最終話 ファンタスマゴリア

9-1


 琴子が『遠き山に日は落ちて』を歌っている。

 その叙情的なメロディーに、私はうっとりと耳を傾ける。

 夏の夜。一日の終わりにこれほどふさわしい曲はないと思う。

 ……のだけれど、琴子は途中で歌をやめた。

「こうも騒々しくては、ね」

 今、私たちは山端ダムにいる。周囲は観光客でごっちゃごちゃ。確かに、しんみりとした曲の雰囲気じゃない。

 神楽舞は大成功に終わった。

「こんなに盛り上がったこと、ここ数十年なかったよ」

 神主さんはそう言ってくれたし、私も参拝客たちの反応に手応えを感じた。

 演じる楽しさ。見てもらえる喜び。それが全身を駆け巡って、なかなか熱が冷めなかった。アンコールがあったら間違いなく受けていた。

 けれどもやっぱり体力的にはへとへとだったみたいで、旅館に戻ってちょっと昼寝をするつもりが気付いたら夕方だった。

 こうなってしまえばもう一泊。ランタンフェスティバルの方も見ていこうとなるのは当然の流れで。私たちは山端ダムへと向かった。

 地元の人の神事だった織幡神社の神楽舞とは違って、こちらは県外からも観光客が大勢来る大きなイベントだ。出遅れた私たちが渋滞に捕まるし駐車スペースは見つけられないしで途方に暮れていたところ、神社の方にもいた祭の実行委員の人が私に気付いて、関係者用のスペースに駐車させてくれたのでとても助かった。まあこのぐらいの役得は、あってもいいよね。

 で、祭会場となったダムの駐車場や道路には、無数の屋台がでている。

 食い意地の張った琴子がこれを逃すはずはなく、

「さ、早く参りましょう」

 と私を急かす。異論はない。というか私もお腹ぺこぺこだった。神楽のあとは何も食べずに寝ちゃったし。

「緋瑪、岩手牛串ですって」

「初手、肉! 食い意地フルスロットル過ぎない?」

「いいではありませんか。こんな時に栄養バランスなんて考えるのは野暮ですわよ」

 というわけで焼きたての牛串を購入して頬張る。

「んんんん~」

 と私はグルメレポーターみたいな声を上げてしまった。うまい! 空きっ腹に脂が沁みる。

「緋瑪、次は焼もろこしを」

「やっぱ夏祭りはこれだね」

 香ばしい香りが食欲をそそる。

「緋瑪、たこ焼き」

 これも定番。熱々を口の中で転がしながら食べ歩く。

 お次は唐揚げとフライドポテトの揚げ物コンビ。

「クレープ!」

「おう!」

「お好み焼き!」

「はいよ!」

「それからチョコバナナとフランクフルトと、あら、餃子もありますのね」

「待って待って一旦ストップ」

 続けざまのオーダーに私はたまらず悲鳴を上げた。琴子は味わうだけだからいいけど、肉体のあるこっちは食べたもの全部胃の中に溜まるんだから。というかまだお好み焼きがまるごと残ってる。

「ごめんあそばせ。わたくしったら自分勝手に……」

「そんな謝るほどのことでもないって」

 とはいえこれ以上は詰め込めない。腹ごなしに食べ物じゃない屋台を見ながら歩くことにした。輪投げに金魚掬いにヨーヨー釣り。

「あ」

 と私は射的の屋台で足を止めた。景品にでっかい熊のぬいぐるみがある。(あ、かわいい)と思ったときには私は料金を払って銃を構えていた。

 一抱えもあるぬいぐるみ自体はコルク玉では絶対に落とせない。隣にある小さな的を撃ち落とすと景品がもらえるルールだった。

 全弾外した。

「おじさんもう一回!」

 やっぱり全弾外した。

 もう一回やろうと財布を出すと琴子が、

「おやめになった方がよろしいかと。かすりもしてませんわよ?」

 なんて言うから私はかえってムキになってしまった。

「いいや、やるね!」

 それでも全弾外した。



「……だから申しましたのに」

 泣きの一回を三回ぐらいやって血も涙もない結果を迎えたところで、ようやく私は我に返って、それ以上の挑戦をやめた。インチキしてるんじゃないの? この銃は細工してあるでしょとか思ったけれど、私の次の客が同じ銃で見事に景品を撃ち抜いたので、単なる私の射撃センスの問題でしかなかった。

