5-2

みんみんじょわじょわとセミが鳴く。

(……夏ってこんなにうるさかったんだ)

 赤信号で立ち止まり、私はそんなことを思った。

 大通り、行き交う車の彼方にミニ蜃気楼といった趣のゆらぎが見える。

 そっけない灰色の庁舎が並ぶ街の一角に一つだけ、煉瓦風の外壁で覆われた三階建ての小洒落た建物がある。県立図書館――今日の私と琴子の目的地だ。

「調べた結果お嬢様でも何でもない一般人だと判明したりして」

 信号待ちで私は、そんな軽口を叩いた。

「そんなことありませんわ! わたくしれっきとした上流階級の一員ですの」

「断言できるの? 記憶もないのに?」

「ぐぬぬ」

「結果次第で晩ご飯決めよう。本物のお嬢様だったら琴子のリクエストなんでも聞いてあげる」

「それは楽しみですわ」

「言ったね? あとから泣いても許してあげないよ」

 今日の私は普段よりも饒舌だという自覚がある。

 機嫌がいい――わけではなく、むしろその逆。

 緊張しているのだ。死ぬほど。

 何ヶ月ぶりの外だろう? いや毎日毎日外には出てたけど、人気も失せた時間にそそくさとスーパー行って秒で帰ってくるだけか、早朝のジョギングも基本は人気を避けたルートでしかもすれ違う人に挨拶されないように全力疾走だったし誰か来たら逃げてたし。

 ところが今日は、人を――人の視線を避けるわけにはいかない。

 胃がギュルギュルしそうなプレッシャーを、私は軽口でごまかしているのだった。

 信号が変わる。琴子がすーっと流れていく。私は琴子に一歩遅れて横断歩道を渡り、県立図書館に入った。

「いらっしゃいませ」

「っ」

 入った瞬間声をかけられて軽くビビる。軽くだよ? 回れ右しそうにはなってない。

「取って食われはしませんわよ」

「わ、分かってる」

 私は受け付けを無視して閲覧室に、逃げるように早足で入った。

 昨夜、琴子の素性を調べることになった私は、とりあえずインターネットで検索をしてみた。同名のアニメキャラが大量にヒットした。まあそうなるよね、と思っていたとおりの結果だった。琴子は世間に知られるような有名人ではなかったとは分かったけれど、それだけだった。

 次に思い付いたのが新聞の検索だ。琴子の死がなにかの事件、事故の結果であるなら、新聞記事になっていたかもしれない。けれど、大手の新聞社が提供している検索サービスではそれらしいものはまったくヒットしなかった。少なくとも琴子の死は、全国ニュースになるような大事件ではなかったのだろう。

 では地方紙はどうだろう?

 それを調べるために、私たちは県立図書館にやってきたのだった。 

「まあ、こんなにたくさんの本が」

 と琴子が目を輝かせ、棚の方へとふらふら飛んでいこうとする。

「遊びに来たんじゃないからね」

 さて、新聞は――と見回すと、入ってすぐのところに専用のコーナーが設けられていた。棚には全国紙と地方紙、合わせて六種類ほどの新聞が積まれている。それと数台のパソコンがあって、インターネットでは検索できなかった地方紙のデータベースもここでは閲覧できるようになっていた。これはありがたい。大昔の刑事ドラマみたいに古新聞の縮小版と格闘しなくても済む。

 喜び勇んで駆け寄った私だったが、しかし、『ご利用は係員まで』の貼り紙に阻まれた。くっそ。誰とも口を利かずに用を済ませられると思ったのに。

 振り返って案内カウンターを見る。弱気が這い上がってきて固まってしまう。

 逃げ帰りたい。

(けれどここまで来てそれはどうなの? 自分から言い出したことでしょ)

 己を叱咤し、それから私はふわふわ浮かんでいる琴子を見た。

 ――無理はしなくてもいいのよ?

 琴子がそんな顔をしている気がして、逆に私は奮い立った。やってやるさ!

