2-3

 

 何を言われたのか、一瞬どころか三十秒ぐらい理解できなかった。

「………………は?」

 お友達?

 私の?

 幽霊が?

「それってつまり……その、私に取り憑くってこと……?」

「いやですわ取り憑くだなんてそんなはしたない」

「はしたない……」

 そういう問題? 絶対違うと思う。

「あなたに先ほど指摘されたとおり、わたくし、このような身の上ですから労働でお返しをすることは不可能ですわね。でもね、こんなわたくしでもできていることが一つ、ございますでしょう?」

 なんだと思います? とでも言うように、幽霊は私の目を覗き込んだ。とても楽しそうで、けれど微かに必死さの漂う顔だった。

「な、何?」

「これですわ。今こうしている、これ。そう、それは会話!」

「会話」

「ええ、会話ですわ。カンバセーション。わたくし、あなたとお話ができている。……あなた、一人ぼっちなのでしょう? それは辛いですわよね。寂しいですわよね。だからね、わたくしがあなたのお友達になれば、あなたの寂しさを紛らわせることができますでしょう?」

 矢継ぎ早に言って空、幽霊はまた首を傾げた。

「でも、ただお友達というのもひねりがありませんわね……そうですわ! ルームメイトになるというのはいかがかしら?」

「ままま待って待って待って」

 私は慌てて言った。

「ルームメイトってつまり、ここに住むってこと?」

「ええ。そうすれば四六時中、いつでもあなたの話し相手になって差し上げられますし、わたくしも居場所を得られて一挙両得。ああ、なんという名案なのかしら!」

 胸の前で指を組み合わせ、幽霊はその場でくるりと一回転。ドレスの裾が浮き上がり、ふわりと降下する。

 名案じゃねえよ迷案だよ。

 お友達でも遠慮したいのにルームメイトってさあ……。

「大丈夫ですわ。わたくし、ごらんのように肉体はございませんので、食費も何もかかりませんし、ほんのちょっぴりスペースをいただければ。あなたにご迷惑がかかることは何もございません」

