第二話 アタック・オブ・ザ・ゴーストレディ

2-1

 窒息死する夢を見た。

 視界は真っ暗で、いくら呼吸をしても酸素が入ってこない。息苦しくて顔が熱いのに、つま先はぞっとするほど冷たくなっていく。

「があっ!」

 と叫んで目を開けると、私はタオルケットを頭からすっぽり被ってうつぶせになっていた。両手はタオルケットの端を指が強ばるほどに握り込んでいた。そうしてタオルケットを頭の方へと引っ張れば足がはみ出るのは物理的当然のことで、エアコンの冷風を直撃され続けた足は夢と同じく氷の方にひんやりしていた。

 安眠の基本は頭寒足熱――頭を涼しくして足を温かくすることだそうだ。今の私はその正反対の状態で、寝覚めの気分はもちろん最悪だった。

 タオルケットを引き裂くみたいに頭から外して周囲を見回す。八畳一間のワンルーム。ごちゃごちゃとものが詰まっていて、一番目立つのはゴミ袋で、机の下には毎日フル稼働しているパソコンと、台本が入った紙袋。テレビの液晶がうっすら曇って見えるのは埃が積もっているからで、ソファは洗濯物と洗濯してないもの置き場になって久しい。見飽きた自分のアパートだ。

 起き上がって自分を見下ろす。ジャージもくたびれたTシャツも昨日のままだ。

「……夢?」

 呟くと、その通りに違いないと思った。あんなわけの分からないことがあるはずがない。

 壁の時計を見上げると、正午を少し回ったところだった。いつも起きるのは二時過ぎだから、今日はずいぶんと早起きだ。だからといって爽快ではないけれど。

 私はベッドを降りて、惰性でパソコンの電源を入れた。起きたら軽く一時間ほどゲームをするのが日課……だけど今日は生理現象が勝った。

 要するに空腹だった。耐えがたいほど。昨夜何食べたっけ? 記憶にない。

「おなかが空きすぎて目が覚めたのもあるのかなあ……」

 独り言を呟きながら台所に移動して冷蔵庫を開け、何もない。

「あー。何か買ってこなきゃ」

 昼間っから外に出るのは気が乗らない。日中は人がわらわらいる。視線が怖い。

 けれど昨日も何も食べていないし、さすがにこのまま夜までは保たないだろう。行くしかない。

 私はおざなりに顔を洗うと、床に転がっていた財布とスマホ(こんなところに投げ出したっけ?)をつかみ、サンダルを突っかけて玄関ドアを開けた。

 四連ドリルのお嬢様が通路で猫をあやしていた。

 お嬢様は顔を上げて気品に満ちた微笑みを浮かべる。

「ごきげんよう。ずいぶんと遅いお目覚めですこと。わたくし待ちくたびれま」

 ドガン!

 私は爆音を立ててドアを閉めた。

 心臓がバクバク鳴っている。見えてはいけないものが見えた。

(いやいや気のせいだ気のせいに決まっている。だってあれは夢だったんだし、今は昼間だし)

 そう思うのだけどドアを開ける勇気が出ない。

 深呼吸をし、息を止め、ドアをしばし見つめ、

 意を決してドアスコープを覗き込んだ。

 目があった。

「うわあっ!」

 叫んでひっくり返る。

「どうしましたの? 大丈夫ですの?」

 ドア越しとは思えないクリアな声が聞こえて、それは心配する声だったのだけれど、私はパニックに陥った。

「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。だってあれは夢で夢に違いなくているわけがなくて!」

 立ち上がれないまま手足を必死に動かし、尻で雑巾がけするみたいにして部屋へと戻る。そのまま部屋を縦断して、半分開けたままの窓枠に背中がぶつかってようやく止まる。いまだ立ち上がれないまま、目はずっと玄関ドアから離せない。その向こうにいるはずのものが、今にもドアをすり抜けて入って来そうで震える。財布もスマホもまた落としてしまった。

 なぜか笑いそうになった。

 実際少し笑った。

 フヒッ、とかそんな感じの。乙女にあるまじき声で。

 空手でいるのがとてつもなく不安で、手近に転がっていたペットボトルをつかむ。そんなものでも自分を落ち着かせる効果はあったようで、私はふーっと息を吐くと、玄関ドアを見つめた。

 反射的に逃げてしまったけれど、あれは昨日見たあれだっただろうか?

