでしょ」

「うん、かわいい」


 そのうちに、電車が止まる。鶴川さんの降りる駅だ。


「じゃあ、また明日ね、亀戸さん」

「うん。また明日」


 なんとなく名残惜しい気持ちを抱えながら、立ち上がる鶴川さんに手を振る。


「また、ラインで連絡するね」

「うん」


 鶴川さんは電車を降りて、ドアが閉まり、電車が動き出す。

 鶴川さんは、見えなくなるまで、ホームから私に手を振っていた。

 私も、鶴川さんが見えなくなるまで手を振った。

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