第三話 ホーンテッド・ハウスキーピング

3-1

 翌朝。

「……め、……ひめ……」

 誰かが私を呼んでいる。夢とうつつの狭間。

「緋瑪……」

 春風のように優しい声だ。お姉ちゃん? 私にお姉ちゃんなんていたっけ? いないけれど、いたらきっとこんな声。

 もうちょっとだけ寝かせて。なんだかひどく非現実的で疲れる夢を見たんだ。寝直したいの。

 私は夢想の姉にそう訴えた。すると、

「お目覚めになって、おひめひめ【傍点】」

「ふおおっ!」

 おぞましさに意識が一発で覚醒した。目を開ければベッドの上の虚空にふよふよと浮かぶ白いサマードレス。ツインテ四連ドリルの幽霊お嬢様。姉なんてものでは、断じてない。

「ごきげんよう」

 夢じゃなかった。

「……おひめひめはやめてって言った」

 私は寝起きの不機嫌さを隠さずに言った。

「そうでしたかしら」

 白々しく答える琴子は、今日も朝から気品にあふれている。

 カーテンの隙間からは突き刺すような夏の日差しが入り込んでいた。

「七時半!?」

 時計を見て私は目を見開いた。

 世間的にはまともな時間。やや遅いと言う人も多いだろう。すっかり夜型生活になってしまった近頃の私によっては深夜みたいなものだ。

 叩き起こされたので眠……くはなかった。ベッドに入ったのは確か十時前だ。睡眠は十二分に取れている。けれども、すっきり爽快な目覚めとはほど遠かった。

(……幽霊に叩き起こされて爽快なわけがないんだよね……)

 舌打ちしたい気持ちを抑えて起き上がる。ベッドから降りる。

 キッチンに行ってとりあえずヤカンを火にかけると、

「朝食は何にしますの?」

 ついてきた琴子が期待にあふれた眼差しでそう訊ねてきた。

「ベーコンエッグとトースト? それとも日本人らしくご飯とお味噌汁? わたくしは中華粥をご提案しますの」

「私はいつも、寝起きはとびきり苦いコーヒーと決めてるの」

 琴子は頬を膨らませた。

「そんなのつまらな……不健康ですわ」

「……あんた、自分が食べたいもの言ってるだけでしょ」

「そんなことありませんわ。朝は一日の始まり。朝食は活力の源。きちんと食べなくてはいけません」

「そんなこと言われても起き抜けに食欲湧かないんだよね、私……」

「では軽く運動をいたしましょう。町内を一周お散歩などしてくれば、ちょうどいい感じに目も覚めて、食欲も湧くと存じます」

「やだよ。明るいうちから外になんかでなくない。日にあたったら死んじゃう」

「幽霊のわたくしが平気なのに、生きているあなたが死ぬはずがないでしょう」

「やだ。死ぬ」私は強情に拒否した。「散歩に行きたいなら一人で行きなよ。別に二十四時間私と一緒にいる必要はないんだし」

 むしろ一人で行って欲しい。そのまま帰ってこないで欲しい。

「友人が不健康な生活をしているのは見過ごせませんわ」

「見過ごして」

「ダメです。どうしても嫌だというなら……」

 琴子はつっ、と顔を上げ、胸を開いて大きく息を吸い込む真似をした。

「分かった! 分かったからカラオケ大会はやめて!」

「よい心がけですわ」

 琴子はにっこり微笑んだ。笑顔の悪魔にしか見えなかった。

「でもさ、今の時間帯は勘弁して。昨日も言ったけど、ほら……」

 私は視線恐怖症だ。そして朝のこの時間は通勤と登校で人がめちゃくちゃ多い。そんなところにのこのこ出て行って無数の視線を浴びたら私は死んでしまう。生物的にじゃなく精神的に。

 それでも今すぐ表に出ろと言われたらどうしよう、と私は不安だったけれど、琴子は意外にあっさりうなずいた。

「そうですわね。こうも日差しが強くては日射病になりそうですし」

「日射……? ああ」

 すぐには分からなかった。熱中症の古い言い方だ。

(雰囲気が古風だからって言葉まで古くしなくてもいいだろうに)

