7-2

 全力で車を飛ばして山を下りる。急ぐあまりに琴子を置き去りにしそうになってしまって、琴子はすごく怒ったけど、そんなの些細なことだった。

 はなや旅館に着くなり、私は大女将を捕まえて問い質した。

 すると、

「ああ、そうだねえ。娘さん夫婦とお孫さんはそのときはいなかったねえ」

「そういうことは最初に言ってくださいよ!」

「あれ。言わなかったかしら。それは申し訳ないことを」

 大女将にとっては「お屋敷の三上さん」は誠史氏と奥様のことで、その子供や孫である琴子のことは世代が違うからあまり意識していなかったんだろう。でも私「三上琴子を探している」って言ったんだけどなあ。まあ過ぎたことを言っても仕方ない。大女将は歳が歳だし。

「それで、三上さんの娘さん夫婦は今どこに?」

「お孫さんが亡くなってから戻ってきて、今は確か、八坂で楽器を売るお店をやっているんじゃんなかったかしら」

 そんなわけで、私たちは再び八坂地区を訪れた。

 店の名前も正確な住所も大女将は知らなかったけれど、スマートフォンで検索したら光咲市内に楽器店は一つしかなかったので簡単にたどり着けた。

「ここに、わたくしの両親が……」

『三上楽器』というシンプルな店名。通りに面した側はショーウィンドウになっていて、トランペットやトロンボーン、他にも私には名前の分からない管楽器が並べてあった。ガラスには市内の高校の吹奏楽部ポスターと、音楽教室の勧誘チラシ。店内の様子は薄暗くて、通りからではよく見えない。

「大丈夫?」

「待って、心の準備が……」

 琴子は目を閉じて大きく息を吸う仕草。ゆっくりと目を開く。

「……いつでもよろしくてよ」

 そう告げた琴子の手は震えていた。握ってあげることはできないけれど、私はそっと自分の手を重ねる。

 二重の自動ドアを通り抜けると、意外にもBGMはかかっていなかった。試奏の邪魔になるとか、そんな理由なのかな。

 広さは二十畳くらい。楽器店に入るのは初めてなので、広いのか狭いのかよく分からない。右手の壁には管楽器が並び、左手の壁にはギターやべースが並んでいる。後は電子ピアノとかキーボードとか。奥側には音楽雑誌や楽譜のコーナーがあって、その隣のカウンターで、髪の真っ白な女の人が、赤ペンを使って書き物をしていた。

「ママ……」

 覚えている姿とはずいぶん変わってしまっているはずなのに、琴子は一目見るなりそう呟いた。

 見比べると確かに、どこか面影がある。若い頃はさぞ美人だったに違いないと思わせるし、何というか、気品があるのだ。淑女の。

 視線を感じたかのように、琴子のお母さんが顔を上げた。

「あら、いらっしゃい。気付かなくてごめんなさいね。何をお探し?」

「あ、えっと」

 私は言葉に詰まった。勢いで来てしまったので何を言うか全然考えてなかった。

「近くの方ではないですよね」

「旅行者です」

「見ていくだけでも大歓迎。気になるものがあったら教えてね」

 琴子のお母さんは目を細くして笑い、また書き物をする。血を分けた親子なら琴子が見える……なんてことは、どうやらないらしい。琴子の姿が見えるのは、私じゃなくてこの人であるべきなのに……。

「あのっ」

「はい」

「三上、弓絵さんですよね?」

 訊ねる私。名前はここに来る前、琴子から聞いた。お母さんが弓絵さん。お父さんが昌利さん。

「そうだけど……どこかで会ったかしら?」

 弓絵さんが怪訝そうな顔をする。当然だろう。心当たりなんてあるはずがない。

「実は私、琴子と……琴子さんと、」

「待って!」

 私の言葉を遮って、琴子がすごい声で叫んだ。

「何を考えているの緋瑪! まさか言うつもり!?」

 言わないでどうするの? お母さんなんだよ!? 何しにここまで来たの!?

 私も叫び返しそうになった。けれどもぎりぎりで理性が働いてこらえた。

「すみません、ちょっと、ちょっと待っててください」

 弓絵さんにそう断って、私は店を出た。琴子もついてくる。

 店の前の路上で、私たちは向かい合った。

「琴子、どうして止めたの」

 琴子は黙って帰るつもりだったのだろうか。琴子一人ならそうするしかなかったかもしれないけど、私もいるのだ。

「ようやく見つけた家族じゃない。伝えたいこととか。あるでしょ」

「あります。ありすぎるに決まってます。この日のことをわたくしが夢想しなかったとでも思って? 何度も何度も考えましたわ。家族に会える日のことを。会ったら何を伝えようかと」

「だったらどうして!? 私がいれば……今なら何でも伝えられるんだよ!?」

 踏み込み問い詰める私に、琴子は一歩も引かなかった。けれど視線を私からは外して、

「……だからこそ、ですわ」

 寂しげに呟いた。

「わかんないよ……」

「……わたくしの名前を訊いた瞬間の、ママの顔を見ました?」

 私はうなずく。弓絵さんは柔和な顔を一瞬にして強ばらせた。

「わたくしが死んだことで、ママはきっと、自分を責めたに違いない。ずっと悲しみの中で過ごして来たに違いありません」

 一生癒えるものではないはずだ。我が子を失った悲しみは。

「それでもママは、時間をかけて心の整理をしただろうと存じます。でも、そこにわたくしのことを伝えたらどうなりますの? わたくしが幽霊となってまだこの世に存在していると知ったら」

 心の傷がまた開く――我が子を救えなかった思いに、再び支配される。

 それだけじゃない。報いようとするはずだ。幽霊となった我が子に。

「生前、わたくしは病気のことで両親に大変な苦労をさせました。死んでからも迷惑をかけたくはございません……」

「琴子は、琴子はそれでいいの?」

「他にどうしようもないではありませんか……」

 私に背を向け、琴子はうつむいて拳を握りしめる。

 琴子の気持ちは痛いほど分かった。

「ごめん。私がうかつだった……」

 謝って、でも、私はすっきりしない気持ちになる。

 このまま黙って帰るなんて、そんなの悲しすぎるよ……。

 それに、もう名前を出してしまったのだ。弓絵さんの気持ちはすでに乱れている。どういうわけか娘のことを知っているおかしな客が現れたことで、弓絵さんは気味悪く感じ、不安になっているはずだ。

 このまま帰ってしまったら、嫌な思いだけを残してしまう。琴子だって気持ちが晴れていない。

 だから、このまま帰ってはいけない。

 どうにかしなくてはいけないのだ。

 直接話ができない親子に代わって、両者の間に立てる私が。

「……琴子、これから私がやること、少しだけ黙って見てて」

 決意を固め、私は踵を返した。三上楽器店のドアを開ける。

「緋瑪!?」

 琴子が私を呼び止める。私は止まらない。

 楽器の林を通り抜け、カウンターの弓絵さんと相対する。

「さっきはすみません。急に変なことを言ってしまって……」

「いえ、別に気にしてないけれど……」

 私に気を遣うだけの言葉だ。気にしているのは表情で分かる。

「緋瑪、なにをするつもりなの? やめて!」

 私は琴子に目で訴えた――信じて。

 琴子が戸惑い、けれど数瞬の後、半歩下がる。

 ありがとうと目で伝えて、私は弓絵さんに向き直る。

「また変なことを言います。すみません」先に謝り、「私、あなたを訪ねてきたんです。……琴子さんに導かれて」

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