「ぐぬぬ」

「そんなにあの熊が欲しかったんですの? 子供っぽいところがあるのね」

「私じゃない。……琴子にあげようと思って。絶対似合うから」

「そうでしたの。だったら尚更早くやめるべきでしたわ」

「え?」

「わたくし、熊は好きではありませんの。あれは畑を荒らす害獣です」

 私を慰めるためでもなく、ましてや冗談でもなく、琴子は大まじめな顔でそう言った。地元民はそういう認識なのか。そういえば光咲市内あちこちで「熊出没注意」の看板とか、電気柵とか見かけたなあ……。

「じゃあさ、動物なら何が好き?」

「それは断然猫! ですわ! 持ち上げるとみよよーんと伸びるのがかわいくてもう!」

 猫はかわいいけど琴子のセンスはよくわからない、と私は思ったのだった。


 射的は全敗だったけどその後やったヨーヨー釣りは一発で成功したし三つも取れた。右手に二つ、左手に一つつけて、童心に返ってバシバシやりながらダムに登ると、どこからか呼ばれたような気がした。

「気のせいではありませんわよ。ほら、あそこ」

 と琴子が方向を示してくれたのでわかった。人混みの向こうの関係者用テントの側で依里さんが手を振っている。その隣には見覚えのある男の人……依里さんの婚約者で植田自動車の「庄ちゃん」もいた。

「依里さん。来てたんですか」

「旅館に戻ったら仲谷さんがお祭りに行ったって聞いて、それでお礼を言おうと思って、今来たところです」

「旅館で待っててくれても良かったのに」

「いやいやこういうことは早い方がいいので。……神楽舞、大成功だったって聞きました。本当にありがとうございました!」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

 私は深く頭を下げた。今日のこの機会、助けられたのは私の方だ。

「この後はどうします? 私の方は今日はもう病院には行きませんし、旅館は任せて来ちゃったから空いてるんです。仲谷さんは大恩人なので、よければお祭りのご案内をしますけれど……」

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

「一人で見てもつまらなくないですか?」

 かもしれない。けれど私は一人じゃない。

 琴子と一緒に、琴子と二人だけで回りたかったのだ。

 遠慮なんてしなくていいですよと念押ししてくる依里さんに「良ければこれどうぞ」ともてあましていたヨーヨーを押しつけて、私は関係者用テントから離れた。

 ドン、ドン、と空気を震わせる音が響いてきた。

 見ればダムの中央部分に設置されたステージで、何か始まるみたいだった。カラフルな衣装を身につけた五人組の女の子が駆け上がり、歌い始める。

 琴子が吸い寄せられるようにステージに近付き、私もその後に続く。

「ローカルアイドルのライブみたいだね」

 元気いっぱいの五人組は高校生だろうか、みんな溌剌とした笑顔でパフォーマンスを繰り広げる。観客たちはサイリウムの代わりに露店で売ってた光る腕輪を振ってそれに応じていた。グループ名や個々のメンバーの名前を叫ぶ観客もいて、なかなか人気があるみたい。

 一曲終わって挨拶。メンバー紹介を経てすぐに二曲目。

 楽しいステージだ。私は自然とリズムを取っていた。すると琴子が、

「わたくしの方がうまいですわ」

 なんて言うので笑ってしまった。

 実際、彼女たちの歌はうまいとは言えないものだった。けれど会場は盛り上がっている。ならそれでいいじゃないかと思う。ステージは巧拙じゃない。盛り上げた人の――観客の心を奪った人の勝ちだ。

