3-2

 それは七月の、最終日のことだった。


「……またこれですの」

 琴子はいきなり言った。

 普段のお嬢様然とした婉曲な物言いではなく、どストレートに。不満丸出しで。

「飽きましたわ」

「何に?」

 ここでの生活に飽きたのでどこかに行く――ということだったら私は諸手を挙げて喜んだだろう。お祝いに何でも買って上げちゃうしオールナイトカラオケ大会にだって付き合う。いざそのときには万歳三唱して送り出す所存である。

 けれど、悪霊が一度取り憑いた相手(つまり私)を「飽きたから」なんて理由で解放してくれるなんて、そんなことはもちろんなかった。

「これです」

 琴子が指差したのは、私の手の中のカップ麺。今まさに外装フィルムを剥がそうとしているそれだった。

「ええ、好きでしょ? おいしいおいしいって言ってたじゃん」

 罪の味とかそんなことも言ってた気がする。とろけた顔で。

 私がそう指摘すると琴子は一瞬、「ぐぬっ」と喉を詰まらせた。

「そうは言っても限度というものがございます。菓子パンとカップ麺と半額お弁当しか出てこないではないの。栄養バランス的にもいかがかと存じますし、たまには違うものを食べたいとか、思いませんの?」

「うーん」私は考えた「なくは、ない……けど……」

「住環境は改善したのですから、食生活も改善いたしましょう」

「うーん」

 私が乗り気じゃないのを見て取ったか、琴子は子供のようにむくれた。かと思ったら突然優雅な笑みを称えて、その急変に嫌な予感を覚えた。

「話は変わりますけれどおひめひめ」

「その呼び方やめてって言った」

 抗議する私を琴子は当然のように無視。

「お風呂をご一緒して気付いたのですけれど、あなた、脇腹のあたりが少々……」

「うっ」

 うめく私。鬼の首を取ったように微笑む琴子。

「あら。そういう反応をなさると言うことは、自覚はございますのね」

 ある。ありすぎて目を背けたくなるくらいにある。

 以前の私は連日芝居の稽古とアルバイトに明け暮れ、体力作りのトレーニングも欠かさなかったのですらりと引き締まった体型をしていた。

 それが今や二の腕はぷるんぷるんだし腹筋は見えなくなったしジャージのゴムにお肉が乗りそう……見栄張りました! ちょっと乗ってます。引きこもってろくに動かず、不規則な生活をして高カロリーなものばかり食べていればそりゃそうなるよねって。最後に体重計に乗ったのはいつだったか。

「食生活改善、いたしましょう?」

 その必要は認める。認めるんだけど。

 視線恐怖症があるので外食は無理だ。他人の目が気になって食事を味わうどころではなくなってしまう。かといってデリバリーは割高だし。そもそも外食ってどうしても高カロリーになる。かといって低カロリーなヘルシーメニューはだいたい高い。本人の前に財布がダイエットしてしまう。

 となれば残る手段は一つなんだけど……。

「私、料理なんかできないよ」

「覚えればいいだけです」

「だけって」

「わたくしが指導いたしますわ」

「材料もないし。せめて明日からにしない?」

 明日になったらまた何やかんや言い訳をして逃げよう――そんな私の浅はかな思惑を見抜いてか、琴子はじっと私を見つめる。やめて、視線苦手なんだってば。

「善は急げ、という言葉がございますね」

「そ、そう? 初耳だなあ」

「……」

 琴子はにっこり微笑んだ。

 それから軽く手を広げて胸を開き、すうーっと息を吸い込む。

「わーっ! やめてやめて料理しますお料理大好きですだからカラオケ大会は止めて!」

 か弱い人間が悪霊に抵抗できるはずなんて最初からなかった。


    †


 近頃はどこもかしこも経費削減時短営業なんて風潮らしいけれど、それでも大手のスーパーは十二時ぐらいまで営業している。今の時刻はまだ八時を回ったばかりなので、「お店が閉まってるから諦めよう」ってわけにはいかない。

