第110話祐の作業が始まった。

祐は、難題の「古今和歌集仮名序現代語訳」に取り組み始めた。

芦花公園近くのケーキ屋から、まっすぐにアパートに戻った。

純子と真由美は「もう少し散歩を」と言ったけれど、その余裕が心になかった。

本当は「もっと落ち着いて行うべき作業かな」と思うけれど、足はアパートに向いた。


「それなら、夕飯を差し入れようか?」とも二人から言われたけれど、それも断った。

「おなかがいっぱいになると、眠くなって作業が遅れる、ミスも出る」

「ある程度満足する訳ができたら、何か食べます」と言い切り、珈琲だけを淹れて、「作業」に取りかかった。





「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」

「世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」


祐は、この有名な、紀貫之の文を前に、深呼吸、指をキーボードに走らせる。


「和歌は、人の心を種として、それが育ち、様々な言の葉になったものであります」

「この世の中に生きる人は、関わり合うことや行いが、本当に多いので、それらから心に思うことを、その目に見える姿や、耳から聞こえる音に託して、言の葉として、言い表しているのであります」


これだけでも、(である調から変えて、文意を少し補っただけでも)、祐は緊張が走り、また深呼吸。


「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」


祐の顔が引き締まった

「美しい花を求めて鳴く鶯や、川の中に棲む 蛙の声を聞いていると、この世の中に生きとし生けるもののうち、いったい、どんな生き物が歌を詠まないと思えるのでしょうか」

「力を用いることなしに、天地を動かし、目には見えない怖ろしい鬼や神にさえ、憐れの心を引き起こさせ、難しくなってしまった男女の仲を和らげ、戦いですさんでしまっている武士の心を慰めることができるのは、歌なのであります」


祐は、ここまで訳して、また深呼吸。

「書き過ぎたかな、意訳し過ぎたかな」

「厳格な昔ながらの先生には、叱られるかな」


でも、祐は、首を大きく横に振る。

「これは、和歌なんだ、学者の権威の道具なんかではない」


古今和歌集の序文だから、勅撰和歌集の序文だから、「である調でなければならない」そんなことは考えたくない。

「そもそも、である調は、明治期以降だろう、平安時期の文に絶対に用いるべきとは考えない」

「和歌の本質は、やはり叙情、権威主義にはなじまない」

「今でもそうだ」

「文学、芸術の本質は叙情」

「紀貫之は、それを、しっかり言っている」

「しかし、頑固な学者は、格式高いと勝手に思い込んだ、である調に固執する」

「恋愛の歌まで、である、であるぞよ・・・ことよ・・・」

「今の人は、そんな言葉は気持ち悪くて使わない。特に恋愛の歌で」


祐は古今和歌集成立の「事情」も考えた。

「紀貫之が勅撰和歌集として、古今和歌集に取りかかった時は、和歌の地位は漢文に比べて、かなり低かった」

「帝が選者に選んだのは、紀貫之を中心に、若い、官位の低い人ばかり」

「漢文に偉い人には頼めない事情でもあったのか」

「漢文に偉い人は、そのメンツで、和歌選びなんて積極的に協力する気がなかったのが、実態かな」


「紀貫之としては、晴れがましかっただろうな」

「帝からの依頼、好きな和歌を選べるなんて」

「低い官位など、どうでもいい、和歌の心にだけ気を配る」

「だから、序文として、こんな名文を書ける」


祐は、身体が震えるような感覚。

「紀貫之の名文に新しい息を吹き込むぞ」


もはや珈琲も口にしない。

ただ、パソコンに向かい、キーボードに指を走らせるだけになっている。


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