 いや存在自体迷惑だよ――と私が思ったのは言うまでもない。

「あの、私、別に一人が寂しいとか思ってないから。むしろ今は一人でいたいわけで、だから放って置いてもらえるのが一番ありがたいわけで……」

 そう答えたとき、胸に微かな痛みがあった。

 私の心境を見透かしたかのように、幽霊は悪い顔をする。

「あらあら。心にもないことをおっしゃるのね」

「本当だもの! 他人と関わるくらいなら一人の方がマシ」

 私はムキになって言い返した。幽霊は微笑みで受け止める。

「強がりは嫌いではなくってよ。……とにかくわたくしは決めましたの。あなたとお友達になるって」

 幽霊の意志は堅そうだった。

 参ったな、と思う。何かとんでもなく厄介なことになりそう。

 人生最大のやらかしを引きずってメンタルは最低なのに、この上幽霊に取り憑かれるとか笑えないにも程がある。

 私は必死で考えた。

「……友達ってさ、一方的になるものじゃない、よね?」

「そう存じます」

「じゃあさ、私が『やだ』って言ったら成り立たないよね?」

「お嫌なのですか?」

 うっ、と私はたじろいだ。美少女のすがるような眼差しは、同性であっても――幽霊であっても罪悪感を刺激した。

 だけどここで折れたら取り憑かれてしまう。

 なけなしの勇気を振り絞って、私は立ち向かった。

「できれば、その……ご縁がなかったということで」

「ルームメイトではなくただのお友達では?」

「一人にしておいて欲しいかなって」

「そう」

 幽霊は呟いて、それはそれは悲しそうにうつむいた。

 けれども次の瞬間には顔を上げて微笑む。

「それならば仕方ありませんわ。お礼の一つもできないのは心残りですけれども、おいとまさせていただきます」

 そう言うと幽霊は優雅に会釈し、緋瑪の部屋に背を向けた。

「ごきげんよう」

「あ、うん」

 幽霊がアパートの狭い庭を縦断して、ふわりと宙に浮いた。フェンスを飛びこえ見えなくなる。

「…………」

 予想外の幽霊の物わかりの良さに、私はなんだか騙されたような気分だった。

 実際、騙されていた。


    †


 自分の食べ物を買い忘れたことに気付いたのは、幽霊と猫がどこかにいなくなったあとだった。

 お腹は減っていたけどまたすぐに家を出る気にはなれず、パソコンを点けてゲームを始めた。けれど空腹のせいか気分の問題か、ちっとも集中できずにミスを連発。そうなるともうなんだかゲーム自体がつまらなくなって、パソコンの電源を落としてしまう。その後は寝転がってなにもせずに過ごした。こういう自堕落生活がもう四ヶ月近くになる。

 このままでいいはずがない。貯金も減っていく一方だし。でもどうしろと?

 鬱々しているうちに日が暮れて、帰宅ラッシュの時間も過ぎ去ってから、ようやく私は買い出しに出かけた。昼間やらかしたスーパーにはもう行けない。それで逆方向にある、ちょっと遠いスーパーまで行ってきた。

 近頃は異常気象だとかなんだとかで、夜になっても暑い日は暑い。帰る道々、スーパーで買ったリンゴジュースを飲んでいると、すぐに汗になって流れ出す。アパートに着く頃には全身べとべとで、私はすぐにシャワーを浴びることにした。

(……ちょっと悪いことをしたかな)

 冷たいシャワーを浴び、落ち着いて思い返すと、自分の反応はいかにも子供じみていたと思う。

 去り際の幽霊が一瞬見せた、悲しそうな表情――。

 本物の幽霊を見たのは初めてだ。あの子も、会話ができる人間に出会えたのは初めてだと言っていた。幽霊が見える人間。幽霊。どちらもものすごく少ないんだろう。

 あの子がいつから幽霊をやっているのかは分からない。

 けれど、ずっと孤独にさまよっていたのだろうと想像することは難しくない。

 ようやく自分を認識してくれる相手に出会えて、その喜びで少々はしゃぎすぎてしまっただけなのだろう。

「いや、だからって取り憑かれたくはないんだけど」

 それでも、もう少し相手を傷つけない言い様はあったのではないかと。

 自分のコミュ障っぷりに嫌気を覚えたそのとき、異変は起きた。


『あぁなぁたにいいぃー! あぁいたくぅてえー!』


 突然、脳内に歌声が響き渡った。

「のわあっ!」

 驚きすぎて足を滑らせ風呂場の床に尻餅をつく。ついでに壁に頭もぶつける。痛い。涙も出る。

 私が頭を押さえて立ち上がる間も歌声は止まらない。美声である。そしてすさまじいボリュームだった。突然コンサート会場の最前列に放り込まれたような、というのも生ぬるい。音のハンマーが脳内をめちゃくちゃに叩き回っている。耳を塞いでも聞こえ方はまったく変わらなかった。

「な、何!?」

 こんなものが尋常な「音声」であるはずがない。

 風呂場を見回し、飛び出す。髪から雫をぽたぽた垂らしながら部屋に飛び込んでカーテンに手を掛け、自分が全裸であることを思い出して風呂場へ逆戻り。

「ああもうめんどくさい!」

 大急ぎでジャージを着て、今度こそカーテンも窓も勢いよく開いて周囲を見回すと。

 いた。

 アパートの脇の道路に立っている道路標識に幽霊が腰掛け、月に向かって熱唱していた。その足元にはお行儀よく座る猫もいる。

 幽霊は私に気付くと歌をやめて、気品とサドっ気に満ちた微笑みを浮かた。

「ごきげんよう。いい夜ですわね」

「いい夜じゃない! そこで何してるの!?」

「趣味のカラオケですわ。今日はここで朝まで歌い明かすつもりですの」

「うえっ!?」

 朝までこのフルボリュームが脳内にガンガン……冗談じゃない!!

