第2話 彼女との要領のいい仕事っぷり。それから……。

 現時刻、

 犬の遠吠えが聞こえる、

 夜10時。


「……おっ、終わらない」


 職場の皆が家路へと次々と退勤する中、矗晃のぶてるは一人で頭を抱えていた。

 毎度のように花田先輩から仕向けられ、いつもの簡単な仕事と引き受けたのがこの結果である。


 新人の頃から今日までの流れで、明らかに作業内容が難しくなってきたのは明白だ。

 だが、今日のは今までとはレベルが格段に違っていた。


 PCの青白いライトに照らされる自身の横顔。

 これが日中の太陽だったらどれほど救いだろうか。

 矗晃は夏真っ盛りなのに温かい日差しが恋しく思えていた。


 そうやってネガティブに否定し、さっきからずっと考えを悩ます矗晃。


 このまま画面とにらめっこしても良い案は浮かんでこない。

 取引き相手も初心者の依頼人だからと引き受けて油断した。

 まさかこんなにも厳しい要求を突きつけてくる相手だったとは……。


 世の中には花田先輩のような人もわんさかといることを知る矗晃。

 その先輩のにやついた顔を想像し、怒りさえも生み出そうとしていたが、ある言葉により、矛先は一瞬にして消えた。


 怒りからは何の結果も生まれず、時間を無駄にするだけ。

 矗晃の脳裏にあの貴崎きさきの名言がよぎっていたからだ。


「ああー、でもこのまま考えてもらちが明かないな……」


 椅子からおもむろに立ち上がり、軽く伸びをして、廊下にある自販機へと足を向ける矗晃。

 長き戦いに疲労した戦士には一時の安らぎが必要だった。


****


 ──自販機のブースには誰もいなかった。

 当然だ、もう深夜帯の11時。

 普通の家庭ならとこについてもおかしくない時間だ。


「しかし、ものの見事にカフェイン系が品切れだな……」


 ここの会社は夜中まで仕事があるのは当たり前の世界。

 世の住人は疲れや眠気を消すために悪魔の飲料、コーヒーやエナジードリンクに手を出す者もしょっちゅういる。


「コーヒーもないとなると、残りはお茶関係のみか。麦茶か……でも夜に果物系は太るしなあ……」

「ねえ、渓口たにぐち君。何をさっきからブツブツ呟いてるの?」

「のわあああー、貴崎さあーん!?」


 矗晃の驚きの声に耳を塞ぐ貴崎。

 貴崎さんどこに居たんだ?

 もしや、気配を消せるのか?


「もう耳元で叫ばないでよね。鼓膜が破れたらどうするのよ」

「す、すみません! 傷物になったら責任を‼」

「だから声が大きいってばw」


 怒っているようで穏やかそうな貴崎さんが僕の後ろに立っている。


「早くしてよ。私も飲み物買いたいんだから。それとも何、奢ってくれるの?」

「いや……給料日前ですので……」

「はあー、そうよね。お互いに薄給は辛いわよね」


 あの貴崎さんも身近な悩みがあったのか。

 まあ、貸す物もないけどな。


「……会社で一番頭を悩ませるのが人件費っていうくらいだからね。光熱費も浮くし……」


 貴崎が額に指先を当てて不満そうな表情になる。

 10年以上も勤務していて賃金が安かったら普通は考えるものなんだけど……生活資金がないと余計にな……。


 そうまでしてこの職場にいる彼女が不思議に思えて、その場で固まる矗晃。 


「もう何してるのよ。ええいっ!」

「えっ?」


 貴崎が横から自販機のボタンを押すと麦茶にも品切れのランプがつく。

 あー、僕の貴重な飲み物とお金がー‼ 


「これ渓口君の奢りね。女の子を待たせた罰としてw」


 心で悔し涙を流す僕には『にゃはは』とイタズラに笑う貴崎さんが可愛く見えた。


 まあ、貴崎さんが喜んでくれたならいいか。

 そんな僕の金銭事情を察したのか、憂いを帯びた瞳を僕の方に向ける。


「ねえ、渓口君。私も今日残業中なんだ。奢ってくれたお礼として今から一緒に仕事片付けない?」


 貴崎の片手には赤いノートPCが握られていた。


「いいんですか? 深夜の密室で男女が二人きりで」

「大丈夫よ。渓口君はそんな野蛮な人じゃないから」


 にこやかに笑う貴崎さんの口から漏れた聖母の言葉に僕は思わず顔を反らす。

 貴崎さんにとって僕は弟みたいなものだろうか?


(まあ、二人でした方が早く終わるからな……)


 ──矗晃は自身の席に戻り、愛用のマグカップにコーヒーの粉末を入れ、ポットのお湯を注ぐ。

 最初からこの方法で良かったのかはいざ知らず、すぐ隣では貴崎がPC画面とにらめっこしていた。


「むむっ、これは確かに強力な相手だね……」

「貴崎さんでもそう思いますか?」

「うーん、できるだけ向こうの出費は減らしてクオリティーのあるデザインかあ。こちらの予算にも限界があるんだよね……」


 一瞬だけ端末を打つ指を止めた貴崎が何かにとりつかれたように動作を開始する。


「でもこっちから都合よく相手から出費を上乗せするように上手く交渉すれば……」


 PCの排気ファンだけが聞こえていた静かな職場にカタカタという連打音が響く。

 やがて長いメール文を送り終えて、麦茶で一息つく貴崎。


「まあ、こんなもんでしょ」

「凄い、相手の機嫌を損なうことなく、スムーズに流れが進んで!?」


 依頼人からの返事メールは想像以上にすんなりと返ってきた。

 内容も丁寧に伝わっていて、あれほど僕が苦戦をいられた相手なのに……。


「貴崎さん、流石ですね」

「まあ、長い間勤めていると色々と要領が分かるというものよ」


 貴崎さんが照れ隠しに頭を掻きながら、僕にピンクの鞄を押し当てる。


「さあ、今日の仕事は終わりよ。これから夏菜美かなみちゃんが待っているレストランに行くわよー!」

「ちょっと待って下さい」


 貴崎がスキップしながら職場から出ようとするのを回り込んで止める矗晃。 


「貴崎さん失礼ですが、夏菜美ちゃんは後輩ですし、僕もお金ないですし、全て貴崎さん持ちにしたとしてレストランに行くようなお金はあるんですか?」

「あら、渓口君、電子マネーも知らないの?」 


 何だ。

 会社の経費を使うのかとか、夏菜美ちゃんを脅すのかと心配して損した。

 貴崎さんも口ではああ言って、それなりに稼いでるじゃないか……。  


 ──この時の矗晃は何も知らなかった。

 貴崎の心境に焦りと迷いがあることに……。     

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