6ー2

翌朝。

 ホテルで朝食を済ませた私たちは腹ごなしもそこそこに出発した。

 道中、動物園の看板を見つけた琴子が例のごとく、

「緋瑪、ちょっと寄っていきませんこと? わたくしパンダが見たいですわ」

 なんて言い出したけどもちろん却下。

 本来の予定ならとっくに光咲市入りして調査を始めているはずなのだ。

 それに東京以北の動物園にパンダはいない。

 それでも琴子はごね続けた。

「ああもう帰りには必ず寄るから! それでいいでしょ」

「帰り……」

 琴子は一瞬、何とも言えない顔をした。何? 私そんなに無理言ってないよね? 帰りったって早ければ明日なんだし。

 問い質そうかと思ったけれど、それより早く琴子が取り澄まして、

「仕方ありませんわ。それで許して差し上げます」

 と偉そうに言い放ったのでこの件はそれで終わりになった。

 昨日と同じように、北へ北へとひたすら進む。景色も昨日と大差ないものだったけれど、私の緊張は少しずつ高まって行った。

 この先に、琴子の故郷と過去がある――確実な証拠は何一つないのに、私はそれを確信していた。

 そして怖くもあった。知ることで、私たちがどうなってしまうのか。

 琴子もきっとそうだったに違いない。岩手に入るとドライブソングを口ずさむこともなくなり、次第に口数が減っていたから。

 一関市、奥州市と通過して、太平洋側の釜石市に出る。

 さらに北へ。

 しばらく海沿いを走って、再び山側に入る。

『ようこそ光咲市へ』

 山中に突然そんな看板が現れた。

 琴子は無反応だった。何を考えていたかは分からない。まあこんな看板一つで記憶が蘇ったりしたらその方が変だけど。

 看板から二つ峠を越えると、視界が開けた。山間の平地に、緑の絨毯のような田園地帯と、かわいらしい市街地が現れる。

 下り坂を下りていくと、市街地に入る手前の交差点に、織幡神社への案内が出ていた。左折して坂を登り、また山の中へ。

 田舎の山道にしては……なんて言ったら失礼かもしれないけど、立派な道路だった。車線こそ上下二車線しかないけど道幅がやたらと広く、その気になれば二台並んで走れそう。道路は快適だけど、ときどき立ってる「熊出没注意」の看板が怖い。出るんだ……熊……。

 さらに進む。

 ほどなく砂利敷きの駐車場が現れた。どうやら神社の裏手にあたるらしい。車を停めて降りると、駐車場の奥に未舗装の車道と、急な階段があるのが見える。

「琴子?」

 階段を登ろうとした私は足を止めた。琴子があらぬ方向を向き、風に流されていたのだ。

「どこ行くの? 神社はこっち」

「いえ、なんだか……」

「何か思い出した?」

「いいえ。そうではなく……」

「気になるものがあるならそっちに行ってみようか?」

「いえ、気のせいですわ。参りましょう」

 琴子は一転、先に階段を登り始める。

 木々のトンネルを抜けて木漏れ日の奥。広い境内があった。向かって左手に社殿、右手に手水舎と鳥居。それから能舞台のような建物がある。

「あ……」

 琴子が前に出た。

 鳥居の方に向かう琴子に、私は無言でついていく。

 鳥居の下に立つ。この神社は山の中腹にあるらしい。参道もやはり階段になっていて、眼下に広大な水田と、光咲市の市街が一望できた。季節こそ違うけれど、それ以外はネットの画像で見た通りの風景だ。

 参道の下にも駐車場が――私たちが車を停めたのより何倍も広くて立派な――あった。参拝客はみんなあっちを使うんだろう。

 琴子はしばらく街並みを眺め、それから振り返って社殿に向かう。

「そうですわ……わたくし、ここに来たことがありますわ。そして願掛けを……」

 やっぱり、と私はうなずいた。

「願掛けって何の?」

「それは……」

 琴子は眉間に皺を寄せ、首を振った。

「……思い出せません。とても大事な、絶対に忘れてはいけない、切実な願いだったはずなのに……」

「ここまで来たらあとちょっとだよ。街を回ってみよう。そしたらもっと思い出すだろうし、家とか……家族とか見つかるよきっと!」

「ええ」

 私たちは神社を後にして車に乗り込んだ。とりあえず来た道を逆に辿って、街の入り口に向かう。

 その途中、

「……あれ?」

 赤信号で一度止まり、再発進しようとアクセルを踏み込んだんだけど、車は一度変な音を立てて震えたきり、まったく動かなくなってしまった。

「どうしましたの?」

「ん。エンストしたみたい」

 私はエンジンスタートキーを押し直した。きゅるる、ぷすん。エンジンはかからない。もう一度押す。今度はうんともすんとも言わなかった。

「あれ。おかしいな」

 もう一度。もう一度。もおおおう一度!