 それはさておき。

「日差しが苦手って、幽霊だから?」

「いえ、生前身体が弱くて、夏場はよく倒れていたものですから」

「ああ」

 琴子の白い肌と細い手足は、確かにそんな感じがした。

「それで朝食は何にいたしますの?」

「? さっきも言ったけど朝はとびきり苦いコー、」

「何に、いたし、ますの?」

 天使のような笑みだけれど目はまったく笑ってなかった。

 そうはいってもこの部屋にはお米も卵も食パンもないから、琴子の要求するような優雅な朝食は用意できないのである。

「これでいい?」

 そういって私は備蓄用のカップ麺を見せた。濃厚豚骨背脂とか健康に悪そうな文字が躍っている安っぽいスチロールのカップを、お嬢様は不満そうに、けれども興味津々に見つめている。

「まさか食べたことないとか言わないよね?」

 蓋を開け、お湯を注ぎながら訊ねる私。

「どうでしょうか」

「いや分からないことないでしょ」

「それが分かりませんの。わたくし、生前の記憶を失っているものですから」

「全部?」

「名前はかろうじて覚えていますわね。けれどそれ以外のことはほとんど……」

「……」

 幽霊の上に記憶喪失。

 私はコメントに窮したけれど琴子はあっけらかんとした様子で、カップ麺に期待の籠もった眼差しを向けている。身の上より食い気か、このお嬢様は。

 時計を見るとだいたい三分経過していたので、まあいいやと私は雑に麺を啜った。

「これが背脂……何という背徳的な……」

 幽霊お嬢様はご満悦であり、私は朝から胃がもたれた。



 食べ終えたカップ麺の残り汁をシンクに流し、ゴミを捨てようとしたらキッチンのゴミ袋は一杯だった。仕方ないので部屋のゴミ袋に放り込み、私は定位置となっているパソコンデスクに着席した。惰性でパソコンのスイッチを入れる。

 すると琴子が顔をしかめた。

「何?」

「ラーメンの臭いが少々……」

「そのうち消えるでしょ」

 ぞんざいに答えると、琴子の顔はますますしかめられた。

「この部屋、ゴミが多すぎではありません? というか、散らかりすぎです」

「んー」

 私は部屋を見回した。うん、まあ、確かに散らかってるけれど。

「……一人暮らしの部屋なんてこんなものじゃない?」

「あり得ません!」

 琴子の怒声が私の頭の中で炸裂した。

「実は昨日から気になっておりましたのよ。最後にお掃除をしたのはいつでございますの? ああもう信じられませんわ。あなた本当にうら若き乙女ですの?」

 ブルブルと身を震わせながら言う琴子。

「別に! ちょっと汚れてたって! 死には……しないしっ!」

 頭の中で響く声に負けないように私は言い返した。

「そんなことより声、ボリュームちょっと下げてお願いだから」

「お断りですわ!」

 ますます大きくなる琴子の声。

「ゴミも溜め放題。汚れ物も脱ぎ散らかしてそのまま。あまりにもひどい。ひどすぎますわ。あなたが平気でもわたくしは耐えられません!」

「ど、どうしろと……」

「決まっていますわ。お掃除です」

「掃除」

「ええ、徹底的なお掃除です」

 誰が? 断ったらどうなるの? という愚問を発しないだけの分別は私にもあった。



 引っ越し直後の時期に新生活に胸を躍らせてながら買った掃除機は当時のキラキラした気分を反映して、でかくてハイパワーでとにかく重い。

 この重たさに嫌気が差してだんだん掃除をしなくなったんだよなあ、なんて思い出しながらガーガー掃除機をかける。四ヶ月弱の引きこもり生活ですっかり体力が落ちてしまっているようで、重たい掃除機を動かしているとあっという間に息が上がった。

 換気のために窓を全開にしているので外の熱気がガンガン入り込んできて、流れる汗に舞い上がった埃が絡まってべたべたと気持ち悪い。

 もうやだ帰りたい。自宅アパートだけど。

 そして泣きそうな私に琴子は容赦なかった。

「そこ、埃が残っていますわ」

「ああっ! 輪ゴムまで一緒に吸い込んで!」

「よくもまあこんな不衛生な部屋で寝起きしていましたわね。まったく、信じられませんわ」

 私は掃除機を握る手に力を込めた。

(この小うるさい幽霊を吸い込んでやりたい。ゴーストバスターズみたいに!)

