第四話 逆襲のおひめひめ

4-1

 私はトイレで叫んだ。

「もう我慢ならん!」

 力強く。ただし、琴子に聞かれないように、心の中でだけ。


    †


 私の悲惨な腕前を思い知った琴子はあれ以来二度と料理を作れとは言わなかった……ならよかったんだけど、実際はそうじゃなかった。

「一度の失敗がなんですか。人間誰しも最初から上手くはできないもの。ええ、次はきっとうまくできますわ」

 琴子はそう言って微笑んだ。

 もちろん優しく励ましたのではない。この言葉の意味するところは、「わたくしのお友達がお料理の一つもできない、淑女の恥さらしであってはなりませんわ」であり、「やれと言ったらやれ。異論は許しませんことよ」である。

 ああなんというブラックお嬢様だろう!

 私としてはもう料理はこりごりであり、食材を無駄にするのは心苦しいし面倒くさいし農家の皆さんに申し訳ないしかえってまともな食事から遠ざかるし面倒くさいから出来合いのものを買ってきた方がいいと強く訴えたい。

 実際訴えた。却下された。お嬢様特有ののらりくらりした受け答えで。

「そこまで言うなら仕方ありませんわね」という返事は一度も聞けなかった。

 琴子だって気絶しそうなカレーを味わったはずなのに、ある意味たいした根性だ。

 そんなわけで翌日からも三食自炊を強要された。

 私はフライパンを焦がし、お鍋を焦がし、焼き魚を燃やした。

 まあ自炊を強要されるだけなら許す。許せないけど許す。

 琴子の、私の生活への干渉はそれだけでは終わらなかった。

「前にも言いましたけれど、朝のお散歩に参りましょう」

 前にも言ったけどやだよそんなの嫌に決まってるじゃん。視線恐怖症でも通行人とすれ違うくらいなら耐えられるけど、朝の散歩って暇なお年寄りが話しかけてきたりするじゃない。みられるどころか声をかけられる! しかも相手はご近所さん。何度も顔を合わせる可能性のある相手だから無言ダッシュで逃げるわけにもいかない。

「やだやだ絶対やだ! 明るいうちから外に出たくない! 日にあたったら死ぬ!」

「幽霊のわたくしが平気なのに、生きている人が死ぬはずがないでしょう」

 と琴子は取り付く島もない。

「あなたはそうやって日に当たらず不健康に暮らしているから鬱々するのです」

「ぐうう……」

 追い詰められた私は逆転ホームランの奇策を思い付いた。

「分かったよ! いっそのこと散歩じゃなくてジョギングしてやる!」

 ちんたら歩いてるから話しかけられるのだ。全力疾走で駆け抜けてしまえばご近所さんに捕まる可能性はなくなる。必殺「捕まる前に逃げろ」作戦である。

「ジョギング」

「超健康でしょ! 文句ある?」

「滅相もない」

 そんなわけで早朝から疾走するという日課、いや苦役が生活に加わった。

 それから掃除。あれだけ徹底的にやったんだから、私としてはもう1ヶ月、いや半年くらいは放置したって余裕だろうと思うのだけど、琴子の見解はそうではなくて、「理想は毎日。それが無理でも二日に一度は」掃除機をかけて水回りを磨け。洗濯物も溜め込むな。

 こういうことは生活に必要なことだし誰でもやっている、というのは分かる。

 でも、それが監視付きとなったら全然違うよね。

 ここは刑務所ですか? いいえ自宅アパートです。

 ……余計悪いな。

 刑務所ならいつか娑婆に帰れるけど、自宅からはもうどこにも帰るところがない。

 ジョギングして料理して掃除してまた料理して……家事に相当な時間が取られてしまうわけだけど、午後からは手空きの時間がないわけではない。

 ただし自由になれるわけではなかった。

「この部屋には文化がなさ過ぎです」

 八月になると突然に、琴子はそんなことを言い出した。

 味気ない生活でどうもすみませんね。

「具体的には?」

「本が読みたいですわ」

「それはいい!」

 珍しく、というか初めて、私は琴子の要望を歓迎した。

 人間誰しも読書中は静かになる。まあ面白すぎて笑っちゃう場合もなくはないけど。琴子が読書に没頭しててくれれば、その間はあれこれ指図されることも、古いアイドルソングを聴かされることもない。静かな生活が戻ってくるはずだ。

「何が読みたい? 何冊でも買ってあげる」

「まあ! ありがとう存じます。それでは……」

 琴子は数冊の書名を挙げた。

「電書でもいい? 紙にこだわる?」

 スマホで通販サイトを開きながら私はそう訊ねた。

「デンショ? 鳩かしら?」

 分かってないようなので紙の本で頼んだ。

 頼んだ本は翌日には配送された。

「はい、どうぞ」

 と私は琴子が注文した本を座卓に並べる。

「では、これをお願いしますわ」

 琴子はけっこう古めの文庫本を指差した。

 うん?

「以前本屋さんで見かけて気になっていたのだけれど、ほら、わたくしこのような身の上でしょう? だから諦めていたのよ」

 琴子が期待の籠もった目で私を見つめる。

「さ、早く」

「えっと……」

 互いに首を傾げる妙な間があって、

「……読まないの?」

「……ページをめくってくださらないと」

「…………ああっ!?」

 琴子は幽霊である。物体に触ることはできない。

 つまり自分では本のページをめくれない。

 じゃあどうするのか。

 誰がめくってあげるしかないのである。

 つきっきりで。

 誰が? 私しかいない!

(ああああもう私のばかばかばか!)