 けれど何度やっても結果は同じだった。

「壊れた!?」

「嘘でしょう!? こんな山の中で!」

「こんなしょうもない嘘つかないよ!」

 興奮しているのに、同時に血の気が引く思いだった。

 車が動かなければ琴子の過去も探せないし、家に帰ることもできない!

「昨日琴子が変な歌を歌ったからだよ!」

「わたくしのせい!?」

「昨日まではちゃんと走ってたもん! 故障の原因はオカルトだもん!」

「そんな非科学的な」

 琴子が呆れかえった。

 私はとにかく車を降りて、ボンネットを開けてみた。

 何も分からなかった。

 そりゃそうだ。わたし、整備士でも何でもないもん。

 無意味で間抜けな行動をしてしまったけれど、おかげで頭は冷えた。

「ごめん。ちょっとパニクってた。携帯で助けを呼ぼう。もし圏外でも神社まで歩けばいいし」

「そうですわね」うなずく琴子――だったんだけど、「緋瑪!?」

 琴子の悲鳴。

「え? わあっ!」

 止まっていたはずの車が動き出したのだ。音もなく、私の方へと。私はとっさにグリルに手をついて車を押さえる。

「え? なんで!? どうなってるの?」

「緋瑪、サイドブレーキが」

 車内を覗き込んだ琴子が言う。

 言われてみれば降りるときにサイドブレーキをかけた覚えがない。ギヤはDだったかNだったか。どっちだか分からないけど、これもPレンジに入れた覚えは全くない。そしてここは若干だけど傾斜がついている。ブレーキをかけずに車を停めたら動き出すのは当然だった。

 そして動き出した車をとっさに押さえてしまったのは最低最悪の対応だった。

「うぬぬぬぬぬ……」

 問題「坂を下ってくる自動車を人間の力で静止させることは可能か?」

「無理! 助けて琴子!」

 私は車を全力で押さえながら絶叫した。

「何とかして差し上げたいのですが、幽霊であるわたくしにはいかんともしがたく」

「だよね! 知ってた!」

 そうしている間にも車はじりじりじりじり、私を押し潰そうとするかのように迫ってくる。今はまだ全体重預けて全力で押していればどうにかなってるけれど、いずれ力尽きることは言うまでもない。

 こうなったら車を諦めて逃げてしまうか。でもその後どうなる? 制御不能の車が坂道を加速しながら下っていって大惨事だ。じゃあどうする? 一、一旦車から手を離し、二、走る車に併走して運転席に飛び乗りブレーキをかける。無理だ。そんなアクション映画みたいな真似、できるわけがない。と言うかエンジンが切れてる車ってブレーキがまともにかからないんじゃなかったっけ。

 せめてスマホをポケットに入れていたら助けを呼べたのに。いや、呼べたところで助けが来るまでこの状態をキープなんてできるわけがない。

 ……あ、これ詰んでるわ。

 絶望感と夏の暑さで一気に意識が遠くなる。手足に込める力も抜けそうになる。

 いよいよどうしようもなくなったそのとき、さらに追い打ちをかけるように、交差する道路から猛スピードで驀進する軽トラが現れた。

 このとき私は自分の車に押されて交差点の真ん中付近まで進入しており、現れた軽トラはブラインドカーブを抜けてきた直後でこちらの様子は見えていなかったはずであり、端的に言えば死ぬと思った。

(ごめん。琴子。約束守れなくて)

 私は琴子を一瞬見て、それからぎゅっと目を閉じた。

(もし私も幽霊になったら、琴子に触れたり触れられたりできるようになるのかな)

 きゅきゅきゅきゅるるるああああ!

 って感じのすごい音が背後でした、ような気がした。

 突風になぶられ転びそうになったけど何とか踏ん張る。

 目を開けると一八〇度転回した軽トラックがすぐ近くにいて、若い女の人が運転席から飛び出したところだった。

「あなた、何して、」

「たたた助けてください車が止まって勝手に動き出して!」

「っ!」

 私の説明は全然要領を得てなかったけど、それでも女の人は察してくれたらしい。ダッと走って私の車の後ろを回り込み、運転席に飛び込むと足元を見る。

 直後、車にごんっ、っと衝撃があって、体にかかる重さが消えた。サイドブレーキをかけてくれたらしい。

「もう手を離しても大丈夫よ」

 開いたドアの隙間から、女の人はそう言った。

 けれど私の手足はプルプル震えるばかりでまったく動かせないのだった。

 