 渋々、本当に渋々、私はジャージのポケットに財布とスマホを突っ込んで買い物に出かけた。

 かたわらには当然、琴子がふよふよ浮かんでいて、何が楽しいのか微笑みながら鼻歌なんか歌っている。やっぱり古いアイドルの曲だった。

「もうちょっとボリューム落として」

 私は小声で訴えた。琴子はちょっと浮かれているように見えた。いや物理的な意味じゃなくて心情の比喩として。

「あらごめん遊ばせ」

「昔の曲が好きなの?」

 何となく訊ねると、琴子はさらに表情を輝かせた。

「あなたは歌がお好き?」

「んー別に」

「音痴ですの?」

「違うよ!」

 仮にも女優だったんだぞ? 得意じゃないけど音感はちゃんとしてる。

「わたくしは大好き。歌っていると、心の中のもやもやが全部吹き飛んで、すっきりとした気分になれますのよ」

「ふうん」

 生返事。幽霊にも心労ってあるのかな。仕事も学校も、病気もなんにもないのに。

「そうですわ! 今度一緒にカラオケに、」

「ごめんそれだけは勘弁して」

 そんなことを話している間にスーパーに到着。

 入店すると売り場にはバリエーション豊かな総菜が並んでいる。

「あのさ、わざわざ作らなくてもこういうもので十分健康的でバリエーション豊富な食生活が遅れると思うんだけど」

 ついでに私が作るよりも絶対おいしい。

 琴子はもちろん許さなかった。

「こういうものは時間のない方が利用するものです。あなたは時間はたっぷりございますでしょう?」

 琴子は単に事実を言ったに過ぎない。嫌味に聞こえるのは私が卑屈、あるいは今の生活に負い目を感じているからだろうか。

「で、何をお作りいたしましょうか? お嬢様」

「あら、あなたが食べるのだからあなたが食べたいものを作るべきではないかしら?」

「丸投げ! 自分が作れって言ったくせに!」

 思わず普通の声量で突っ込んでしまい、周囲の客が振り返った。端から見れば一人でいきなり文句を言い出した危ない人にしか見えないわけで、視線を浴びた私は恥ずかしさに顔を赤くし、恐怖で身を強ばらせた。

(ああもうなんでこんな目に遭わなきゃならないの!?)

 今すぐ逃げ出したい気持ちを怒りで何とか塗りつぶし、とにかく初心者でも簡単に作れるものを考える。

(鍋かな? 具と鍋の素入れて雑に煮るだけだし。ああでもこのお嬢様は出汁を取れとか言いそう。それにこの季節に鍋とか我慢大会じゃないんだから……)

 初心者料理の定番と言えばカレーだ。カレーを失敗する人はいない。よし、カレーにしよう。

 ジャガイモ人参タマネギお肉。カレーのルーを手にとって、ふといたずら心が湧いた。

「……辛いの平気?」

「わたくし? 大好物ですわ」

「ちっ」

「何ですのその舌打ちは」

 お子様舌を泣かせつつ自分だけおいしい思いをしてやろうという目論見が外れて悔しいの舌打ちだよ!

 というのは半分冗談半分本気。

 ともかく辛いのが平気なら妙な気遣いは必要なさそうでよかった。カレーはやっぱり辛くなくちゃね。

 ついでに朝食用の食パンと卵とレタスを見繕い、気分でヨーグルトもつけてお買い物終了。

 即帰宅。

「疲れた……」

「ちょっと行ってきただけでしょう」

「精神的疲労」

 影のように気配を消しての買い物でも疲れるのに、今日は琴子のせいで思いっきり目立って思いっきり視線を浴びてしまった。気分はもうなよなよだしお料理なんかしないで寝てしまいたい。けれどもそんなことをしたら琴子が暴れるし、何より自分もおなかが空いていた。