「あっあっあっあのすすみません」

 初舞台でもこうはならなかったというほどの噛みっぷりで、それでも私は図書館職員に話しかけた。私の異様な雰囲気に職員は一瞬表情を引きつらせたけど、すぐに接客用の笑顔を取り戻して、

「はい。何かお困りごとですか?」

 と声をかけてきた。

「あっ、はい。いえ。あ、あの」

「落ち着いて緋瑪。何も取って食われはしませんわ。深呼吸ですわ」

 すーはーすーはー。よし。

「し、新聞を調べたいんですけど。昔の」

「ああ、はい。パソコンのご利用ですね」

 職員が後ろの棚からパスワードの書かれたカードを出してくる。

「ご利用は一回二時間までです。終わったらこのカードはこちらに返却してください」

「は、はい」

 私は利用カードを、機密文書かなにかのように慎重に受け取ると、逃げるように新聞検索コーナーに戻った。

「ふーーーーーっ」

 全身がしぼむような息をつく。疲れた。マジで疲れた。

 でも、できた。自分から話しかけ、見られても逃げずに応対することができた。

「よく頑張りました」

 と琴子があやすように言い、頭を撫でる真似までする。屈辱!

 大仕事を終えたような気分だったけど、本番はこれからだ。

 地元の新聞社との提携によるデータベースは予想していたよりもずっと優秀で、一九五〇年頃から現在までの、全ての記事の見出しと本文が検索できるようになっていた。

 昨日ネットでやったように「三上琴子 死亡」と打ち込み、検索ボタンをクリック。

〈検索結果 0件〉

「あー」

 それなら違う検索ワードで――と思ったが何も思い付かなかった。

 琴子について分かっていることは名前と、すでに亡くなっていることだけ。これ以上調べる手がかりが何もない。

「どうしよ」

 もっと昔の新聞になら載っているんだろうか。

 もう一度勇気を出してカウンターで訊ねてみたものの、現存する新聞は全てデータベース化されているとのことだった。琴子が第二次世界大戦以前、あるいは戦後間もなく亡くなっているのであれば、その記録は消失している。調べようがない。

 ただ、これは単なる私の勘なんだけど、琴子はそこまで昔の人ではない。ものの考え方とか、そんなに古風には感じないし。

 手詰まりになった私は、やけっぱちで「琴子」とだけ入力してみた。

 すると十数件の記事がヒットして「おおっ!?」と思ったけど、半分はどこかの女社長さんで、もう半分は砲丸投げの県大会で活躍した高校生だった。どちらもここにいる琴子のことではないのは明白だった。

「……ごめん」

 大見得切って「調べてあげる」なんて言ったくせにこの様だ。

「謝ることではなくてよ。そもそも、たいして期待していませんでしたし」

 そうは言っても少しは期待していたはずで。実際琴子は気落ちしているように見えた。私は申し訳なさで一杯になる。

 けれどもここでできることはもうない。

 カウンターに無言で利用カードを返し、帰ろうとすると琴子が側にいなかった。

 見回すと、琴子は近代文学の棚の前に浮かんでいた。

「帰るよ?」

(まさか借りて帰りたいとか言わないよね)

 そういえば来た直後も蔵書に興味を引かれていた。閃いた。

「あ、琴子さ、もしかして入院してたんじゃない?」

 読書イコール入院中の暇つぶし、という安直な発想だけど、これが正解じゃないかしら。琴子の肌の白さや手足の細さも、入院患者を思い起こさせるし。

「入院……」

 琴子はこめかみに指を当てて考え始めた。

 私は固唾をのんで見守る。

「……思い出せません」

「うーんダメか。でもこの線は探ってみる価値あると思わない?」

「いつ何の病気で入院していたかも分からない患者について、市内の病院をしらみつぶしに聞いて回ると?」

「うっ」

 考えるまでもなく無理。プライバシー保護を理由に教えてはくれないだろう。

 そもそもどう聞けばいいんだ。「私に取り憑いている幽霊の素性が知りたいんです? 間違いなく正気を疑われるし、下手したら入院させられし、その前にお巡りさんだって呼ばれる。いろんな意味でこの線は危ない。

 結局、丸一日使って何の成果もなし。

 私はすっかり意気消沈して図書館を後にした。

 図書館前の交差点で、来たときと同じように信号待ちをしていると、

「ありがとう存じます」

「何いきなり。嫌味?」

 私が怪訝な表情を向けると、

「心外ですこと」

 と琴子は頬を膨らませ、それからふわりと微笑んだ。

「わたくしのために心を砕いてくださった。そのことへの感謝ですわ」

「…………ん」

 今日も日差しは地獄のように暑く。

 今日も変わらず幽霊に取り憑かれている。

 悪い気はしなかった。


    †


 カッと空が輝くと、窓に張り付いていた琴子が、

「きゃあっ!」

 と悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 二秒ほどでドン! ゴロゴロゴロゴロ……と建物自体を揺るがすような重低音が響いてくる。それが収まると、ドドドド、ザアアア、と水滴が屋根や窓を叩く音。

 今日は朝から、昨日までの天気が嘘のような雷雨になった。

 関東直撃が予想され、数日前から警戒を呼びかけられていた台風ははるか東にそれ、しかし広い地域に大雨と暴風とをもたらしたのだ。

 しゃがみ込んでいた琴子が顔を上げ、恐る恐る窓に張り付く。そして、

 カッ!