 琴子もそれは分かっていたんじゃないかな。自分がステージに上がれないから、つい負け惜しみが出てしまったのだ。

「大丈夫だよ。琴子の歌が世界一なのは私が知ってるから」

 私がそう言うと、琴子はぷいっと顔を背けてしまった。怒らせた? と思ったら耳まで真っ赤になっていた。かわいいやつ。

 ライブが終わり、アイドルたちに変わってアナウンサーらしい人がステージに立った。

『大盛り上がりのライブでしたね! ……さあ、皆さん! 間もなくランタンフェスティバルのクライマックス。ランタンの打ち上げが行われます!』

 そのアナウンスを機に、観客たちがよく見える場所を確保しようと、ぞろぞろと集まってくる。ステージ周辺の混雑が激しくなり、琴子が私の頭上に避難する。

「あ、ずるい」

 空を飛べたらどこからでも見放題じゃん。

「悔しかったら死んではいかが? というのは冗談として……」

 琴子は左右を見回し、

「いい場所がありますわ」

 そう言うと私の返事も聞かずに飛んで行ってしまう。

「あ、待って」

 私はすぐに琴子の後を追った。

 人の流れに逆行して外へ外へ。端まで行っても人で一杯なのにどうするつもりだろうと思っていると、琴子はダム湖に背を向けて資材置き場っぽいところに入ってしまった。ここからではダム湖はまったく見えない。琴子は止まらずさらに進む。未舗装の細い道があった。

「ああ、ここから入れるのですね」

「ちょっと、まずいんじゃないの?」

「見つかったら謝ればいいのよ」

 不良お嬢様だ。

 スマホをライト代わりに樹木のトンネルをくぐり抜ける。突然に視界が開けた。私たちはダム本体から見て左手の、用途はわからないけどコンクリート製の建物、その陰の部分にいた。

「昨日来たとき、湖の上から何か建物があるのが見えましたの。であれば当然、そこまで行く道もあるはずだと」

 ダム本体より高いところにあるようで、人が集まっている様子や、ダム湖に複数の船が浮かんでいるのがよく見えた。

 これは確かに特等席だ。

「でもなあ……」

「緋瑪が気が咎めるというのなら、戻りましょう」

「いや、見つかったら謝ればいいよ」

 私は共犯者の笑みを浮かべてそう言った。こんないい場所をみすみす見逃すなんてもったいない。それにここなら他人を気にせず琴子と話ができる。

 私は砂利の上に足を投げ出すようにして座った。

 琴子もすうっと降りてきて、私の隣に横座りする。肩がぶつかりそうな距離、いや、ちょっと重なってる。

「ふふっ」

「何ですの?」

「不思議だなあって思って」

 出会った当初は恐怖でしかなかった。迷惑で、本気で追い出そうとさえした。

 それが今やこうして二人っきりで肩を寄せ合っている。半月前の自分に言っても絶対に信じなかっただろう。琴子との関係もそうだし、私が自分の意志で旅に出て、琴子のおかげで視線恐怖症も克服するなんて。

「私、琴子と会えてよかった」

「わたくしも。わたくしを見つけてくれたのが緋瑪で、本当に良かったと存じます」

 ステージではアイドルたちが再登壇してトークショーのようなことをやっている、距離のせいか、スピーカーの向きのせいか内容は聞き取れない。

 盛り上がっていたトークが不意に静まり、カウントダウンが始まった。

 5、4、3、2、1、0。

 一拍遅れてダムの上から、そして湖上の船から、無数のランタンが一斉に放たれた。

 舞い上がったランタンは渦を巻きながら広がり、湖上の空をあっという間に埋め尽くす。息を呑む、時が止まるほどの美しさだった。

「……私、帰ったら女優に復帰するよ」

 私は空一杯に広がる灯火を見ながら言った。

「やらかした上に逃げちゃったから劇団の人は許してくれないかもしれないけど、許してもらえるまで謝る。それで、また舞台に立つ。何年かかっても。絶対」

「存じておりましたわ」

 琴子は静かにそう答えた。

「神楽舞を終えたときには決めていたのでしょう?」

 私はうなずいた。

 あの舞台で私は視線恐怖症を完全に克服した。だけじゃない。世界が変わった。

「ありがとう。全部、琴子のおかげだよ」

「そうでございましょうか。わたくしには、遅かれ早かれあなたは立ち直っていたように感じられます」

 そんなことはない。琴子がいなかったら、私は今も部屋でうずくまっていた。いや、もっとひどいところに落ちていたかもしれない。

 琴子の存在が、私にとっての灯火なんだ。

「だから、これからもずっと私の側で、見守って、いてくれないかな?」

 言った。言ってからめちゃくちゃ恥ずかしくなった。私雰囲気に酔ってとんでもないこと口走ってない? でも嘘偽りない気持ちだったし、受け入れてもらえると確信していた。私たちはこれ以上ないほど強く、結びついていると。