 袖をまくり、まずは米と水を炊飯器に投入。スイッチオン。米は実家から送られてきたもの。無洗米である。このぐらいなら以前はやっていたので何も問題ない。

 問題があるのは――それ以外の全部。

 調理器具自体は一通り揃っている。一人暮らしを始めた頃は、ちゃんと自炊しようという意気込みがあった。まあ一ヶ月ともたなかったけれど。

 買ってきた野菜を洗い、肉をパックから出す。まな板を用意する。

 最後に包丁を握ったのはいつ? そんな昔のことは忘れたよ。

「まあ何とかなるでしょ」



 何ともならなかった。

「くっ……この……っ! 逃げるな!」

 言うまでもなくタマネギは逃げない。つるつる滑っていくのは私の押さえ方が悪い。ついでに力の入れ方も悪い。道具の手入れなんかした覚えもない。

 切れない包丁に必要以上の力を変な角度でくわえるものだから、産地直送、新鮮でつやつやのタマネギは濡れたまな板の上をつるりと滑る。勢い余った包丁がまな板をズガァン! とぶっ叩く。その轟音たるや、焚き付けた琴子が青ざめて息を呑むほどだった。

 それでもどうにか刻み終える。角切りなのかくし切りなのか分からない。デタラメギリとしか言いようのない山ができあがった。

 続いて人参。

 タマネギの角切りができない人間が人参の短冊切りなどできるわけがなく、できあがったのは、残骸切りとでも呼ぶしかない無惨な物体だった。

「お肉……は最初から切ってありますわね」

 琴子が心底ほっとしたように息をついた。

 私も同じ気分だった。このぐにゃぐにゃ柔らかい生肉を自分で切るなんて絶対無理。下手をして自分の指を切り落とすのがオチだ。

 背後で炊飯器がピーピー鳴った。野菜相手の激闘に時間がかかりすぎて、ご飯が炊けてしまったのだ。

「ああ、もう」

 急かされる気分でお鍋を火にかける。油投入。十分にあったまったかどうかよく分からないまま具材を投入。順番なんて考えずに全部ドーン。本当なら先にお肉を炒めるんだけど。最初に確認した手順なんて頭から完全にすっ飛んでいた。

「うわっ! 熱っ!」

 油が盛大にはねる。慌てて鍋の蓋で自分を守る。

「緋瑪。混ぜませんと。火がまんべんに通りませんわ」

「そ、そんなこと言われてもわわっ! ひぃ!」

 悲鳴を上げながらお鍋に菜箸を突っ込んでかき混ぜる。何か引っかかってる。様子を見なきゃいけないんだけど油はねが怖くて蓋の陰から顔を出せない。

「琴子、見て。お鍋どうなってる?」

「お肉が焦げ付いてますわ!」

「ええっ!」

 剥がさなきゃ、と私は力を入れた。

 ごがっしゃぁん! と鍋がコンロから外れた。中身が三割くらい周囲に飛び出す。慌てた私は手で拾ってしまい、

「熱っ! ああ熱っ!」

 当然、やけどをしそうになる。

「もうやだー!」

 わーわーぎゃーぎゃー騒ぎながら具材を炒め、鍋に大量の水を注ぐと、ようやくお鍋が静かになった。

 ようやくほっと一息つけた。

 弱火で煮込んでしばらくするとお鍋からは野菜の煮える甘くて暖かい匂いが立ち上り始めた。

「そろそろいいかな」

 私はお鍋にルーを投入。混ぜ混ぜして溶かした――んだけど、すっかり溶かしてもカレーには全然とろみがなくて、カレーというよりカレー汁。カレー湯? 試しにちょっと味見してみると死ぬほど薄い。