「聖子ちゃんはお嫌い? でしたら明菜ちゃんを……」

「どっちも好きじゃないというか誰!?」

「国民的歌姫をご存じないの? いえ、きっと耳にしたことはございますわ。試しに代表曲をお一つ」

「歌わなくていいから!」

 私は腹の底から叫んだ。

「これ、あんたの仕業でしょ」

「これ、とは?」

「頭の中に直接声が響くの」

「わたくしがやってるわけではございません」

「そんなわけない。だってあんたの声だし」

「わたくしはただ歌っているだけですわ。受け取っているのはあなた」

「はい?」

「そもそもわたくしには肉体がありませんわよね? ということは声――物理的な音を出すことはできない。ではわたくしのこの声は、どうやってあなたに届いているのかしら」

「……分かんないよそんなの」

「つまり霊感ですわ。あなたには霊感があり、わたくしのような幽霊の思念をキャッチできる。声として再生できる。ラジオのようなものでございましょう。ラジオのスイッチを切れないのはそちらの責任と存じます」

 そんなことを言われても、こっちは昨日まで自分に霊感があることすら知らなかったのだ。意識して感覚を閉じる方法なんて分かるはずがない。そもそも霊感がなんなのかも分からない。つまり自分じゃどうしようもない。

「ねえ、そっちが歌うのやめてくれない? じゃなかったら、せめて別の場所、遠くに行ってもらえると助かるんだけど……」

 一つ、気付いたことがある。幽霊の声は、物理的なものではないのだとしても、距離によって聞こえ方が少し変わる。理屈は分からないが無限に届くものではないのだろう。十分に距離を取ってもらえれば、聞こえなくなるはずだ。

「でもわたくし、この標識の座り心地が気に入ってしまいまして……」

「そこを何とか」

 私は幽霊を拝んだ。

「お断りですわ。赤の他人に指図される覚えなど、ありませんことよ」

 幽霊はつれなく言って、それからにやりと笑った。

「でも、お友達のお願いでしたら、考えなくもありませんわ」

「うぐっ」

 そう来るのか……。

「寝食を共にする親友のお願いでしたら、一も二もなく聞き入れますわ」

「うぐぐっ」

 どうする? どうすればいい? 