 しかしウルトラ吸引力のサイクロン掃除機も霊体には無力だった。

 徹底的に、という琴子の宣言は嘘でも誇張でもなく、本当に徹底的だった。テレビや机も動かして裏に溜まっていた埃を全部吸い取り、カーペットは庭に出して大きなゴミを払った後に掃除機がけ、それから汚れの目立つ部分を洗剤でクリーニング。道具がなかったらそれを言い訳にできたのに。誰だ、掃除用具を死ぬほど買い込んで洗面台の下に備蓄していたのは。一人暮らしを始めた直後の私だ。おバカ。

 死ぬ思いで掃除機をかけ終わり、家具の配置を元に戻した。

 確かに何かこう、見違えるように空気が澄んでいて、癪だけど気持ちいい。

「これでどう? 文句ないでしょ?」

 家具の裏まで掃除機をかけ、カーテンレールや壁掛け時計、蛍光灯のカバーまで磨いた。年の瀬の大掃除もかくやという大仕事を成し遂げたのだ。どんな口うるさい小姑も文句の付け所はないはずだ。

「まあよいでしょう」

 お墨付き得て私はほっとした――けれど、それはかりそめの安堵だった。

「ではお次はキッチン」

「うえっ!?」

 悲鳴を上げる私を、琴子は冷ややかに見下ろす――本棚の上に埃が残ってないか、宙に浮いてチェックしていた。

「そっちはまた今度でよくない?」

「よくなくてよ。そう言ってのらりくらり逃げるおつもりでしょう。キッチンが終わったらお風呂とトイレ。窓も磨きたいですわね。こうも曇っていては心も曇るというものです。ああ、それからエアコンの埃取りもありましたわね。それから植え込みが少々伸びすぎのようですし……」

「勘弁して……というか植え込みのことは管理会社に言って……」

 トイレ掃除が終わった頃には日はとっぷり暮れていた。

 早朝に起こされた上に一日中労働したおかげで私は疲労困憊。もう何を言われても動けないほどにくたびれ果てていた。

「普段から綺麗にしておけば、こんな苦労はなさらずともいいのに」

「うっさい」

 ぼやいて、私は空になったトイレクリーナーのパッケージををゴミ袋に投げ込んだ。

「なかなかいい手際でしたわね。家具の移動ですとかもっと手こずって、全部が終わるのに、二、三日はかかるかと予想してましたけれど」

 それは演劇で鍛えられたから。特に高校だ。お芝居の上演用に作られてはいない体育館で、セットや小道具大道具をステージ袖の限られたスペースから遅滞なく出し入れするためには事前の段取りがとても大事なのだ。

 終わったと言っても掃除だけで、たまっている洗濯物はそのままだけど、今から洗濯機を回すとご近所騒音トラブルになるので明日でいいだろうと私は提案。琴子もすんなりうなずいた。ゴミ出しは明後日がゴミの日なのでこれも明日の夜。

「じゃあ、今日はこれで終わりでいいよね」

「ええ。下準備としてはこんなものですわ」

「下……準備?」

 血の気が失せる私。

 得意げに人差し指を立てて講釈を垂れる琴子。

「部屋が汚れていないのは快適な生活の最低条件に過ぎません。理想の部屋作りはこれから始まるのです。わたくし、自分のお部屋というものはただいるだけで心が安らぎ、癒やされる……そんな場所でなければいけないと存じております。その観点からすると、このお部屋は、少々飾り気が足りません」

