第七話 「琴子」

7-1

 山端地区は大部分が山林で占められている。

 その西の果て近く、私たちが最初に入ってきた、織幡神社の裏手を通る道路をさらに登っていくと、巨大なダムがある。

 八月十二日、午前九時。

 出発前から地図でその存在は知っていたけれど、街から十数キロも離れたこんな山奥に人里があるはずもなく、だから琴子の家もあるはずがないと最初から除外していた場所に、私たちは今、立っている。

 ダムの上は半分が自動車用の舗装道路、もう半分が観光客用の遊歩道となっていて、等間隔で外灯とベンチが並んでいる。ベンチには街でも見かけたランタンフェスティバルの幟がくくりつけられ、手すりにはラミネート加工されたポスターが掲示されていた。

 手すりの先には翡翠色に輝く湖面。今年は小雨だったせいで水量が減っているらしいけれど、それでも、湖底を透かし見られるほどには浅くない。

「ここが、わたくしの生まれたところなのですね……」

 呟く琴子の視線はダム湖の水面を通り抜け、見えない湖底へと向いている。

 琴子の「お爺さま」――三上誠史氏は、東京の若手実業家だった。貿易で財をなして、商社を経営していたそうだ。あるとき、取引先に接待された酒席で、鈴子という女性歌手と出会い、数年の交際の後、結婚する。結婚後もしばらくは東京で生活していた二人だが、やがて鈴子さんの故郷の山端町(当時)で暮らしたいという思いが募り、誠史氏は事業を人に譲り、妻と娘を連れて、この山端に移り住むことにした。

 その後誠史氏は政界に進出、山端町の町議を経て岩手県議になる。そして、たびたび水害に見舞われる山端を救うため、ダム建設を計画した。

 ところが計画半ばで大雨災害があり、山崩れが屋敷を直撃、誠史氏も鈴子さんも亡くなってしまう。この災害では他にも多数の死傷者が出て、皮肉にもそれによって防災意識が高まり、建設計画は加速することになる。

 そして当初計画より大型化された「山端ダム」が完成、旧山端町の中心区域は、湖底に沈むことになった。

「では、ちょっと行ってきますわ」

 まるでコンビニにでも行くような軽い口調で、琴子は手すりを飛び越えた。

「琴子」

「なんて顔をしていますの」

 そう言うと、琴子はゆっくりと水面へ降りる。

 私はどんな顔をしていたんだろう。

 湖上をゆったりと飛んでいた琴子の姿が、不意に水の中へと消えた。

 私は手すりに掴まって、琴子が潜った辺りを見ていた。波紋一つ立たなかったことが、私をたまらなく不安にさせた。

 しばらく待っても琴子は戻ってこない。

 私は近くのベンチに腰掛けた。

 どんな気持ちだろう、ようやく探し当てた生家が、まさか水の底だなんて。

 家族に会いたかったに違いないのに。たとえ姿を見せることはできず、言葉をかけることができなくても、ひと目見たかったに違いないのに。

 その相手はもう誰も、この世にいない。

 もっと早く琴子を山端に連れてくることができたら――いや、全ては私が生まれる前に終わっていたことだ。私にはどうすることもできなかった。頭ではそう分かっているんだけど、胸の内には強い後悔というか、悔しい気持ちで一杯だった。

 琴子は今、湖底をさまよっているんだろうか。朽ちた街並みに、かつての暮らしの記憶を蘇らせているのだろうか。そうであって欲しいと願い。そうでなければ良いなとも思う。思い出すことは、失われたことの再確認でもあるのだから。

 私の気持ちは激しく乱れ、それは行動にも表れる。

 立ち上がって手すりに掴まり、湖面に琴子の姿がないかと目を凝らし、しょぼくれてベンチに戻る。大丈夫だと自分に言い聞かせ、けれどまた不安になって立ち上がる。それを何度も繰り返した。

 頭上が寂しかった。そこにはいつも、琴子が浮かんでいたのに。

 隣が寂しかった。そこにはいつも、琴子が座っていたのに。

 一人だと思った。

 あれほど望んでいた一人の時間は、ただただ、寂しいだけだった。

 私が立ったり座ったりしている間、背後の道路を何台かの車が通り過ぎた。市役所の車もやってきて、明日のお祭りの用意だろうか、何やら作業を始める。

 ダムを見に来た観光客も数人いた。カップルだろうか「すごい、綺麗」「放水しないの?」という会話が聞こえてくる。

 私も琴子とあんなふうに、無邪気な観光客として、ここを訪れたかった。

 じりじりと太陽が昇っていく。私は肌を焼かれるままにじっとしている。

 と、

「干物になりますわよ」

 その呆れかえった声を聞いた瞬間、私は不覚にも泣きそうになってしまった。

「琴子!」

「ええ、琴子です」

「お帰り。……どうだった?」

 私は涙をごまかすために、顔の汗をタオルで拭きながら訊ねた。

「おかげさまで、色々思い出すことができましたわ」

「そっか……」

「よかったとは言ってくださらないの?」

「辛かったんじゃないかと思って。家とかなくなってるし……家族も……」

「それはまあ、まったく辛くないと言えば嘘になりますけれど、『何者でもない自分』を抱えてさまよっていたことに比べれば、何もかも宝物です」

「そっか。それならよかった」

 私がうなずくと、琴子は気品と慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「それも全て緋瑪のおかげ。ありがとう存じます」

 琴子が腰を下ろし、私の隣に収まる。それだけで私は満ち足りた気持ちになった。まずい。本当に泣きそう。感情【エモ】がバカになってる。

 そんな私を琴子は優しく見守っていた。



 これで旅の目的は果たされた。

 車も直ったし、後はのんびり観光でもしながら帰ろう。もう一泊してランタンフェスティバルを見ていくのも悪くない。

 そんな風に考えた私は、一つ、大きな疑問が残っていることに気付いた。

「なんで琴子は私の街で幽霊やってたわけ?」

 普通、幽霊って死んだ場所でなるものじゃないの? いや幽霊の普通なんてあるのか知らないけど。

 記憶を失っていたとしても、琴子がこの街からはるか数百キロも南下して私の街にやってくるのは、適当にさ迷った結果だとするとかなり不自然な気がする。琴子も確か「気付いたら幽霊になっていて、この街にいた」みたいなこと言ってたし。

「あら、わたくし山崩れで亡くなったわけではありませんのよ。大きな病気が見つかって、お爺さまの伝手であちらに転院しましたの」

「え、え、え」

 私は混乱する。中学生を遠く離れた病院に、一人で入院させるなんて普通はやらない。親が一緒に来てるはずだ。

 だから琴子が入院中に水害があったのだとすれば、ご両親も一緒にいたと考えるのが自然で、つまり、琴子の両親は山崩れに巻き込まれてはいない。

「……だとしたらまだ生きてるんじゃない!?」

「っ!」

 私たちは顔を見合わせた。

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