 相手は幽霊だ。こちらからの干渉は一切できない。物理的にどかすことも黙らせることも。

「もうよろしいかしら?」

 そう言って幽霊は大きく息を吸う――その必要はないから仕草だけだけど。

「あーっ! 分かった!」

「何がですの?」

「もういい! 私の負け! 友達でもルームメイトでも何でもなるからもう歌はやめて!」

「いやですわ。それじゃあわたくしが脅して無理矢理お友達にならせたみたいに聞こえますわよ」

 実際そうでしょうが! 私がうなずくまで脅し続けるつもりだったでしょうが! という魂の叫びを私はぐっと飲み込んだ。

「私、あなたと、友達に、なりたいなあ」

 歯ぎしりしながら私はそう言った。

「まあ! 嬉しい! 実はわたくしもそう思っておりましたのよ!」

 幽霊お嬢様は白々しく微笑んだ。

 たとえ演技百パーセントでも、それはそれは気品にあふれ、可憐な笑みであった。


 最初から、私に勝ち目なんかなかったのだ……。


    †


 ようこそ我が家へ、遠慮なく上がって! なんて言える気分ではもちろんなかった。

 あったのはただひたすらに敗北感。

 どこでも勝手に入りがやれとばかりに、私は無言で幽霊に背を向けた。

 すると、

「開けて下さらないの?」

 と幽霊は不満そうに言った。

 さすがはお嬢様。ドアを開けるのは使用人の役目でございますか。今はドアじゃなくて掃き出し窓だけど……ではなくて。

「閉まってても関係ないでしょ」

 幽霊なんだから、物体をすり抜けてどこにでも侵入できるはずだ。

「招かれずにおじゃまするなんて不作法です」

 じゃあこのまま閉めておけば入ってこられずに済むのでは、と思ったのけど、みみっちい嫌がらせをして報復のカラオケ大会を始められてはたまらない。

「はいどうぞ」

 歓迎してないこと丸わかりの不機嫌な声と共に、私は窓を開けた。

「おじゃまいたします」

 幽霊は礼儀正しく一礼してから私の部屋に入る。

 続いて猫が入ってこようとしたので、私は慌てた。

「猫はダメ!」

 人の言葉が分かるっぽい猫はぶにゃんと鳴いて不快感の表明。それから幽霊に向かってうにゃうにゃ訴えた。

「猫アレルギー?」

 と猫に代わって幽霊が私に訊ねる。

「ではないんだけど。毛とか泥とか持ち込まれるのはちょっと……。あとノミとかいるかもだし……」

 うにゃんうにゃん。

「ええ、それをお伝えするのはさすがに……」

 しゃーっ。

 猫が毛を逆立てて威嚇する。幽霊は静かに首を振ってから私を見た。

「わたくしではなくこの子が言ってるんですからね」

「前置きはいいから」

「……我が輩には泥もついてないしノミなんかいない。我が輩よりこの部屋の方がよっぽど汚いにゃー、だそうですわ」

「ぐっ」

 ……我が輩ってお前、教科書に載ってる名前のないあいつじゃないんだから。

 とってつけたような「にゃー」にもちょっといらついたが。

「と、とにかく、猫は勘弁してください」

 しゃーっ。

 翻訳して貰わなくても何となくわかった。

「あとでまたご飯をあげるので、それで何とか勘弁していただけませんか……?」

 なんで私は猫相手にへりくだってるんだろう――そんな思いがよぎる。

 にゃー。

「それで手を打ってやろう、だそうですわ」

 話が決まると猫はフェンス際の植木の影で丸くなった。そのわが家のようなふてぶてしい態度! ひもじさに鳴いていた昨日の猫とは別猫ではないかとすら思わせる。

 見下ろすと足元にエコバッグ。夕食がまだだった。

 冷蔵、冷凍品を片付けてから私はテーブルに着いた。今夜はスーパーの半額弁当だ。

 おかずの唐揚げをまるごと口に放り込み、噛みしめる。じゅわっと脂が染み出してくると同時に、

「あらっ?」

 と幽霊が声を上げ、私を見た。

「何か?」

 訊ねながら私は咀嚼を続ける。

 幽霊はあらあら言いながらじっと私の口元を見つめている。食べづらい。

「これは……唐揚げ?」

「そうだね、唐揚げだね。……食べたいの?」

 ちょっとしたいじわる心で、私はそう訊ねた。幽霊に飯が食えるわけがない――と思ったんだけど、幽霊お嬢様の答えは予想外のものだった。

「いえ。わたくしのお口の中にも、唐揚げの味が広がって……」

「はあ? 何それどういうこと?」

「あ、次はそれ、ポテトサラダを食べてみて下さる?」

「いいけど」

 食べる。

「やはりそうですわ。あなたが食べたものの味が、わたくしにも感じられるようです。ああ……」

 と、とろけるような声を出してから幽霊はこう続けた。

「味覚を味わうなんて何十年ぶりかしら……。こんな感覚、死んでから初めてですわ」

「幽霊になって長いの?」

「そうですわね。いつからやっているのか思い出せない程度には」

「ふーん」

 気のない返事をしながら、私は唐揚げをひょいひょい口に放り込む。

「あ、ちょっと! 久しぶりの味覚ですのよ! もっとゆっくり、じっくり味わってちょうだい!」

「いやそんなの知らないし。こっちはおなかが空いて死にそうだし」

「言うことを聞いて下さらないのなら、ディナーショーとしゃれ込みますわよ」

 と幽霊は立ち上がってマイクを構える真似をする。

「あっ、止めて! 分かったから止めて歌わないで」

 私は即座に屈服した。言われたとおりに少しずつゆっくりじっくり、食べ進める。

 幽霊は両手で頬を押さえ、うっとりした表情だ。おいしすぎてほっぺが落ちそう、みたいなものなのか。

 お嬢様っぽいし生前はスーパーの半額弁当よりもはるかにいいものを食べていそうなものだけれど、「何十年ぶりかの食事」ともなると、何を食べてもおいしく感じるものかもしれない。