「え? なんで? 分量通り入れたのに」

「どう見ても水が多すぎでしょう」

 言われてみるとなるほど確かにそんな感じ。

「どう見てもって、気付いてたんなら入れるときに言ってよね」

「あのときはわたくしも少々取り乱しておりましたし。緋瑪だって、入れている途中にお気づきにならなかったでしょう」

「う」

 不毛な責任の押し付け合……原因追及は後にしよう。今解決するべきはこの激薄カレーを食べられるようにすることだ。

「お湯を半分くらい捨ててルーを足せば……」

「いけませんわ。そんなことをしたらせっかくのお出汁も捨てられて、味気がなくなってしまいますわ」

「じゃあどうするの。煮詰めるとか何時間かかるか分かんないよ」

「ひとまずルーを足してみましょう」

 まあそれが無難か。私は残っていたルーを全部割って鍋に溶かし込んだ。けれどもやっぱり水っぽい。シャバシャバしている。

「もうルーがありませんわね」

 だから言ったこっちゃない。私に料理は無理なんだって。そう言おうかと思ったんだけど、できなかったことで得意になるのはなんか違うよなあとか、「失敗する人はいない」はずのカレーすら満足に作れないと認めるのはプライドが傷つくなあとか、そんなことを考えていたら天啓が降ってきた。

「足りないなら足せばいいんだ」

「緋瑪? だからそのルーがないから困っているのではなくて?」

「まあ黙って見てて」

 昔、大学の演劇部の合宿でカレーを作ったことがある。私じゃなくて先輩が。そのときもカレーが薄くて、先輩はソースとケチャップと、あと何種類かの調味料を入れてぱぱっとおいしいカレーに仕上げたのだ。

 ルーはないけど調味料ならいくらかある。

 私は冷蔵庫からソースと取って来てお鍋にドボドボ注いだ。ケチャップはないけどまあいいよね。

「それ、大丈夫ですの?」

「大丈夫大丈夫。前にもやったことあるから」

 ソース以外には何入れてたっけ? 塩胡椒振ってたのは覚えてる。振る。確か醤油も入れていた。そうそう、ソースと醤油で塩辛くなるから甘いものでバランスを取る。ハチミツが一番いいけどなければ砂糖でもいいんだっけ。

「ヨーグルトも買いましたわよね? あれ、隠し味にいいらしいですわ」

「なるほど。……で、こんなもんかな。どうだ!」

 あれこれぶち込みさらに少しばかり煮込むと、いい感じにとろみのついたおいしそうなカレーができあがった。

 いやあもしかして私天才なんじゃない? アドリブで鍋一杯を復活させるなんて素人の仕事じゃないよね。

「確かにいい匂い。あんなデタラ……豪快なことをしたのに信じられませんわ」

 琴子がちょっと失礼なことを言いかけたけど気分がいいので許す。

 とっくの昔に炊きあがっていたご飯をよそい、その上からカレーをかける。

 よくよく見るとお肉も野菜もちょっとばかり焦げているけど、本当にちょっとだけだ。全体としては十分、いや十二分においしそうなカレーライスが完成した。

「いやあ、面倒くさいとか苦手とかごねたけど、やればできるし楽しいもんだね」

「ね、よかったでしょう?」

 癪だけど同意せざるを得ない。

 テーブルに移動して、両手を合わせる。

「いただきます」

 琴子に期待を込めて見守られながら、スプーンを手に取りいざ実食。

 ぱくり。

「うっ」

「ぐげっ」

 私たちは同時に呻いた。

 口に含んだからには噛まないといけない。いけないんだけど口が動かない。

 押し寄せる酸味と塩味のハーモニー。いやこれは苦みか? 溶けたジャガイモのざらざら感は絶妙に気持ち悪く、何かゴミのようなものが混入しているのはニンジンの皮かもしかして。

 死ぬ気で噛みしめたお肉はゴムの食感。追いかけてくる辛みが舌をじんじん痺れさせる。にもかかわらず香りだけはまさしくカレーそのもので、そのギャップが味覚を激しく混乱させる。

 とにかく一口飲み込むと、世界がぐわんぐわん揺れた。

 有り体に言ってまずい。

「汚物ですわ!」

 汚物ってひどいな。でもまったく否定できない。むしろ全面的に同意。これを食べ物と呼ぶのは失礼だ。いや冒涜だ。何に対してか分からないけど。

 琴子が涙目で「やめてお願いもう食べないで」と訴えかけてくる。

「心配しなくてももう食べないよ! 私はまだ死にたくない!」

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