 何しろ一瞬のことだったし、こっちも寝起きと空腹で頭が働いていない。見間違いだった可能性は多いにある。きっと隣の住人がマナー違反にも通路に出しておいた半透明のゴミ袋かなにかと見間違えたのだ。うん。透明感といいサイズ感といいそんな感じだった。

 なんとかの、正体見たり、ゴミ袋。

 自分の推測に自分でうなずく。

 今度こそご飯を買いに行こう。

 と、その前に窓は閉めた方がいい。考えてみれば昨夜も窓を開けたまま寝てしまって、いくら何でも不用心すぎた。

 立ち上がり、掃き出し窓を閉めようと振り返ると、

「ああよかった。ものすごい音がしたから、頭でも打ったのかと心配しましたのよ」

 そこにサマードレスのお嬢様がいた。

 ひとたまりもなかった。

 私はものも言わずに卒倒した。



 二度目の気絶はごく短いものだった。

 すぐに意識を取り戻した私は、窓の外に幽霊お嬢様が佇んでいるのを見て「ひいっ」と短い悲鳴を上げると、部屋の反対側と飛んでいった――つもりだったけど、歯の根は合わず、手足はガタガタ震えていたので無様に床を這いずって移動したというのが正直なところ。

 突然に昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。相手が幽霊だと知って卒倒し――意識を取り戻したときにも幽霊がいたかは記憶にない――というか確認もせず、脇目も振らずに全力で自宅に駆け戻った。

 あとはタオルケットを頭から被ってガタガタ震えていた。眠れるような精神状態ではなかったけれど、震えているうちに疲れ果てて寝落ちしてしまったのだろう。

 距離を取って振り返ると、幽霊お嬢様は身を乗り出して部屋を覗き込んでいる。

(逃げよう)

 秒で決めたけど手足に力が入らないので立ち上がってドアノブをひねることすらできない。

「こ、こ、こっちに来ないで!」

「わたくし、一歩も近付いていませんわよ?」

 悲鳴を上げる私に、幽霊はくすりと笑った。

 その余裕の振る舞いにほんのわずかな陰りの感情が滲んでいたのだけれど、このとき私は一杯一杯になっていて、そんなことに気付ける余裕は持っていなかった。

(幽霊だ。幽霊だ。本物の幽霊だ……)

 床に尻をついたまま、窓辺に佇む幽霊を見ているしかできない。怖いのに目が離せない。

 白い肌。細い腕、華奢な体躯。大きな目。

 幽霊の見た目は十人が十人とも振り返る可憐さで、人畜無害そうで――だからこそまらなく恐ろしかった。

 ずっと昔、まだ小学生で、実家で家族と一緒に住んでいた頃のある夏。兄がDVDをレンタルしてきたことがある。ホラー映画だった。タイトルは忘れてしまったけれど、その映画の幽霊は、今、私の目の前にいるような格好をしていた。可憐な姿で生きている人間を誘惑し、二人っきりになると怪物の本性を現して人間をむさぼり食う。そんな設定だった。マジで漏らすほど気持ち悪くて恐ろしかった。その日は一睡もできなかったし、その後一週間以上、一人でトイレに行けなかった。

 感動の恋愛超大作だと騙されてみたあの映画はいまだにトラウマであり、以来、私は幽霊というものがこの世で二番目に嫌いになった。一番はもちろん騙してくれた兄でありいつか復讐しなくてはと思っているがいまだに果たせずにいる――なんてことはさておき。

(こいつも見た目に反して中身は凶悪な悪霊に違いない!!)

 作り物でも死ぬほど怖いのだ。本物がそれ以上に怖いのは当然のことである。

「わわわ私はお前のことなんか知らないぞ! 人違いです! 恨みを晴らすなら余所を当たれ! 当たってください!」

 私の声は完全に裏返っていた。虚勢を張りたいのか下手に出たいのか自分でも分からない。

 そんな私を見て幽霊はクスクス笑った。

「わたくしもあなたのことは昨日まで……日付的には今日ですわね。とにかく、知りませんでしたわ。個人的怨恨なんて、生じようがありませんわね」

「ななななら、なにが目的だ! でしょうか!?」

 訊ねながら必死に考える。幽霊の目的。そんなもの怨恨に決まっている。怨みはらさでおくべきか――しかしその対象は私ではない。

 となると。

「あ、あんたを殺した犯人を捜せとか? 無理です無理無理無理!」

 幽霊は恨みを晴らすために出ててくるものである。その対象は私ではない。ならば幽霊の要求は自分に代わって怨みの対象を見つけ出すことである。

 そう推理したのだが、違った。

「何を言っているのかしらあなたは。わたくし、他人に殺されるほど怨まれるような覚えはありませんわ。それ以外の覚えも……まあ、それはよしとして」

 わけの分からないことを言ってから、幽霊は私を見た。視線恐怖症であり幽霊恐怖症である私には二重に効く。もうやだ漏らしそう。

「約束してくださいましたでしょう? もうお忘れですの?」

「や、約束?」

「この子にご飯を食べさせていただけると」

 幽霊の足元にはいつの間にやら昨日の猫が来ていて、うにゃんと鳴いた。

「……そ、それだけ?」

「ええ」

「本当にそれだけ?」

「ええ」

「私に取り憑いたり呪い殺したり物理的に殺したりしない?」

 私の問いに幽霊は目を丸くしたが、やおら悪そうな笑みを浮かべてこう言った。「それはあなたの心がけ次第ですわ……うふふ」

「ひいっ」

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