第六話 カントリーロード

6-1

 光咲市は地図の上ではとんでもなく広い。けれどその大半は山林で、人が住んでいる地域は少ない平野部に限られているみたいだった。車があれば一日で回りきることもできそうだ。さすがに遠いので日帰りは無理だけど。

 旅支度と言うほど大げさなことはなく、準備はあっという間に終わって。

 少ない荷物を詰め込んだトランクを車の後部座席に投げ込んでさあ出発という段階になって、琴子が変なことを言い出した。

「出発は、少し、お散歩をしてからにしません?」

「散歩ぉ? 今から?」

「構いませんでしょう? 誰かを待たせているわけでもございませんし」

 私は露骨に嫌そうな顔をした、と思う。

 私としてはできるだけ早めに出たい。長距離運転は不慣れだし、まして岩手は初めて行く土地だ。道に迷わないとも限らない。

「散歩なんていつでもできるでしょ。出発前に汗だくにもなりたくないし」

 さっさと出発するぞの意思表示として、私は車に乗り込み助手席のドアも開けた。

 けれど琴子は乗り込んでこない。

「では少し待っててくださいな。わたくし一人で、その辺りを一回りして参りますので」

「あ、ちょっと!」

 琴子は本当に一人でふらふらと散歩に行ってしまう。

 私は迷い、

「ああもう! 自己中なんだから!」

 結局、車を降りて琴子の後を追った。

 琴子は本当にゆっくり、お年寄りの朝の散歩よりもゆっくり飛んでいたので、追いつくのは簡単だった。

「車で待っていてもよかったのに」

 そう言いながらも琴子は微笑んでいた。

 一人の時は地面から二メートルくらいの高さを飛んでいたのに、私が追いつくと顔の高さを合わせて低く飛ぶ。いつもそうしているように。

 琴子と私は並んで散歩を始めた。

 住み慣れたアパートから、まずは右手に進む。配達のトラックがいつも難儀している見通しの悪い十字路。さらに進むとちょっと広くなって、飛び出し注意の看板。道路に『スクールゾーン』のペイント。遊具の一つもない小さな公園。

 そんなたわいもないものを、琴子はゆっくり、じっくり、眺めながら進んでいく。

「捜しもの?」

 そんな風に見えたので訊ねてみた。

「というほどのものではないのだけれど……」

 と琴子の返事は煮え切らない。

 ――ずっと後の話だけど、私はこの朝のことを何度も思い返すことになる。「琴子にはあのとき、何かの予感があったのかもしれない」と。



 二十分ほどかけて町内をぐるりと一周、アパートに戻ってくると、車の前にいつかの猫が座っていた。

 背筋をすっと伸ばし、前足は揃えて体の前に突いている。何となくかしこまったそのポーズで、猫は琴子を見上げてにゃおんと鳴いた。

「なんて?」

「……猫缶の催促ですわ」

「これから出かけるってときにどいつもこいつも……」

 そう愚痴りつつ、私は自室からストックの猫缶を取ってこようと歩き始める。猫は私を無視して琴子を見ていた。琴子が何やらうなずく。猫はすっと腰を上げると、私たちに背を向けてアパートの陰へと走り去ってしまった。

「んん? 猫缶は?」

「気が変わったのかしらね……」

 うーん。違う気がする。なーんかおかしいなあ……と私は首を傾げた。

 と、

「何をなさっているのおひめひめ。のんびりしていると日が暮れてしまいますわ」

 いつの間にやら助手席に収まった琴子が、閉まった窓から身を乗り出してそう言った。

「お前が言うなだよ!?」

 そう突っ込んで私も乗車。シートベルトを締めてエンジンスイッチをオン。カーナビに目的地をセット。忘れ物なし、ミラーの角度よし、サイドブレーキ解除。

「いざ、出発!」

 久しぶりの運転なので、最初はやっぱり不安だった。けれども路地を抜けて大きな道路に入り、信号を三つ通過するころには、感覚がすっかり戻っていた。自転車みたいなものだ。体を動かすことは体が覚えている。

