第八話 月夜に幽霊と舞う
8-1
黄昏時の田舎道をのんびり走る。
太陽は西の稜線に沈み、空には微かな残照が残るばかり。外灯もろくにない田んぼの中の道路を、照らすヘッドライトの光がだんだんとくっきり感じられてくる。
開け放たれた車窓から流れ込む風には、まだほんの少しの熱気が残っていた。
少し寂しくて、けれども満ち足りた、そんな帰り道。
三上家を辞して車に乗ったときにはまだ大泣きしていた琴子もすっかり泣き止んで、今は助手席で鼻歌なんか歌っている。幽霊はいくら泣いても瞼が腫れたりはしないらしくて、それがちょっとうらやましい。
「残っても良かったんだよ?」
琴子はいわゆる地縛霊とは違って、場所に縛られてはいない。家族の側に留まることだってできたはずだ。
「あら、緋瑪はまだわたくしを追い出したいと思ってましたの?」
「そんなわけないじゃん」
私は口を尖らせた。
「でしたら良いではありませんか。わたくしはあなたと一緒にいたいのです」
うわ、面と向かって言われると照れる。
私は運転に集中するふりをした。琴子は何を察したのかニヤニヤ笑っている。おのれ。そっちがそうくるならこっちにも考えがあるぞ。
「……それにしても意外だったわ」
「何がですの?」
「生きてた頃の琴子の歌。ほんとひどかった。思い出すだけで笑えてくる」
「んなっ! 誰にだって初心者の頃はあるものです」
「そうだけど、あそこまでひどいのはちょっとないよ」
私がくっくっと笑っていると、琴子は目を吊り上げた。
私は琴子が何か言う前にすかさず、
「死んじゃって、記憶がなくなっても『歌が好きだ』って思いは忘れなかったんだよね。それでずーっと練習し続けた。誰も聞いてくれないのに。誰かに聞いてもらえる保証もないのに。めげずに歌い続けた。そしてプロレベルに上手くなったんだからすごい」
早口でまくし立てると琴子は振り上げた拳の落としどころをなくして口をパクパクさせ、それから激賞されたことに気付いて、
「いえ、まあ、それほどのことは……やだもう!」
と両手で顔を覆った。
昨日気付いたけど、琴子は褒められるのにめっちゃ弱い。これからも何かあったらこの手でいこう。
「ね、何か歌ってよ。今の気分にふさわしいやつ」
「あら、緋瑪がリクエストをくださるなんて」
「いけない?」
「まさか!」琴子は笑って、「そうですわねえ……ああ、あれにしましょう。お婆さまの曲」
そうして琴子が歌ったのは、卒業と永遠の友情をテーマにした曲だった。
温かな思いに包まれて、私は琴子の声に聞き入った。
†
琴子の歌を聴きながら、どこまでもどこまでも走って行きたい気分だったけれど、私は素直にはなや旅館への道を辿った。
頭の中では、帰りにどこへ寄ろうかと考えていた。まずは琴子が行きたがっていた動物園。それからおいしい、甘ーいものを食べて。なんかテーマパーク的なところもいいな。
まずはお風呂に浸かって、時間を気にせず琴子とゆっくりおしゃべりしよう。過去を取り戻した琴子には、話したいことがいっぱいあるはずだ。私も、琴子のことがもっと知りたかった。
そう思いながら車を止め、玄関を開けた私を迎えたのは、ピリついた慌ただしい空気だった。
「すみません遅くなって……」
「仲谷さん」
ロビーに膝をついていた依里さんがそのままの姿勢で顔だけ振り返った。その体の陰には横たわる小柄な着物姿――。
「何かあったんですか!?」
「おばあちゃんが配膳中に転んだんです。すごい音がして。さっきまでウンウン唸ってたのに意識もなくなって……」
「! 救急車は!?」
依里さんの視線がカウンターに飛ぶ。仲居さんの一人が固定電話の受話器を抱きしめるようにして、焦った様子で話していた。今まさに救急車を呼ぼうとしているところだったらしい。
依里さんはため息をついた。
「だから手伝わなくていいって言ったのに……。いえ、私がちゃんと切り盛りできていれば……わたしが頼りないからおばあちゃんが……」
「しっかりしてください。若女将のせいじゃありませんから」
板前さんがそう言って依里さんを励ましたけど、依里さんの顔は青白いままだ。
「救急車、すぐ来てくれるそうです。とにかく動かさないようにって」
電話を終えた仲居さんがそう言った。
実際、救急車はものの数分で到着した。救急隊員がバタバタと玄関から入ってきて、依里さんたちを押しのけ大女将の具合を確かめると、すぐに救急車へと運んでいく。
骨盤骨折の可能性、緊急手術、そんな物騒な説明があって、隊員は依里さんに救急車に同乗するよう促した。
「でも」と依里さんはためらった。「お客様がいるのに」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
「そうですよ。旅館は私たちで何とかしますから」
仲居さん、板前さんが口々に言う。依里さんはそれでもためらった。
「それに明日は神社の神事が……」