 いつもよりたっぷり時間をかけて夕食を終えた。

 食後のコーヒー(インスタントだけど)を飲むと、幽霊は顔をしかめた。

「お砂糖とミルクたっぷりにしてくださる? お紅茶があると一番いいのだけれど」

 子供舌め……と思ったけど怒りのディナーショーをやられても困るので黙っておく。

「砂糖はあるけどミルクはないし紅茶もない」

「仕方ありませんわね」

 えらそうに。

 好みではないダダ甘コーヒーを淹れて、ちびちび飲んでいると、

「いけませんわ!」

 突然、幽霊が手を打った。

 いきなり大きな音を立てないで欲しい。驚くから。

「せっかくお友達になったのに、わたくしたち、お互いの名前も知らないままではありませんこと!」

「あー……」

 なんだそんなことか。

 正直知りたくなかった。いやまあ確かに名前が分からないと不便かもしれないけど。

「わたくし、三上琴子と申します。あなたは?」

「……言わないとだめ?」

 言いたくない理由は二つあった。一つは幽霊とこれ以上お近づきになりたくないから。ゲームから得たあやふやな知識によれば、この世ならざるものに名前を知られるのは呪術的によくないことだ。呪われたり呪われたり呪われたりする。

 もうひとつの理由は、自分の名前が好きではないからだ。

 緋瑪……ひらがなだと「ひめ」――子供の頃はよく「姫」と書くのだと間違えられたし、男子にからかわれた。「姫だってよ姫」「どこの姫? 王子様はどこですかあ?」――ああウザい。あいつら全員カボチャの馬車に轢かれて死んでしまえ。

 などと私が思い出してムカついていると、

「仲谷……これは……ひめ、と読むのかしら?」

「えっ、あーっ!」

 琴子は部屋の中を勝手にうろつき、本棚に投げっぱなしにしていた郵便物の宛名を見つけていたのだった。

「ひめひめ、とお呼びしていいかしら?」

「よくない! というか人のもの勝手に見ないでよ!」

 反射的に怒鳴ってしまう。しまった、機嫌を損ねたかもしれない――と不安になったけど、琴子は特に気にした様子もなく、

「では、おひめひめ、では?」

「悪化してる!」

「ええ……」

 琴子は心底残念そう。私のことをからかっているわけではないらしい。

「考えてみればいきなりあだ名で呼び合うのは少々不躾でしたわね」

「……まさか、自分のことも『ことこと』とか呼ばせるつもりだったの?」

「ええ、かわいらしいでしょう? 親しくなったらぜひ、そう呼んで」

(……お嬢様の感覚は理解不能だわ……)

 お互いに名乗りを済ませて、さて、どうすればいいのだろう。どうなるのだろう。

 考えなければいけないことはたくさんある気がしたが、では具体的にどんなことを? と問われると何一つ思い浮かばなかった。

 幽霊なんて見たのは生まれて初めてだし、どうしたらいいのかなんてまるで分からない。そういえばシャワーが中途半端だった。洗濯物もたまっていたような気がする。けれどそういう諸々を考えるのがたまらなく面倒だった。何より精神が限界だった。ついでにお腹もいっぱいだった。

「寝る」

 うん。寝よう。それが一番。現実逃避じゃないぞ! 合理的選択ってやつだ! 無理して考えたってろくな答えが出てこないからな!

 ところが私の名判断は琴子には大変不評だった。

「早過ぎではなくて? わたくし、もっとあなたとお話しがしたいわ」

「私は寝たいときに寝るの。それがニートの数少ない特権なの」

 いつもの部屋ジャージのままベッドに上がり、頭からタオルケットを被った。

 正直なところ、それほど眠気は感じていなかった。いつも寝るのは夜明け頃だし、今からベッドに入っても眠れるものでもないだろうと。

 そのはずだったのに、私はすぐに眠りに落ちてしまった。自分で考えているよりずっと、精神的に疲労していたのだ。

(……これは全部夢で目が覚めたらいつも通りの日常に戻っていますように)

 意識を失う前、そんなことを願った。

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