 市街地を順調に抜けて高速道路に乗り入れる。お盆休みにはちょっと早いので混雑は全くない。出発が遅れた分を取り戻そうと、私はアクセルをドカンと踏み込んで本線に合流――

「ん?」

 突然だった。琴子が背もたれにめり込んだ。

「琴子?」

 琴子は助手席を突き抜け後部座席に移動――したかと思う間もなく今度は後部座席も突き抜けて車内から姿を消してしまった。

「は? 何?」

 とっさにルームミラーを見たけど、琴子は幽霊だから鏡には映らない。私は身をひねって後ろを見た。

 琴子は私の車の後方、路上を泳ぐような姿勢で空を飛んでいる――のだけれど、その姿はだんだん、というかかなりの勢いで遠ざかっていく。めちゃめちゃに焦った顔で、つまりこれは琴子の石ではなく不慮のトラブル。でも一体何がどうなっているわけ?

「緋瑪! お止まりになって! 止まって!」

 琴子の悲鳴が私の脳内に響く。

 でも高速道路は駐停車禁止だ。おまけに後方からはすごいスピードで追い上げてくる車までいる。止まるどころか減速だって危ない状況。そのまま走り続けるしかない。

 後続車が私を追い越しミサイルみたいな勢いで彼方に消える。

 振り返ると琴子の姿も消えていた。スピードは上げなかったつもりだけど、それでもぶっちぎってしまったらしい。

「琴子!」

 無駄を承知で名前を呼ぶ。

 できるだけ速度を落として見たけれど、琴子が追いついてくる気配はない。私を呼ぶ声も聞こえてこない。

「どうしよう」

 どうしようもない。後ろは気になるけど前を見ないで走るのも危ない。もどかしさと不安で一杯になりながらもそのまま走り続けると、行く手にパーキングエリア【PA】が見えた。

 救われた気分で車を入れ、雑に駐車すると、私はすぐさま車を飛び降りPAの入り口へと走った。琴子が追いかけてきているなら、ここにいれば見えるはずだ。気持ち的には本線からもっとよく見える路肩に移動したかったけどさすがに危険すぎる。

 ハラハラやきもきしながら待っていると、ほどなく、

「ひーめー!」

 呼ばわる声が脳内に響いた。続いて路上をかっ飛んでくるサマードレス。

 めちゃくちゃにシュールな光景だったけれど、私は泣きたいくらいほっとした。

「琴子! ここ!」

 全力で飛行していた琴子が、減速しながらPAに入ってきた。

「何やってるの!? 走ってる最中に勝手に車から降りるなんて!」

 実際はそうではなかったと分かっていたけど、私の口から出たのは悪態のような叱責だった。子供の無事にとりあえず叱ってしまうお母さんの気持ちがちょっと分かった。

 叱られた緋瑪は当然のように、子供みたいに言い返してきた。

「緋瑪が速度を出しすぎるから追いつけなくなったのよ。このスピード狂!」

「スピード狂じゃないもん! 免許だってゴールドだもん!」

「置き去りにしたのに気付いても止まらなかったくせに」

「高速道路で止まる方が危ない!」

 言い返して、私は何が起こったのかようやく理解した。

 琴子は幽霊だから車に乗れないのだ!