喚いたりはしてないけど、パニックに陥っているのは間違いない。優先順位がつけられなくなっている。
「代役はいないんですか?」
私が訊ねると、依里さんは首を横に振った。
「だから私が行かないと……おばあちゃんだって自分のことよりお客様を優先しろって言うはずだし……」
言うかもしれない。けれど言われたとおりにするのが正しいわけじゃない。
私は、依里さんは救急車に乗るべきだと思った。旅館の人たちもそう思っている。そもそもこんな状態で、仕事をしたり、不安を隠して舞台に上がれるわけがない。
けれど依里さんは「私が行かないと」「伝統が途絶える」と頑なに繰り返す。
「無理矢理でも乗せてしまえ。それと、誰かついていった方がいいな」
板前さんがそう言って依里さんの肩をつかむ。依里さんは抵抗する。
「緋瑪、ちょっと」
琴子がロビーの隅で私を手招きした。
「こんな時に何?」
「あなた、代役なさい。若女将の代わりに神楽を舞うのです」
「はあっ!?」
突拍子もないことを言われて私は大きな声を出してしまった。慌てて振り向いたけれど、旅館の人たちは本格的に抵抗を始めた依里さんにかかりきりで、こっちに気を向ける余裕はなさそうだった。
「ちょっと琴子。何を藪から棒に」
「そうするのが一番いいと思ったからです。代わりがいるとなれば若女将も安心して、お婆さまについていられるでしょう」
「それは理屈ではそうだけど……」
神事は明日の午後からだ。あと二十時間もない。
「織幡神社の神楽舞はほんの十数分の短いもので、動きも激しくはありません。中学生でもこなせるものですから、プロの女優であるあなたには児戯みたいなものかと存じます」
「でも私、視線恐怖症が……」
私がそう言うと、琴子は鼻で笑った。
「あら? もうすっかり普通に人と接しているではありませんか」
「日常会話と舞台に上がるのじゃ全然違うよ!」
「それはあなたがそう思っているだけではなくて?」
そんなはずはない。日常と舞台が同じはずがない。そう思うのに、私は琴子の口調に気圧されてしまった。
私が口ごもっていると、琴子は穏やかな雰囲気を纏ってこう言った。
「わたくしも、考えていたのです。どうしてわたくしは、緋瑪のところに来たのだろうかと。他の誰でもなく、なぜ、緋瑪にだけ姿が見えて、話ができるのだろう。その答えはきっと、あなたが言った通りなのでしょう」
「私が……?」
「パパとママに言ったでしょう。『叱咤するために天国から降りてきた』と」
「あれは、琴子のことを秘密にしたまま琴子のご両親を納得させるための方便というか……」
根拠のない発言だ。真に受けられても困るんだけど。
「少しはそう思っていないと、出てこないものではなくて? 緋瑪、あなたは誰かに背中を押して欲しがっていたのよ。そして私が選ばれた。そういうことなのだと、わたくしは存じました」
「そんな……」
「このまま帰ったら、その後あなたはどうなりすの? また暗い部屋に引きこもって過ごしますの? 一度はつかんだ夢を放り投げて。他人の視線に怯えて、幽霊一人を話し相手に……。緋瑪、あなたはまだ生きているのよ? わたくしと違って!」
「っ!」
「わたくしの友人は、部屋でいじけて終える人ではございません。ねえ、緋瑪、わたくしの誇れる友人であってください。あなたは再びステージに立たなければいけないの。わたくしが叶えられなかった夢も背負って、輝く星になるのよ!」
懇願、切望、祈念、応援――琴子が私にぶつけたのは、そのどれでもあり、どれでもない感情だった。あるいは人はそれを、愛と呼ぶのかもしれない。
呼び方なんてなんでも良かった。
それは琴子の、魂の声だった。
私一人だけに向けられた、強い、とても強い情動だった。
これほどの強い思いをぶつけられたことは、私の人生になかった。
全身全霊のその思いは、私の魂を共鳴させ、わんわんと胸の内で響き渡った。
「わかった。やる」
私は答えた。
舞台への情熱、ではなかった。
私は、琴子の自慢の友達でありたかったのだ。
琴子がそうあれと願うならば、私はそれに応えたい。
「それでこそ、わたくしの緋瑪ですわ」
大女将はもう救急車に収容され、依里さんも強引に押し込められようとしていた。私はそこに駆け寄って告げた。
「依里さん! 代役のことなら心配しなでください。私がやります」
「……仲谷さんが?」
依里さんは虚を突かれた顔をする。
「私は女優です。一晩あれば練習は十分です。ばっちり完璧にこなして見せますから。安心しておばあちゃんについていてください」
依里さんの抵抗が止んだ瞬間、すかさず板前さんが救急車に押し込み、先に乗っていた仲居さんが中から引っ張った。救急隊員がさっとドアを閉める、その寸前、
「神社と実行委員には私から伝えておきます! それと部屋に去年のDVDがありますから使ってください!」
依里さんの言葉に私はうなずく。
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