第123話平井恵子の家にて(3)

「え?」

と、祐が首をかしげていると、平井恵子は、和歌を詠みはじめた。


「世の中は  かくこそありけれ  吹く風の  目に見ぬ人も  恋しかりけり」


平井恵子は、再び祐の顔を見た。

「訳してごらん?それと解釈を」


祐は、素直に訳す。

「人の世は、このように、あてにならないものであったのです」


「吹く風と同じで、もはや見ることが出来なくなった人を、恋しく思うのですから」


そして説明をする。


「貫之です」


「見ぬ人を逢ってもいない人、風のうわさで聞いただけで見たこともない人とする解釈もありますが、その場合、世の中は  かくこそありけれ、の否定的、自嘲的な雰囲気には馴染まないと思います」

「やはりまだ見てもいない人、逢瀬を果たしてもいない人よりも、一度は見ることが出来た、逢瀬が出来た人が、吹き過ぎて行った風のように二度と思いが叶わなくなる、そのほうが自嘲や悔恨の思いが強くなるのではないか、と思います」

「自分よりも魅力のある、しかも身分が上の人に、恋人を取られ、しかもなお、諦めきれない、宮廷社会では身分が低く終わった貫之の嘆きでしょうか、その辛い思いを、この歌に感じます」


平井恵子は、うんうん、と祐の訳と解釈を聞く。

春奈は、「え?」と驚くばかり。

純子は、目を閉じて、祐の声に聞き入る。

真由美は、ただ、うっとりと祐を見ている。


平井恵子は、書棚から三冊の古今和歌集の現代語訳本をテーブルの上に置く。

「祐君の訳と解釈と比べてごらんなさい」


風岡春奈が、気を利かせて、三冊の訳を読み始める。

「都合でA先生、B先生、C先生とします。全て勲章をもらった大先生です」


「A先生」

「男女の縁というものはこのようであったわい。噂を聞いたばかりで、まだ見たことのない人でも、こんなに恋しいことであるよ」


「B先生」

「人の世の中は、かくも怪しいものなのである。吹く風のように、目に見ない人も恋しいものなのである」


「C先生」

「世の中とは、こういうものであったのである。吹く風は目に見えないように、逢ったこともない人も恋しく思われるのだった」


純子が、平井恵子に聞く。

「大先生たちも、三人、全員訳が違うんですね」


平井恵子は頷く。

「確かに、本当にそれぞれで」

「酷い訳もあってね」

「とても・・・堅いばかりで、恋歌の訳としては疑問があります」

「口語訳しただけの程度かな、祐君とは違うでしょ?」


真由美は、「はぁ・・・」と声が出ない状態が続く。


春奈が、祐の顔を見た。

「どうして、そんなに深く?」

「でも、いい感じ」


祐は、急に訳と解釈を言わされ、少し疲れた顔になっている。


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