「ひゃああ!」

 ――また頭を抱えてしゃがみ込む。

「子供か」

 長年幽霊をやっていたので老成している――少なくとも私よりは精神年齢が上だと主張している――はずの琴子だけど、ときどきこんな風に見た目より幼い行動をとることがある。

(いや、ときどきでもないか)

 気品あふれるお嬢様然としていたのは最初のうちだけで、近頃の琴子は単に小生意気なお子様にしか見えないことの方が圧倒的に多い。

「そんなに怖いなら見なければいいのに」

「目をそらしていたら不意打ちされて余計に怖いじゃないの」

「見張ってたところで雷の速度じゃ不意打ちされるんじゃないかな……」

「緋瑪は怖くありませんの?」

「私?」

 鼻で笑いそうになった。

「んー。雷自体はどうでもいいけど、停電は怖いなあ」

 そう言う私の眼前にはパソコンのディスプレイ。ブラウザを開いてはいるけど、検索ボックスには何も入力されていない。

 図書館では何の成果もなかったけど、私はまだ諦めていない。

 諦めてはいないけれど、しかし、完全に手詰まりだった。

 何しろ手がかりがなさ過ぎる。

 名前と見た目だけでは、どんな名探偵だって琴子の素性を明らかにはできないだろう。なのに私は探偵どころかミステリファンですらない。

 琴子が何か思い出してくれでもしないと、手の打ちようがないのが現実だった。

 そしてその琴子は――

「きゃあ!」

 ゴロゴロドーン!

「今の大きかったですわね!」

 ――これだもの。

 まあ、この様子なら雷で死んだってことはなさそうだけど。



 日が暮れると雨風は大分弱まった。台風は彼方に過ぎ去ってくれたらしい。けれども気温はまだ低いままだ。買い出しのためにアパートを出た私は、むき出しの腕をさすって身を震わせた。