 女の人は私のがっちがちに硬直した指を一本ずつ、車から剥がしてくれて、

「怖かったでしょう。がんばったね」

 と手を握って慰めてくれた。

 私が落ち着くと車の状態を手早くチェックして、

「うん。足回りは大丈夫か」

 とこれまた手早く、軽トラの荷台から出してきたロープで二台を繋ぎ牽引の用意を済ませる。

 まるで母親みたいな包容力と父親みたいな頼もしさだったけど、よく見れば私とそう歳は変わらないようだった。すごく日に焼けている。野球部みたいに。

「牽引された経験は?」

「ないですけど……」

「じゃ、あなたはそっち乗って」

 と女の人が指差したのは軽トラだった。女の人自身は私の車に乗り込もうとしている。

「あ、あの」

「エンジンかからない車の牽引されるのは難しいから」

「じゃなくて。助けてくれてありがとうございます。私、仲谷といいます」

「わたくしは三上琴子ですわ」

 と琴子が口を挟んだけど、女の人は当然無反応。見えてないし聞こえてない。

「私は花屋」

「お花屋さん?」

「あっはっは! ごめんごめん。花屋って名字なの。家業はお花とは全然関係ないのに。おっかしいでしょう?」

「はあ……」

「下の名前は依里。こっちで呼ばれる方が好きかな。子供の頃は『お花もないのに花屋~』ってよくからかわれたものよ」

 笑う花屋さん――依里さんに親近感が湧いた。

「私もよくからかわれてました。下の名前「ひめ」なんですよ」

「男子ってほんとバカよね」

「まったく」

「そんな話をしている場合ではないのではなくて?」

 琴子がにゅっと割り込んだ。

 確かにこんなところで立ち話している場合じゃなかった。

「あの、牽引って」

「ひとまず知り合いの工場まで引っ張っていってあげる。あーごめんごめん行き先分からないか。電話番号何番? スピーカーモードにして助手席に置きっ放しにして、それで道案内する」

 私は軽トラに乗り込み、おっかなびっくり走り始めた。軽トラに乗るのも牽引するのも初めてでとにかく戸惑ったけれど、繋ぎっぱなしのスマホから、依里さんの的確な指示が飛んでくるおかげでどうにか無事に走ることができた。それでも普通の運転とは別種の疲労で、私はぐったりしてしまった。

「はーい、到着。お疲れ様」

 私の車を降りた依里さんが軽トラのドアを開け、よろめく私を地面に立たせてくれる。うーん、ほんと親みたい。

「ちょっと待ってて」

 と依里さん『植田自動車』と看板の出た建物に入っていく。見回すとフロントガラスに値札を掲示した車や、大きなガレージなどがある。自動車販売店と修理工場が一緒になったような会社だ。

 すぐに建物から、依里さんとつなぎを来た男の人が連れ立って現れた。

「故障車の人?」と男の人が大きな声で私に訊ねる。

「あ、はい」

「どんな感じ?」

「信号待ちで急にエンジンがかからなくなって」

 と私は説明をしようとしたんだけれど、男の人は全然聞かずに車を調べ始めた。

「バッテリーかな? それともプラグか」

「直りますか?」

「すぐは無理だね。部品取り寄せないと」

「どのくらい……」

「それは聞いてみないと分からない」

 と言って、男の人は私の車のナンバーを見て、

「旅行中?」

「です」

「えーっとじゃあ宿泊先は……」

「それが、まだこの街に着いたばかりで決まってなくて」

 昨日の予約ならあったんだけど、旅程が派手に狂ったおかげでキャンセルした。

「あ、それならうちに泊まる?」と依里さん。

「そんな、悪いですよ」

 さっきあったばかりの人にそこまで甘えるわけにはいかない、と私は思ったのだけれど、

「あっはっは! 違うのよ。うち、旅館なの。その名も『はなや旅館』! 紛らわしいでしょ」

「はあ……」

「古くてオンボロで立地も不便だけどその分静かで景色はいいし女の一人旅にも嫌な顔しないし料金は格安。さらに車の修理中を考慮して割り引いちゃう。それにこの時期、駅近の便利なところに泊まろうとしても空きがないよ。どう?」

 立て板に水の営業トークである。

「うーん」

 と悩むふりをしながら、私は琴子を見る。

「一人旅ではありませんわ」

 琴子はちょっと怒っている? まあ心情的には私も二人旅気分だったけど。

「そうじゃなくて。琴子はどう思った? 他のところにしたい?」

 と私は小声で訊ねた。

「まあ、街中の騒々しいホテルよりは、辺鄙なところの方がいいかしらね」

「よし、決まり」

 琴子の同意が得られたので、私は、はなや旅館に泊まることに決めた。

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