 説明しなかった琴子が悪いのか、いや気付かなかった私が間抜けすぎるだけだ。

 しかし後悔してももう遅い。大賛成してしまった。

 本が読めると楽しみにしていた琴子の表情が曇っていく。今さら「面倒だからやっぱりなし」なんて言える雰囲気ではなかった。

 仕方ない。

 私は琴子の対面に座ると、座卓の上の本を開いた。手を離すと閉じてしまうので隅を押さえる。

「ありがとう存じます」

 と琴子は早速読書を始める。

 見開きを読み終えると、

「次のページをお願いしますわ」

 ぺらり。

 またしばらく微動だにせず、

「次のページを」

 ぺらり。

「次を」

 ぺらり。

「次」

 ぺらり。

 すぐに琴子は「次」とも言わなくなり、次のページに行きたいときには、本の小口から内側に向けて指をスライドさせるようになった。生きてる人間がページをめくる動作のように。私はそれに合わせてページをめくっていく。

「そんなに面白いの?」

「……」

 意識は完全に物語の中に入っているのだろう。話しかけても返事がない。

 ときどきため息や「あら?」「ああ……」という呟きが漏れるのみ。

 予想以上に没頭している。

 きちんと膝を折り、少しだけ前屈みで本を覗き込む姿勢。長い睫毛の下で、大きな瞳が文字を追いかけ上下に動く。

 琴子は私がいることなど忘れてしまったかのように、本から顔を上げない。

(黙ってるとほんと美少女)

 認めるのは極めて癪だったけど、やっぱりこの子はとても綺麗だ。まるで物語の登場人物のように。

 色素の薄い、やわらかそうな琴子の髪は、毛の長い猫を私に連想させた。気ままで自分勝手なところも猫っぽい。ブラッシングしてみたいな……なんて考えてしまって、私はうろたえた。

 琴子は私の動揺に一切気付かず読書に没頭している。

 定期的なページめくりの催促。小休止を入れようという気配もない。気付けば読書を始めてから一時間以上が過ぎていた。本を押さえる手がだるくなってきた。

「ねえ、ちょっと休みたいんだけど……」

 琴子は無反応。ページをめくれという合図だけはしてくる。

 本を見ると残っているのは二割くらいか。多分クライマックスにさしかかっている。ここまで来たらラストまで一気に行きたいのは分かる。私だってそうするし。

 だから待ってあげることにした。うん。優しい私。いや決して読書を中断させられたら琴子がキレるかもと思ったわけではなく。純粋な善意だから!

 ところが別の問題が生じた。

 それもとびっきりのっぴきならないやつが。

「……あのさ、トイレ行きたいんだけど」

「……」

 口に出したらますます行きたくなった。けれど琴子は無反応。

「聞いてる?」

「……」

「ねえ。トイレ。このままだとお嫁に行けない的な惨事が起こりそうでお嬢様的にはご友人が粗相するのはいかがなものかと存じたりしないのかなっていうかちょっと本気でピンチなんだけど」

 返事はページめくりの催促だった。

 もう限界だった。わたしは本から手を離してトイレに走る。

 抑えを失った本が勝手に閉じて、琴子が、

「なにをなさいますの!」

 と悲鳴を上げた。

「今いいところでしたのに!」

「こっちはやばいところなの!」

 トイレに駆け込むドアを閉めるのももどかしく蓋をあげてジャージを下ろ、

「あ」



 琴子は謝ってくれたけど、それで済む問題じゃない。

 二十四歳にもなってあんな……。ああっ! 思い出しただけで死にたくなる。

 最早これは人としての尊厳の問題、そう、私は尊厳を傷つけられたのだ!

 それでもまあ、琴子が本当に申し訳なく思ってくれたのなら、「もう我慢ならん!」とまではいかなかったと思う。

 一応の謝罪のあと、琴子はこう言ったのだ。

「……でもね、もっと早くおっしゃってくださらなかった緋瑪にも責任はあると存じますの」

 言ったよ! 聞いてなかったの誰だよ!

 事ここにいたって私は悟った。

 琴子が「お友達」なんて言うのは口だけだ。

 あいつはやっぱり悪霊で、私のことをメイドか何かだと、いや都合のいい家電か何かだと思っているのだ。

 その証拠にあのあとも一切しおらしくなることはなく、「読書のお供にBGMをかけてくださる?」だとか、「今晩は何かスパイシーなものが食べたいですわ」だとか、当然のように要求をしてきている。

 冷静に考えるまでもなく、ここは私のアパートであり、私は琴子になんの負い目もない。むしろ私が見つけてあげなければ、琴子は今でもひとりぼっちでさまよっていたわけで。私は琴子を孤独から拾い上げた恩人みたいなものなのだ。

 その恩人に対して恩を返すどころかわがまま放題して迷惑をかけまくり、あまつさえお漏ら……尊厳まで傷つけるとは断じて許されることではない!

「もう我慢ならん!」と(心の中で)叫ぶのも当然だった。

(だいたいさ、勝手に押しかけておいて理想のライフスタイル押しつけるってなんなの!? 極悪過ぎない!?)

 かくして私は決意した。

 必ず、かの邪智暴虐の霊を除かなければならぬと。

 けれど私は除霊が分からない。視線恐怖症のニートだし。霊や怪異とは無縁に生きてきたし。

 琴子が見えるということは霊能力的なものはあるんだろう……けれど、意識して使っているわけではないし活かし方も分からない。今から修行をしたら除霊ができるようになるんだろうか。とてもじゃないがそんな気はしなかった。だいたいああいうのって長いことお寺とか山とかで修行しなくちゃいけないんじゃなかったっけ。それじゃ解決は何十年後になるのか分からない。

 そんなに待ってられない。私の堪忍袋はもうぶち切れてるのだ。

 今すぐ琴子をどうにかしたい。

 方法は、すぐに思い付いた。

 あとはやり方だ。

 計画には一片のミスも油断も許されない。

 私はじっくりと作戦を練った。

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