2-2


「嫌ですわ。先ほどのは軽い冗談ですのよ」

 幽霊はそんなことを言うけれど信用なんてできるものか。なにしろこの世ならざるものなのだ。

 幽霊これすなわち生者に害なすものである。信じた奴から殺されるのだ。

 今、私は昨日のスーパーに向かってせかせか歩いている。幽霊の要求に従って猫缶を買いに行くところだ。

 アパートを出たときには嫌々でビクビクしていたけれど、(さっさと用事を済ませて退散して貰った方がいい)と気付いてからは歩くペースがどんどん上がっている。

 幽霊は私の隣をつかず離れず、何の変哲もない住宅地を眺めながら歩いて――ではなくて地表から十センチほど浮かんで移動している。

 その宙に溶けた足元を、まるでわんこが散歩するようにきっちりついてくる猫。

「何か?」と幽霊。

「ひいっ」

「そんなに怖がられると少し傷つきますわ」

「あ、ごめんなさい」

 悪いと思ったというよりは、機嫌を損ねてはどんな祟りがあるか分からないと思って、私は謝った。

「それで、なんですの? 先ほどからちらちら見てますけれど。言いたいことがあるならはっきりとおっしゃって?」

「あ、あの……その猫も、もしかして……」

 言いよどむ緋瑪。幽霊はすぐに察した。

「ああ、いえ、この子は普通の猫ちゃんですわ。生きてますし、妖怪変化の類いでもございません」

「ああ……」

 私はちょっとだけほっとした。けれどそれで状況がなにかよくなるわけではないと気づいて落胆した。

 ほどなくスーパーに到着。

 私が中に入ろうとすると、幽霊と猫も当然のようについてこようとした。

 私はぴたりと立ち止まる。

「忘れ物?」

「いえ……」否定してから「……動物はお店の中には……」

「あら、そうでしたわね。ではわたくしたちはここでお待ちしますわ」

 その反応はちょっと意外だった。猫だけこの場に残して幽霊はついてくる――私が逃げたりしないように見張るかと思っていたのだ。しかしそんな必要はないのだとすぐに気がついた。

(家バレしてるもんね……)

 幽霊は昨夜、逃げた私の後を追ってアパートを突き止めたのだろう。であるなら昨夜のうちに踏み込むこともできただろうに、今朝……というか昼だけど、私が起きるまで外で待っていたし、起きたあとも勝手にアパートに入ってきたりははしなかった。意外と礼儀正しいのかもしれない。

(いや待って。礼儀正しい奴は奢ってくれなきゃ呪うぞとか言わない)

 それはさておき猫のご飯である。特に注文は無かったので、適当に猫缶の一番安いやつを手に取り……供物が貧相だと呪われるかもしれないので普通の猫缶を手に取り……お金持ちのお嬢様然とした幽霊の格好を思い出し、高級品じゃないと怒るかもしれないと思い直して一番いい奴を買った。

 清算を済ませて店を出る。待ってましたとばかりに猫と幽霊が駆け寄ってきた。

 緋瑪が歩道にしゃがみ込んで猫缶をパキュッと開けたところ、

「お客様」

 たまたま通りがかった店員に見咎められた。

「すみませんが野良猫への餌付けはちょっと……」

「あ、その、あ……これ……」

 私はたちまちしどろもどろになってしまった。目を合わせるのが怖くて顔を背ける。

「近隣にお住まいの方へのご迷惑となりますので……」

「……」

 なおも顔を背けたままの私の態度は、私が視線恐怖症だと知らない店員にとっては、ただただ態度の悪い若者でしかなかったのだろう。営業用の微笑みがすうっと消えて、クレーマーに対処する険しい顔になる。

「聞いてますか? ここで猫に餌をやるなと、」

「場所を変えましょう」

 と幽霊が言った。

 私はそれを聞いて即座に立ち上がり、半分開いた猫缶を持って全力で走り出す。

「あ、お待ちになって!」

 脇目も振らずに逃げる私を、幽霊と猫が追いかけてくる。



 スーパーが見えなくなるまで走って、その後もアパートまで走った。

 店員がわざわざ追っかけてこないことは分かっていたけれど、とにかく一秒でも早くあの場から遠ざかりたかった。

 アパートに帰り着いて玄関に入ってから猫缶を持っていることを思いだし、ドアを開けたが部屋の前には猫も幽霊もいなかった。

 彼女たちは窓の外にいた。

「何も逃げることはなかったのではなくて?」

 私が窓を開けるなり、幽霊はそう言った。

 私は無言でしゃがみ込み、きちんと開けた猫缶をコンクリートの隅においた。

「……皿とかあった方がよかったですか?」

 猫は気にせずがっついている。よほど腹が減っていたのだろう。

「お店の人にとっては迷惑行為だったかもしれませんけれど、こちらだって悪気があったわけではないでしょう。『あら、そうでしたの? 存じませんでしたわ』とでも答えれば済んだ話ではないかしら」

