8-2

 救急車はすぐに走り去った。

 それを見届けもせずに、私は残っていた仲居さんに頼んで、依里さんの部屋から去年の神事の映像が入ったDVDを持ってきて貰った。

 部屋に戻ると早速DVDをデッキにセットし、一度通して見た。

 昔話をベースにしているだけあって、舞も物語仕立てになっているようだ。演者は三人。人に化けた龍神と、龍神に恋慕し独占しようとする荒くれ者と、それを成敗する若武者。

 動き自体はそんなに複雑でも激しくもない。けれどセリフがない分、仕草で感情を示さなければいけなくて、手指の先まで神経を使う。きちんと演じようとするとなかなかに難度が高いように思えた。

 それと、内容以前の大きな問題があった。

 私が代役を務めるのは龍神だけど、カメラが固定されているために、他の演者の姿が重なって龍神の動きが見えないところが多々あったのだ。

「これ、ダメじゃん。覚えようにも見えてないんじゃ」

 別角度から撮った映像が必要だ。と、

「問題ございません。わたくしがお手本をお見せします」

「琴子が?」

「お忘れ? わたくしも生前は龍神役を目指して練習してましたのよ」

「今日思い出したばかりの癖に」

 とはいえこれは非常にありがたかった。取り戻した琴子の記憶は完璧で、借りてきたDVDはほとんど必要ない――音楽を鳴らすだけの存在になってしまうほどだった。

 さらに大きいのは、「練習相手がいる」こと。旅館の部屋には練習場のような大鏡がないのでセルフチェックができないけれど、見てくれる人がいればおかしな点をすぐに指摘してもらえる。さらには琴子に荒くれ者や若武者を演じて貰うことで、同時に舞う場面の練習もできる。

 だいたい頭に入ったところで、私たちは外に出た。宿で一番広い部屋といっても舞うにはさすがに手狭だし、ドタバタしていると他のお客さんに迷惑をかけてしまう。

「ここならいいかな」

 広々とした駐車場に出て、今度は全力で動く。

「そこはもっと手を高く! 右、右、後ろ、足を上げすぎ!」

 琴子の指示を聞き、動きを手本に私は舞う。ダンスは得意な方だけど、そのせいで動き方の違いを修正するのに少し手間取る。

「今のところ、少々か弱すぎではありませんこと?」

「力の源である羽衣を奪われたんだから心細くなるでしょ」

「それは解釈が違います。力は出せなくなっただけで、失ってはいないのです」

「同じじゃないの?」

「違います。断じて。さあ、一緒にもう一度」

 琴子は鬼演出だった。厳しいし、細かい。

 でも、めちゃくちゃ楽しかった。

 丸い月の下、私たちは互いを追いかけるようにしてくるくると舞う。

 暗がりにぽうっと輝く琴子は誰よりも美しくて、私は目が離せない。

 今このとき、私たちは世界に二人きりで存在していた。


    †


「おはよう、緋瑪」

 八月十三日。午前九時。

 私が目を覚ますと、待っていたかのように琴子が声をかけてきた。

「調子はよろしくて?」

「うん。ばっちり」

 昨夜は午前二時頃まで駐車場で練習を続けた。それからシャワーを浴びて一眠り。気分が高揚していてなかなか寝付けなかったはずだけど、寝起きの気分は不思議と悪くなかった。

 旅館で朝食を済ませた私たちは、早速神社へと向かった。

 神楽舞が奉納されるのは午後からだけど、その前に衣装を合わせて、他の演者さんたちとも一度通して舞ってみる必要があるからだ。

 神社では神主さんが待っていた。少しして神楽舞の演者である、山端の若者が二人到着する。全員すでに事情は知っていたけれど、私が代役を務めることには懐疑的だった。私が土地の人間じゃないからではなく、一晩練習しただけでできるようになるはずがない、というもっともな不安だ。私が彼らの立場だったとしても、中止か延期を真っ先に考えていただろう。神事を台無しにするよりはその方がはるかにマシだ。

「とにかく一度、合わせてみてください」

「そうだな、その方が早い」

 社務所の広間に移動し、本番用の衣装を身につけてのリハーサルの結果、

「……これはたまげた。完璧だ」

 私は実力で彼らを納得させたのだった。

 それから衣装の少し合わないところを直してもらっていると、神主さんが「はなやの若女将から」と私に固定電話のコードレス子機を持ってきた。

「もしもし?」

『あ、仲谷さん? おばあちゃん、手術は成功して、容態が安定しました』

「ほんと! 良かったあ……」

 本当に良かった。私は心から大女将の無事を喜んだ。

「あ、でも、そうすると代役はなしです?」

『ううん。神主さんともさっき話したけど、目が覚めるまではついていてあげたいし、私、寝てないから神楽なんて舞える状態じゃないんだよね。仲谷さんの舞は完璧だったって言うし、そのままお願いします』

