第323話それぞれの不安と思い(2)
平井恵子は、フラフラと、下北沢の家に帰った。
祐のことは、涙が出るくらいに心配。
ようやく、和歌の世界に出た美しく輝く新星が、消えてしまうかもしれない、そんな喪失感が全身を包む。(そんなことを思ってはいけない、そんな自戒も強いが)
犯人の男子高校生が、とにかく憎かった。
栄光の甲子園なんて、ふざけた言葉も憎い。
そもそも、ただの球戯大会でしかないはず、それを文科省、マスコミがこぞって持ち上げるものだから、祐を襲ったような馬鹿が出て来る。
少なくとも、他のスポーツ、文化部では、そんなことは聞かないのだから。
母親の彰子先生の冷めた顏も腹が立った。
自分の子供が襲われて死にそうなのに、まだ死んではいないのに、冷めた顔で、葬儀屋とお寺の心配をしているのだから。(本当に情けないほど悔しかった)
とにかく祐君が、これでは悲し過ぎる。
平井恵子は、明日から毎日見舞いに行く、それを決めた。(それしかできないことが悔しくて寝付けなかった)
秋山康と妻美代子は、タクシーで久我山の自宅に帰った。(とても駅まで歩く気力はなかった)
家に入っても、二人とも、頭を抱えるばかりだった。
美代子がすすり泣くと、秋山康も顏をおおって泣き出した。
美代子
「嫌です・・・嫌・・・祐君は天使で孫なの・・・先に逝かせたくない」
「私を見送ってもらいたいのに」
秋山康は、美代子を抱きかかえた。
「死なせないよ、誰も死なせたくない」
「祐君には、まだ果たすべき天命がある」
「乗り越えさせる手助けをする、それが我々の使命だよ」
そこまで言って、書棚の引き出し(厳重に鍵がかかっていた)を開けて、古びた本を取り出した。
「これをお守りにする、明日届ける」低くつぶやくと、美代子も頷いた。
天皇家から賜った、本当に貴重な「源氏物語の写本(藤原定家作成のもの=青表紙本)」だった。
ジュリアは、憔悴していた。
アパートに帰っても、何も手につかない。
書棚に置いた、亡き弟フィリップの写真を見て、泣いた。
「嫌だよ、フィリップ」
「ねえ、何とかしてよ・・・」
「祐に逢いたくて、はるばる日本に来たのに」
「もう・・・生きる気力がないよ」
しばらく泣いて、にじんだ目でフィリップの顏を見た。
すると、不思議なことに、フィリップの唇が動いたような感じ。
フィリップの声も聞こえて来た。
「姉さん、心配ないよ」
「祐のために、天国の門は開いていないの」
「姉さんは、祐を支えて」
「最高のデュオを聴かせて欲しいよ」
途端にジュリアの身体に力が入った。
「私のCD、いや、祐のために、今からアヴェ・マリアを弾いて録音する」
そして、明日届ける」
「それで、祐はきっと目を開ける」
ジュリアは、そのまま祐のピアノの先輩、村越に連絡。
アヴェ・マリア録音の手筈を整えている。
祐のピアノの師匠中村雅代も、呆然と田園調布の家に戻った。
「あんな才能のある子が・・・」
「馬鹿な野球高校生に?」
「それで死ぬなんて、許されない」
我慢が出来なかった。
文科相の高官に怒鳴り込みの電話をかけた。
「あんたたちが、高校野球ばかり持ち上げるから、馬鹿なことをするガキが出て来るの!」
「あんなの玉投げ玉打ち遊びに過ぎないでしょ?」
「もう、政府の役も降ります、弟子の推薦もしません」
文科相の高官は、ひたすら謝ったけれど、どうにもならない。
「今度、首相と話す機会があるので、大声で申し上げます」と言い切って、電話を終えた。
さて、祐を襲った健治の通う高校(祐の従妹恵美と、問題の美咲も通っている)のサイトには、どこから情報が入ったのか、非難が殺到している。
「ほぼ殺人の行為をしていながら、高校は何も謝罪会見を開いていない」
「そもそも、高校側に罪の意識が皆無なのでは?」
「暴力推進高校?いや、殺人者養成高校?」
「校長は、人の命より、甲子園出場が大事、出る可能性もないけれど」
しかし、高校側は、何も動かない。(ただ、オロオロとするばかりで)
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