 私は猫が無心に餌を食べる様子を眺めた。

 まったくもって幽霊の言うとおりだと思う。「あっ、すみませーん」とかへらへら笑って立ち去ればよかったのだ。あんなふうに黙って逃げてしまってはもう気まずくてあの店には行かれない。これからどこで買い物をすればいいんだろう。

「聞いてますの?」

「うん」

 猫は人間と幽霊の言い合いにはまったく興味を持たずに、無心に猫缶を味わっている。猫になりたい。

 幽霊がもの言いたげな視線を投げてくる。ごまかすことはできそうになかったし、適当にごまかすような話術はなかった。

「……怖いの」

「お店の方が?」

「視線が」

 幽霊が小首を傾げた。

 猫のしっぽがパタパタ揺れる。それを目で追いながら、私は言葉を探した。

 視線恐怖症は、もちろん生まれつきのことではない。

「……私ね、女優なんだ」

「まあ」と幽霊が感嘆の声を上げる。

 いや、「女優だった」と言うべきかもしれない。

 高校生の頃から舞台にあこがれ演劇部に入り、大学でも続け、卒業後は思い切ってプロの劇団に所属した。自分で言うのも何だけど、演技の才能はあったと思う。そうでなければスカウトなどされないだろうし、一年もしないうちに大役に抜擢されたりもしない。

 私は子供の頃から物怖じしない性格だったから、怖じ気づいたりはしなかった。むしろ奮起してレッスンに励んだ。

 そうして迎えた公演初日、私は……

 ……やらかした。

 幕が上がったその瞬間、セリフも演技も何もかも頭からすっ飛んでしまったのだ。

 うろたえる私を、客席の闇から無数の目が見ていた。

 その視線を感じるとますます焦り、喉も身体も動かなくなった。

 異変に気付いた先輩団員たちのアドリブのおかげで何とか芝居は進んだものの、その日の私の演技は間違いなく最低だった。学芸会レベルですらなかった。

「ドンマイ。しかしお前も人並みに緊張するんだな」

 最低の初日が終わってから座長にそう言われ、

「自分でもびっくりです」

 私は苦笑いでそう返した。

「明日はいけるな?」

「はい。任せて下さい!」

 そのときは確かにいけると思ったのだ。

 けれど、ダメだった。

 衣装を身につけ舞台袖で待機するまでは何ともなかった。

 ところがそこから踏み出そうとすると足が動かない。

 初めは自分に何が起こったのか分からなかった。幕が上がる前に配置に就かなくては。時間がない。急いで。

 分かっているのに動けない。

 脳裏に昨日の光景がよぎった。

 薄暗い客席からこちらを見つめる目、目、目……。

 座長は私を励ましたりはしないで、すぐに代役を呼んだ。

 そうなることを予期していたかのようだった。

「……初舞台のプレッシャーに負けてど派手なミスをして、それで『人に見られる』のがダメになっちゃって……」

 やらかしの影響は舞台だけに留まらなかった。

 プロの女優とはいっても、新人はそれだけではもちろん食べていけない。

 だから公演も練習もない日はアルバイトをしていたんだけど、それもできなくなった。店頭に立っているだけでも脂汗が出てきて、声をかけられようものならパニックに陥る。すぐに通行人の視線すら気になるようになって、私はアパートに引きこもるようになった。

 四ヶ月弱が過ぎた今、視線恐怖症は前よりはいくらかマシになっていて、通行人がいるくらいでは足が震えたりはしなくなっている。

 それでもやっぱり怖いものは怖い。視線を感じ、話しかけられるとパニックを起こしそうになる。それが単なる店員の、事務的な問いかけであっても。

 病院に行くことも考えたが、実行はしていない。だって他人が怖いのだ。診察室で医者と正対して会話――見られながら自分のことを説明するなんて、考えただけで吐きそうになる。