 助手席に座っているように見えたのは、家でソファに腰掛けているのと同じ「そういう風に見えるポーズ」をとっているから。

 つまり琴子は、車の移動に合わせて自分で飛んでいただけであり、移動が速すぎると着いてこられなくなる。

「そんなこと一言も言ってなかったじゃない」

「その機会もございませんでしたもの」

 それは確かに。いやしかし出発前に気付けたはずで、いやまてそんなことより大きな問題が。

「琴子さ、時速何キロぐらい出せるの?」

「さあ? 測ったことはございませんけれど……」

「乗ったことのある……着いていける乗り物は?」

「……バス、タクシーは乗れた覚えがあります。電車はダメでしたわね。途中で置いて行かれます。今みたいに」

 バスはともかく他人のタクシーに同乗して何やってたのかは気になるけど今は捨て置く。いずれにしても琴子は高速走行にはついてこられない。

「……ということは、高速なしで行かなきゃいけないの? 岩手まで!?」

 高速道路を使っても六時間強かかるのに。それを一般道のみで。何時間かかるのか計算しようとしたけど私の脳味噌は拒絶反応を起こした。

「逆に考えるのよおひめひめ。これで旅を長く楽しめると思えばよくってよ」

「その理屈は絶対におかしいから!」


    †


 次のインターチェンジで高速道路を降り、路肩に車を停めてカーナビを再設定。到着予定時刻は見なかったことにして待つこと二〇分。ようやく追いついてきた琴子を助手席に乗せる。気を取り直して再出発。

 想定外の事態で時間を食ってしまったので急ぎたいところだったけど、一般道では飛ばすにも限度がある。

 それに加えて琴子ってば、

「ご覧になって! 美術館がありますわ!」

「あんなところにアイスクリームのお店が!」

「人だかりが……何の催しかしら? ちょっと寄ってみませんこと?」

 と完全に観光気分ではしゃいでいる。

「寄らないよ! 予定よりも遅れてるんだからね!」

「今さら一時間や二時間、誤差のようなものではありませんか」

 違う。一時間遅れと二時間遅れは決定的に違う。

 私は琴子の提案を片っ端から却下して先を急いだ。と言っても信号には引っかかるし、それこそ誤差レベルの違いしかないんだろうけれど。

 こんなことなら夜に出発して朝到着するプランにすればよかったかなあ。夜中なら一般道でも空いてるし、琴子があれこれ目移りして騒ぐこともなかっただろうし。夜型生活をしていた先月までの私なら確実にそうしていた。いやしかし幽霊を助手席に乗せて深夜のドライブってどうなのよ。

 まあとにかく、ちょっとでも早く岩手に着けるように私は運転に集中していた。

 と、

「……緋瑪」

「なあに? 寄り道ならしないからね」

 先回りして反対しながら、私は横目で琴子を見る。

 ぎょっとした。

 琴子がまたシートに半分めり込んでいたのだ。表情は車酔いでもしたみたいに暗い。

「どうしたの!?」

「少々気分が……こんなに長時間飛び続けたのは初めてなので……」

 大変だ! 私は素早く周囲を見回し、手近な駐車場に車を乗り入れ止めた。

「琴子、大丈夫?」

 助手席でうつむく琴子を覗き込む。薄い肩が細かく震えていて、私は背中をさすってあげたくなった。

「……れば……に」

「れば?」

 聞き返す。と、苦しんでいたはずの琴子が、突然がばっと起き上がると、

「お肉をいただけば元気になりますわ!」

 めちゃくちゃ元気な声で言い放った。

「ほら、ちょうど目の前に焼肉屋さんが」

 言われてみれば確かにそこは、焼き肉店の駐車場なのであった。

「ランチタイムサービス中、ですって。デザート食べ放題。食べ放題って素敵な響きですわよね」

 目がキラキラしている。確かに食べ放題は素敵な響き。悪魔の誘い。でもさ……。

「何、あんた私のこと騙したの?」

 憤慨する私に対して琴子は取り澄ました顔で、

「違います。こうでもしないとあなた、昼食抜きで延々と走り続けそうでしたから。わたくしはあなたに休養を取らせるため、一芝居打ったのです」

 嘘だ。絶対に嘘だ。

 琴子は自分が焼肉を食べたかっただけに決まっている。

 けれども確かに昼食時を過ぎていて、言われてみればお腹はとても減っている。

「焼肉」

「デザート食べ放題。濃厚アリスクリーム。さっぱりシャーベット……」

 琴子が耳元で囁く。

 私は誘惑に屈した。



 一度車を降りてしまったからか、それともお腹いっぱいになったおかげか、気持ちがとてもおおらかに、細かいことがどうでもよくなってしまった。脂肪と炭水化物は人間を幸せにする。

 焼肉ランチで豪勢にお金と時間を消費した私たちは、のんびりゆっくり北上を開始した。一般道のだらだらドライブは市街地を抜けて山間部へ。うねる山道にぽんこつマイカーが悲鳴を上げる。