「寒っ!」

「寒暖差で体調を崩しそうですわね」

「琴子には身体ないでしょ」

「あなたの心配をしているの」

「それはどうも」

 そんな会話をしながら一度部屋に戻り、カーディガンを羽織る。

「こうも寒いと暖かい汁物が食べたくなるね。うどんとか蕎麦とか。あ、水餃子もいいなあ」

「あ、それならわたくし、ひっつみが食べたいですわ」

「なにそれ? スーパーに売ってるもの?」

「なにって、ひっつみはひっつみですわ。白いお餅みたいな……あれ、何でできているのかしら?」

「私に聞かれても」

 聞くより調べた方が早そうだ。私は歩きながらスマホをポチポチ。

 ひっつみとは小麦粉を水で捏ねて一口サイズにちぎった、お餅のようなものだった。それを季節の野菜や肉、魚介などと一緒に煮込んだ料理もひっつみと呼ぶ、らしい。

「あー、なるほど、ほうとうの丸い奴って感じ」

 検索結果に表示された無数のレシピは具材がバラバラで、何を入れても構わない、地域や家庭によって無限のバリエーションがあるのもほうとうっぽい。

「ほうとうって何ですの?」

「ええっと……味噌煮込みきしめん?」

 山梨県民が聞いたら微妙に怒りそうな説明である。

 ――と、私はけっこう重大なことに気付いた。

「琴子はひっつみをどこで知ったの?」

 琴子は首を傾げた。

「普通のお料理ではなくて?」

「岩手の郷土料理だってさ。もちろん岩手以外じゃ食べられないわけじゃないと思うけど」

 少なくとも私は今日の今日までそんな料理があることを知らなかった。普通の――誰でも知ってるメジャーな料理ではないのは確かだ。

「もしかして、琴子は岩手の人なんじゃない?」

「わたくしが……?」

 思っても見なかった、というように琴子は目をぱちくり。

 他に何かないだろうかと、私は岩手の郷土料理を検索してスマホに表示する。

「琴子、見て。何か見覚えとか食べ覚えのあるもの、ない?」

「ええっと……あ、これ! これ知ってますわ! 大好き」

 びしっと琴子が指差したのは「小豆はっとう」という、平打ちうどんに小豆汁を絡めた、お汁粉のような料理だった。

「とっても甘くてね、冬はホットで、夏は冷やしても素敵ですのよ」

 やっぱり、と私は思った。琴子は岩手の出身なのだ。

 そして次の瞬間、自分でも驚くようなことを口走っていた。

「行ってみない? 岩手。そしたら何か思い出せるかもしれない」

 私の提案に琴子は驚き、しばらく思案して、

「……岩手と言っても広うございますわよ」

「そこはちゃんと考えがあるんだって。ま、話はひっつみ食べてからにしよう」



 小麦粉を捏ねるのは生まれて初めてだった。

 勝手も分からないまま捏ねる。捏ねる。ぐにぐに捏ねる。だんだん楽しくなってきた。今度パンでも作ろうかしら。なんて思いながら生地を雑にちぎって鍋に投入。これまたいい加減にぐつぐつ煮る。

 ネットレシピを頼りに完成させたひっつみが今夜の夕食。

「どう?」

 ぷるぷるもちもちの食感が面白い。初めて作ったにしてはなかなかいい感じだと思ったのだけれど、琴子の反応はいまいちだった。

「おいしい……のですけれど」

「これじゃない、って感じ?」

 琴子が遠慮がちにうなずき、私は「そうだよねえ」とにんまりする。

 微妙評価なのになぜ嬉しそうなのかと琴子は訝しんだ。

「郷土料理なのよ」

「で、ございますわね」

「どういうことか分かる?」

「もったいぶる人は嫌われますわよ?」

「ごめんごめん。レシピ見てて気付いたんだけど、ひっつみって具がバラバラなのよ。地域によってかなり違うものを入れてるみたいなのね。ということは何を入れるかで、岩手のどこの人間なのかが絞れるはず」

 とはいえひっつみだけではさすがにピンポイントの特定は不可能だろう。

 けれど琴子は「小豆はっとう」も知っていた。こちらはシンプルながらひっつみ以上にバリエーションが豊富で、うどんに小豆を載せただけのような地域もあれば、水気たっぷりでお汁粉状態の地域もある。入れる麺の太さや長さも千差万別。

 琴子が知っている形式の「ひっつみ」と「小豆はっとう」――その両方が食べられている地域となれば、これは相当に絞れるだろう。

「……というわけで、琴子には自分が食べていたひっつみと小豆はっとうの特徴を、なるべく細かく挙げて欲しいんだけど」

「なるほど」

「じゃあまず、ひっつみの具なんだけど」

「あらあらせっかちさんですこと。食べながらメモを取るのはお行儀が悪くてよ」

 勢い込んでスマホを取り出した私を、琴子はそう言ってたしなめるのであった。



 琴子から聞き出した情報を元に、私はその形式のひっつみと小豆はっとうが食べられている地域を探した。とはいえ郷土料理地域差データベースなんて便利なものがあるわけではなく、料理店のホームページやレシピサイト、岩手県民と思しき人のSNSの書き込みなどを一つ一つあたっていく地味で根気のいる作業だ。

 がんばった結果、三日ほどで、一市二町にまで絞り込むことができた。

 この中のどこかに、琴子が住んでいた街があるはずだ。

「すごいわ緋瑪、まるで探偵みたい」

「いやまだ特定したわけじゃないから」

 現状、候補の三地域は南北にかなり離れていて、全部回るには実質岩手縦断と変わらない距離があった。

 もう少し絞り込みたい。ここで私はグーグルマップを使うことにした。

 現地の様子を琴子に見せ、もしも見覚えのある景色があれば、当たり。そこが琴子が住んでいた街である。

 見つかるかどうかは半々――よりはかなり分が悪いだろうなと私は感じていた。

 何しろ琴子には生前の記憶が全くないのだから。

 けれど、それでも琴子は、郷土の味を覚えていた。

 であるならば、景色の一つくらいは覚えていても不思議ではない。

 覚えていて欲しい、と私は思った。

 いや、願ったのだ。

 琴子に、故郷との繋がりが残っていて欲しいと。

 そして――

「あ……」

 観光客がアップロードした風景写真を見て、琴子は声を漏らした。

 古びた石畳と玉砂利。錆の浮いた鳥居が逆光に浮かび上がる。神社は山の中腹にあるらしい。麓に広がる水田が朝日を浴び、金色の海のように広がっていた。

「……ここ、知ってますわ」

 私はキャプションに目を走らせる。『光咲市山端町、織幡神社にて撮影』

 ――願いは、通じた。

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