「……大変な思いをなさったのね」

 幽霊は、しみじみとそう言った。それから小首を傾げる。

「でもわたくしとは普通にお話しできていますわよね?」

「あ、うん」

 なんでだろう。幽霊だから……ではないはずだ。幽霊だって元は人間だ。そもそも幽霊だって別の理由で怖い。

「……見るからにまともじゃないから、かえって裏がなさそうに見えた?」

「まあ!」と幽霊は憤慨した。「このわたくしのどこが変なのです!」

「いや、変じゃん。今時そんなひらひらしたフリル着てる人なんていないよ。おまけに頭は縦ロール。それも四本も垂らしてるとか絶対ヤバイ。まともじゃない。いないでしょ。そんな格好でその辺歩いてる人」

「くっ……」

 幽霊が歯を食いしばる。

 一瞬、周囲の空気が二度も下がったかのように感じた。

 怒らせた。呪われる。

 うかつだった。幽霊があまりに親身に話を聞いてくれるものだから油断して地がでてしまった。

 私は幽霊の怒りを収めようと、慌てて謝罪の言葉を探す。だがそれが見つかる前に幽霊が深呼吸をして、

「レディはこの程度で逆上したりはしませんの」

 気品あふれる笑顔を浮かべる。

 その手がまだちょっぴり震えていたことに私は気付かない振りをした。触らぬ幽霊に祟りなし、である。

 餌を貪っていた猫が顔を上げた。缶詰は空っぽになっている。

「お腹いっぱい?」

 幽霊がそう訊ねると、猫はうにゃうにゃ鳴いた。

「ありがとう、ですって」

「ど、どういたしまして?」

 私は猫と幽霊を交互に見ながら言った。

 これで昨夜の約束は果たされた。

 もうここに用はないはずなのに、幽霊は去ろうとはしない。

「ま、まだ何か……?」

 大きな雲が陽を遮り、洗濯物を干すスペースに濃い影を落とす。吹き寄せてきた風が汗に濡れた肌を冷やす。

 背筋が寒くなった。

 幽霊の、透き通った顔にはそれまでにない真剣さがあった。この世ならざる存在が、いよいよその本性を発揮する――なんてことはなかった。

「お礼はなにがよろしいかと考えてまして……」

 幽霊はごく普通の、「お土産を貰ったのでお返しをしなくちゃ」って感じの普通さで、そう言った。

「い、いいよそんなの」

「遠慮することはありませんのよ。それにこのまま帰ったのではわたくしの名が廃ります」

(いや名前なんか知らないし。知りたくもないし)

 私はそう思ったけど、幽霊は構わず続ける。

「親切にしてもらったらお礼をするのは人として当然のこと。もう人ではないのかもしれませんが、人の心までをなくしたつもりはございません」

「は、はあ……」

「何かございますでしょう? して欲しいことなり欲しいものなり」

 じゃあ帰って下さい――真っ先に思い浮かんだのはそれだった。というかそれ以外何の希望も要求もないんだけど、邪険にしたら呪われたり殺されたりするかもと思うと言い出せない。どうにかして穏便にお帰りいただくには……。

 閃いた。

「ちょっと質問してもいい……でしょうか?」

「ええ。あ、質問に答えることをお礼にするというのはナシですわよ」

 あ、そういう手もあったか。まあ通じなかっただろうからいいけど。

「幽霊って、ものに触ったりはできないんですよね?」

「ですわね」

「じゃあお礼も何もなくないのでは? 例えば掃除して下さいってお願いしても無理なわけで……」

「ああっ!」

 と幽霊はお嬢様らしからぬ素っ頓狂な声を上げた。いや、そのどことなく時代がかった驚き方はお嬢様っぽいと言えばぽいのだけれど。

「……迂闊でしたわ……」

 よよよと崩れ落ちる幽霊。

「そういうことだから、お礼とかもう本当に、全然、いらないので」

 お引き取り下さいとお願いしようとした矢先、

「そうですわ!」

「ひょわぁ!」

 幽霊はがばっと顔を上げて立ち上がったものだから、私は驚いて尻餅をついてしまった。

 見上げる夏の空。上空の風が雲を押し流した。顔を出した太陽の光が幽霊を貫き、緋瑪の目を眩ませる。

 そして幽霊は言った。


「あなたのお友達になって差し上げますわ!」


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