「いやここ私の部屋だからね?」

「ルームシェアをしているのですから、わたくしにも口を出す権利はございますでしょう」

 それはつまり、琴子の好みに合うようにインテリアも変えろと言うことか。

 お嬢様の理想のお住まい――瀟洒なカーテンだとかよく分からん絵画だとか毛足の長い絨毯だとか天蓋付きのベッド! なんかを想像して私は青ざめた。

「そんなお金ないよ!」

「何を想像したのか存じませんが、ちょっとした小物など飾ってみてはいかが? というご提案ですのよ」

 そう言われて緋瑪はほっとし、けれど、

「例えばそう……ベッドにかわいいお人形をお並べしてみるとか」

 西洋人形の群れに見つめられながら眠る様は、ちょっと想像しただけでもかなりホラーだった。

「私は今のこの部屋で十分だから!」



「明日は模様替え……の前にお洗濯ですわね。それから細かいところの掃除はもう少しする必要があるかしら」

 なんて琴子は血も涙もないことを言うけれど、とりあえず今日のところはもう終わりだ。

 一日働いたのでくったくた。お腹も減っていたけどそれ以上に埃と汗が気持ち悪い。

 まずはシャワーを浴びる、いや今日はたっぷりお湯を張ってお風呂に浸かろう。それがいい。

 そんなわけでじっとり湿ったTシャツを脱ごうとしたら琴子が一言。

「はしたない」

「別にいいじゃん女同士なんだし」

「女同士でもたしなみは必要かと存じます」

 ああもう面倒くさいやつ。

 けれど言い争うのはもっと面倒だったから、私は素直に着替えを持ってバスルームに向かった。蛇口をひねって浴槽にお湯がたまるのを待つ間に服を脱いでランドリーボックスに入れ……ようとしたらあふれていたので洗濯機に直接放り込む。洗濯機もほぼ一杯だったけどまあ見なかったことに。

 身体を洗ってからお風呂にダイブ。

(ああ、気持ちいい……)

 疲れた身体をしみじみ労っていると、バスルームのガラス扉を通り抜けて、音もなく琴子が乱入してきた。バスタオルを巻いただけの格好だった。

「ちょ、なんで入ってくるの!」

「いいではありませんか。女同士なのですし」

「さっきと言ってること違う!」

 私はとっさに身体を隠す。ほとんど意味なかったけど。

 温泉とかならまだしも、自宅のお風呂で他人と一緒って、何かこう、めちゃくちゃ恥ずかしいと思うんだけど、お嬢様にはそういう感覚はないらしい。

 琴子は肩までお湯に浸かった私の胸元を見て、ちょっと悔しそうな顔をした。勝った……って享年十四歳(推定)と張り合ってどうする私。

 琴子は空中をふよふよ移動すると、そのまま浴槽、私の対面に入ってきた。実体はないのでお湯は押しのけられない。

 私が身を捩ると生じた波紋は琴子をすり抜け浴槽の縁にぶつかり、跳ね返ってまた琴子をすり抜け私のところまで戻ってくる。

「うふふ。修学旅行ってこんな感じなのかしらね」

 生前の記憶がないという琴子は、そんなことを言った。

「あのさ、それ、どうなってるの?」

 私がそう訊ねると、琴子はちょっと首を傾げ、それから自分の体を見下ろして「ああ」とうなずいた。

「服装はある程度変えられますの。こう、えいっ! って感じで念じますと……」

 琴子は一瞬普段のサマードレス姿になって、

「……このように。着衣で入浴は不自然でしょう?」

 すぐにバスタオル姿に戻った。

「……幽霊がお風呂入って意味あるの?」

「気分は楽しめます」

(あんたがいい気分になるために私の気分は台無しなんだけど……)

「何かおっしゃいまして?」

「気分って大事だよねって」

「ですわね。心の持ちよう一つで、同じものでも感じ方はまるで違ってきますもの」

 なんて言いながら鼻歌を歌い始めた。

 うっすらと聞き覚えがある、古いアイドルソングだった。



 翌日からは洗濯と細かい部分の掃除。

 これがまた面倒だった。ちまちました作業ばかりで思ったより時間を取られ、一日で終わるはずが二日かかってしまった。

 それからお嬢様のご希望――というか一方的な命令――を入れた模様替え。

 言われたとおりにベッドを動かし衣装ケースを動かし、

「やっぱり前の方がいいですわね。戻しましょう」

 なんて言われたときにはこいつどうしてくれようか! とはらわた煮えくりかえったけれど報復が怖かったので「ハイ喜んでー」とやけっぱちで叫んで命令に従う小心者の私であった。

「そこのスペース空いてるのは?」

「ああ、あとで鉢植えでも置こうかと」

 決定事項か! 買ってくるのも世話するのも私なんだけど!?

 そんなこんなで模様替えも終了。

「いかがですかお嬢様」

 皮肉を込めた私の確認に、琴子は、

「及第点は差し上げてもよろしいかしら」

 ご満足いただけたようで、これにて一件落着。

 ……だったらよかったんだけど。

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