 私はエアコンを切って窓を開けた。猛暑は今日も散々だけど、山地の風は心地よく車内を吹き抜けてくれる。久しく感じていなかった開放感があった。

 木漏れ日の峠道で琴子が歌い始めた。日曜日にドライブデートにいったら渋滞にはまるし途中でオーバーヒートするし海に着いたら夕方だし彼氏は運転疲れで寝てしまったとかそんな感じの歌だ。ひどいな彼氏。

「たまには緋瑪も何か歌いませんこと?」

「私?」

「デュエットでもよろしくてよ」

「やだよ」

「ではソロでお一つ。ドライブ向きの歌を」

「仕方ないなあ……」

 そうして私が適当に選んだ曲はあんまりドライブ向きじゃなかったし、ソロで歌えと言っていたはずなのに途中から琴子も歌い出してそのまま乗っ取られたけど、嫌な気分は全然しなかった。

 山を越えて谷も越えて隣の県へ。街をいくつも通り過ぎ、途中で琴子が桃が食べたいとか言いだしたので果樹園に寄り道して、お城がみたいとか言い出したので立ち寄って。本当にただの観光旅行みたいになってきた。

 そんなことをしていれば当然予定通りの到着なんてあり得なくて、私たちは仙台の少し手前で宿を取ることになった。

 まあ寄り道を一切しなかったとしてもこの辺で一泊になってたと思う。慣れない長距離ドライブで私のお尻は限界を迎えていたから。

「仙台と言えば牛タンですわね」

「昼も焼肉だったでしょ。我慢しなさい」

 部屋に荷物を置くと私は浴衣に着替えて大浴場に直行した。半端な時間になったせいか、お風呂は貸し切り状態だった。ぬるめのお湯に浸かると凝り固まった筋肉がほぐれていくのが実感できる。

「やばい。気持ちよすぎてこのまま昇天しそう」

 溶けたくらげみたいになった私はよたよたと部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んでしまった。

 ごはんは宿に入る前に食べてきたからもうやることは何もない。そのままもぞもぞとシーツに潜り込んでまるくなる。

「もう寝ますの?」

「んー。ごめん。限界。長距離ドライブ、思ってたよりきつい……」

「今日はお疲れでしたものね」

 おやすみ、と私は答えたつもりだったけれど、声が出ていたかはだいぶ怪しい。



 その夜のことだ。

 私は不思議な夢を見た。空飛ぶオープンカーに乗ってどこまでもどこまでも飛んでいく。ハンドルを握っているのは私。助手席には琴子がいて、手に持ったお菓子を私にさしだしてくれる。私は小鳥みたいに口を突き出してお菓子をくわえる。琴子が笑う。「どっちに行くんだっけ?」と私が訊ねると、琴子は紙の地図を拡げてにらめっこを始める。今どこにいるのかが分からないのだ。琴子が地図をくるくる回し始めたので私は笑った。すると琴子はすました顔で「こんなもの必要ありませんの!」と地図を空に放り投げる。まったくその通りだと私はアクセルを踏み込む。視線の先には――

「……」

 雲の向こうに何かが見えた気がしたけれど、それがなんだか分かる前に目が覚めてしまった。

 真夜中だった。

 ホテルはひっそりと静まりかえっている。カーテンを閉め忘れられ、月の光が降り注ぐ窓辺に琴子が佇んでいた。月を見上げている。その姿はうっすらと、外の景色を透かしている。

「眠れないの?」

「幽霊は元々眠りませんのよ」

 そうだった。寝起きで頭が働いてない。というかまだ半分寝てる。

「緋瑪」

「んー」

「今日はとても楽しかった。きっと、生きている間にもこんな楽しい日はなかった気がいたしますの。ありがとう存じます」

 終わったようなこと言ってるんじゃないよ、と私は思った。

「本番は明日だよ。明日は、寄り道しないで、岩手に……」

 睡魔が私を眠りに引き戻す。

「緋瑪、わたくしね……」

 だから琴子の言葉は最後まで聞き取れなかった。

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