「わかりました」

『じゃ、がんばって』

 寝不足と疲労が滲む、けれども明るい声で依里さんは電話を切った。

「これで憂いは何もなくなりましたわね」と琴子。

「うん」

 後はしっかりお勤めを果たすのみ。



 正午を過ぎた頃から境内に人が集まり始めた……と思っていたらあっという間に足の踏み場もない程の混雑になった。

 境内外周にはぐるりと足場が組まれて、後ろの人からも舞台がよく見えるように鳴っているんだけど、その足場の上で大勢の人がひしめいているのが、社務所にある控え室の窓から見えた。

「こういうの、以前はテレビでたまに見たよね」

「よくわからないことをおっしゃるのね」

「プールに足場が浮かんでいて、出演者が落としあうゲーム」

 説明しても琴子にはピンとこないようだった。正直自分でもいまいちな例えだと思った。

「それよりはあれですわよ。物置のコマーシャル。百人乗っても大丈夫」

「ごめんそれ見たことない」

 それにしてもすごい人出だ。山端の人にとっては、年に一度の大切な神事だということが伝わってくる。

「……大丈夫ですの?」

 人の多さ――視線の多さを気にしてだろう、琴子が私を心配してくれた。

「うん。全然平気」

 私はうなずいた。自分でも驚くほどに落ち着いている。万事問題なし、だ。

「仲谷さん。そろそろ用意を」

 神社の人が私に声をかけた。

 私ははーいと返事をしてそちらにいき、手伝って貰いながら衣装を身につけると、同じように用意を済ませた他の演者さんと合流した。

 社務所から外に出ると、盛夏の熱気が吹き付けてくる。そして人々のざわめき。

 私たちは一列に並んで参拝客の前を通り過ぎ、神楽殿へと上り、その一番奥に待機した。琴子もちゃっかり神楽殿に上がって、私の隣に浮かんでいる。特等席から見物するつもりだ。

 和楽器の旋律がぴたりと止んだ。

 神主さんが参拝客に向かって何やら口上を述べ始めた。独特の口調なので上手く聞き取れないけれど、織幡神社の由来であるとか、五穀豊穣とか、そんな内容だろう。

 神主さんが一礼し、神楽殿の私たちの方を向く。

 いよいよ本番だ。

 織幡神社の神楽舞は、大きく四つに別れている。最初は龍神が人の姿に変身して里に下り、人々と共に暮らす場面――つまり私が単独で舞う。

 神主さんがこちらを見てうなずく。開始の合図だ。

 よし、と私は練習したとおりに前に出て、

「あ…………」

 神楽殿の前面、参拝客からよく見えるところまで進んだところで、私は硬直してしまった。

 周囲をぐるりと取り囲む参拝客――その目が、全てこちらに向いている。針のように突き刺さってくる。

 セリフが飛んだ公演がフラッシュバックした。どうしたことかと舞台袖から様子をうかがう共演者たち。私のセリフを待っている音響さんのじれた様子。私が動かないのが演出ではなくトラブルなのだと気付き始めた観客の密やかなざわめき。眉間に皺を寄せる座長。

(セリフを……セリフを言わなきゃ……)

 そう思うのに喉が動かない。いや、違う。この神楽舞にセリフはない。じゃあ何するんだっけ? わからない。視線が私を急き立てる。視線が私を責め苛む。暑い。衣装が重い。気が遠くなってきた。

 できると思った。

 でも、ダメだった。

 克服したのだと思っていた。

 そんなことはなかった。

 私はただ、忘れていただけなのだ。嫌な記憶に蓋をして、それで、なかったかのように勘違いしていただけなのだ。

 あの日の恐怖は、私の胸の奥深いところで、じっと息をひそめていただけなのに。

「緋瑪!」

 その声は、私の頭の中から聞こえてきた。

 後ろで見ていた琴子が宙を飛び、私の正面に周りこんで来る。

 琴子――声には出さずに呼びかける。

「怖がる必要はありませんわ」

 そんなこと言ったって……

「こう考えるのです。あなたは『見られている』のではない、『見守られている』のだと」

「見守られて……」

 それはなんてことのない、本当になんてことのない言葉だった。

 そんな言葉の言い換え一つで何が変わるのかと、誰もが思うことだろう。

 でも、私には違った。

 見られているのではなく、見守られている。

 その転換は、私にとって、取り巻く世界の有り様をまるっきり塗り替える、劇的な価値観の転変だった。

 胸の奥では弱い私が喚いている「そんな都合のいい言葉に騙されるな。舞台に立つのは批判の目にさらされるということだぞ」と。

 でも私は、自分よりも琴子の言葉の方が信じられる。

 深呼吸をする。

 顔を上げる。

「いけますわね?」

 ゆっくり、しっかり、私はうなずいた。

 琴子が私から離れて、神楽殿の手すりに腰掛ける。

 羽衣を翻して私は舞い始めた。右へ、左へ。

 大勢の視線が私に向いている。

 けれどもう、何も怖くなかった。

 なぜならそれは、私を値踏みする視線ではなかったから。ミスをめざとく指摘して、蹴落とそうとする視線でもなかったから。

 見守られている。成功を願われている。

 そう思えば視線は、もはや応援みたいなものだった。

 何よりも琴子が見守ってくれている。誰よりも近くで。

 怖いことなんて、あるはずがなかった。

 無数の応援を浴びながら、私は舞台を縦横無尽に舞う。

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