「……それはできかねます」

 だから、琴子の返事は世界がひっくり返るほど衝撃だった。

「なんで!? ……あ」

 ランタンを見上げていた顔を戻し、私は悟った。

「琴子、それ……」

 琴子の胸の真ん中に、ランタンによく似た灯火があった。暖かく、そして儚く揺らめいている。一方で琴子の両手や髪の先は、溶けるように輪郭があいまいになっている。足は元から見えなかったのが、今や太股の中程までが消失している。

「……残り時間がもうない、ということでしょうね」

「なんで!? どうして!?」

「こちらに来てから、何となく呼ばれているような感じはしていたのです。それが記憶を取り戻してから強く、はっきりと感じられるようになりました」

 瞬時に思い出すことがあった。神社の駐車場で、琴子はあらぬ方向に流されるように移動していた。あのときは琴子にもよく分かってなさそうな感じだったけど、あれが「呼ばれた」徴候だったに違いない。

 そして思い返せば琴子は旅に出る前から、こうなることを予感していた気がする。でなければ出発前にわざわざ時間を取って散歩に行きたいなんて言わないはずだ。あの日琴子は「二度と戻ってこられないかもしれないから、目に焼き付けておこう」と思っていたのだ。

「そんな」

 琴子が消えてしまう。

 記憶を取り戻したから。私が故郷に連れてきたから。

 私のせいで。

「緋瑪のせいではございません。元々、ちょっとずつ薄れてはいたのですから。ほら、最初から足がなかったでしょう? 緋瑪と出会わなかったら、わたくしはそのまま人知れず消え去っていたことでしょう。でも、今は違います。わたくしは自分が誰なのかを知っている。行くべき場所を得たのです」

「でも……」

 何と言われても私の胸には後悔しかなかった。

 琴子と別れたくなかった。

 ずっと一緒にいたかった。

「やだよ。いかないで。私には琴子が必要なの。死ぬまで取り憑いてやるって言ったじゃん。琴子の嘘つき!」

 私は琴子を、次いで空を睨んだ。お願いだから連れていかないで。もしも願いが叶うなら、何を差しだしてもいいから。

「そんなことを思ってはいけません。あなたにはまだ、やるべきことが残っているでしょう」

「琴子がいないと何の意味もない!」

 泣きじゃくり、子供のように駄々を捏ねる私を、琴子は腕を回して抱きしめた。

 実体などない幽霊の、体温を私は確かに感じた。体温は触れ合い、重なりあった部分を通じて、私をかあっと熱くさせる。

 これはなんだ。情熱だ。琴子の魂の温度だ。

 切ないのに熱い。激しいのに優しい。

 琴子が体を離した。その姿はますます朧になっている。

「泣かないで、緋瑪。あなたはわたくしにしあわせをくれた。生きていたとき以上の。これ以上のないしあわせを」

「琴子……」

「わたくしは消えるのではありません。居場所が変わるだけです。側にいなくても、いつだってあなたのことを見守っています」

 輝きが強くなる。輪郭が朧になる。

 空へと登っていくその残像に向かって、私はあらん限り手を伸ばした。

「琴子、琴子、ことこ、ことこ!」

 けれどその手は届かない。

 完全に灯火となった琴子は、遙か空へと上り、ランタンの群れに紛れて見分けがつかなくなってしまう。

 行かないで、戻ってきて――切実な思いをしかし、胸の熱が打ち消した。

 そうじゃない。琴子はそんなことを望んでいるんじゃない。

 私は琴子の友達なんだ。

 琴子の思いに応えられる、この世で唯一の友達なんだ。

「琴子!」

 空に向かって私は叫んだ。

「私、絶対にスターになるから! 舞台だけじゃなくて、映画にも出て、歌も出して、琴子が叶えられなかった夢、全部私が叶えるから! 絶対、絶対叶えるから! 琴子が悔しがって化けて出るくらいの、世界一の大スターになってやるからそこで見てなさい!」

 力一杯叫んで、私は息をついた。頬の涙をぬぐう。

 真夏の夜空に灯火が揺らめいている。

 導くように。

 見守るように。

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