第19話 マザー・ハーロット
世間では特に目立ったニュースも無く代わり映えの無い放課後だった。
それも人間とこの世界にとっての話であって、狩哉達は違う。
部活の無い生徒達も殆ど帰宅して静まり返った廊下を、狩哉達は暗澹たる気分で歩いていた。
この後起こるであろう惨劇のリスクを、あるいは被害を低めるためにも、生徒達が少なくなるこの時間帯を狩哉達は待たねばならなかった。
事件の深層にして学校の深奥である場所で、もう一人の人類の敵対者は待っている。
目的の場所に着いた狩哉は、仲間達の鼓動が整ったのを肌で感じながら、意を決してドアに手をかけた。
「失礼しまーす」
お辞儀をして、おずおずと緊張しながら中へ入っていく。
何人かの職員がこちらを見たが、すぐに興味を失った様子で机に向き直る。
何百何千何万の時を生きようと、彼らの上から目線には慣れない。
使命の特殊な狩哉達四騎士は、人間に見下されるのに慣れていないのだ。
(厄介だよな、センセイって存在はよ……)
ここは生徒達が使う、普通教室ではない。
生徒にとっての触れざる禁忌の万魔殿(パンデモニゥム)――
強大なる魔都。
――職員室だ。
この時間は部活の顧問をしている教師や事務作業をしている教師ぐらいしか残っていないので、人の気配は少ない。
鈍色の夕闇が、疲労の溜まった教師達の横顔を照らしている。
「さっさと入りなさいよ」
狩哉を背後から尊大に促す世音。
「うっせーな、分かってるよ」
ぺこりと狩哉は頭を下げて、中に入っていく。
後ろに弓華達他の四騎士と、茜、そして世音が続く。
ちなみに猫は、無無美が『世音にしか分からない場所』に隠しにいった。
茜の弱点はぬかりなくしっかりと握られたままである。
「……いた」
ぽつりと狩哉は呟く。
職員室の片隅、窓際の席に、目的の人物がすぐに見つかった。
一番最後に入ってきた世音が口の端を一瞬嬉しそうに歪めて、すぐにすました優等生顔を造り、すたすたと奥へ進んでいく。
その人物は飲んでいた緑茶の湯呑みをデスクに置いて、怪訝そうに世音の顔を見上げた。
目が合った世音はぴったり斜め四五度、丁寧に頭を下げ、おずおずと言う。
「お仕事お疲れさまです、坂月先生」
笑顔の世音を見て、神経質そうに彼女――
――坂月先生は、眼鏡のフレーム位置を直す。
「羽原さん……? 何か用かしら。視聴覚準備室なら、いつも通り利用していいのよ」
「しっとり先生ヅラしてるんじゃないわよこのアバズレ」
茜も怖がる魔的(デモニッシュ)ウィスパーボイスで、世音が囁いた。
先生の目から、感情が消えた。
黄昏の色が冷たく、眼鏡に反射する。
狩哉達も世音の後ろに追いつき、二人の間に流れる、異様な気配を感じ取る。
「……どうしちゃったの、羽原さん。優等生の貴方がそんな汚れた言葉使いをするなんて」
「とぼけるつもり? 話は全部、茜ちゃんから聞いてるのよ」
「……あら。じゃあもう誤魔化しは通用しないのね。それとも、トチ狂ってお友達にでもなりにきたのかしら?」
柔和で穏やかだった先生がだらしなく椅子に寄りかかり、足を組んだ。
――タイツの光沢が生々しく色っぽい。
清純なイメージだった分、余計にギャップが際だつ。
対して世音は、汚物を侮蔑するかのように見下ろしながら。
「アンタが私を誤魔化せたことなんて、一度も無いわ。坂月先生――いや、『バビロンの大娼婦』」
冷淡に、天上から見るような透徹した目線で告げる。
「…………」
先生はおもむろに右腕を伸ばし、パチン、と指を鳴らした。
艶めかしさにうっかり狩哉の胸が高鳴り、視界がピンク色になった。
それはもう、林家ペーパーもびっくりの真っピンクだった。
(え、俺そんなにエロいこと考えた?!)
自分の妄想が現実を浸食してしまったか、と狩哉は思ったが違った。
実際に背景が、床が、天井が、見える光景の全てが、ピンク色に染まっていたのだ。
職員室内の備品だけはそのままに、僅かに残っていた教師達は時間が止まったかのように動きが停止している。
――いや、本当に時が止まっているのだろう。
壁にかけられた時計の秒針もぴたりと止まっている。
日常を一瞬で塗りかえるほどの速度で、彼女の終末の空隙(エスカ・トロス)が展開されたのだ。
「本当に先生も私達と同じ……」
「アレゴリーでいらしたのですね……」
弓華と小坪が、白と黒の光を纏わせながら先生を睨んでいる。
「……あーはぁん?」
無無美は先生の色気に呼応していた。
「すみません先生、ばれちゃいました……」
申し訳無さそうに、茜が頭を下げる。
その背に生えた七つの竜の首も、目を潤ませて頭を下げる。
「うん、ごめんなさいねみんな。騙したくは無かったんだけど、私もアレゴリーなの」
優しく微笑む先生だが、艶やかな唇から漂ってくる雰囲気は癒しではなく淫蕩さである。
「それも、黙示録のだーいぶ後の方のね」
世音が解説係のように補足する。
『バビロンの大娼婦』、あるいは『大いなるバビロン』は、ヨハネ黙示録第十七章に登場するアレゴリーである。
『汚れた霊の巣窟』とまで形容されるバビロンの大娼婦は煌びやかな女性として顕され、手にした黄金の杯に姦淫の罪を満たす、女性的な邪悪の象徴だ。
歴史上様々な故事の暗喩として描かれた『彼女』も、こうした実体を持つ存在であり、そして狩哉達の同類であった。
――といっても。
「黙示録の四騎士が通う学校で、国語の先生やってるなんて誰が思うかよ……」
狩哉は誰に言うでも無く、呟く。
四騎士に古き蛇、バビロンの大娼婦。
教師まで含めると、六人ものアレゴリーが、同じ場所に揃っていたことになる。
その上、ここには預言者ヨハネまでいた。
天上にも地獄にもあり得ない複雑な混沌が、この学校には溢れている。
「気づかない方がバカだって言ったでしょ、バーカバーカ最先(いやさき)から最後(いやはて)までバーカ」
狩哉を嘲りながら、わざと他の四騎士の方も見ながらバカを連呼する世音。
他人を凹ませる才能が無いと、預言者の資格は得られないのだろうか。
神も人が悪い。
「気づける貴方が特別な変人なのですわ……先生は私達への接し方も、普通の人間そのものでしたし」
吐き捨てる小坪に、先生は笑いかける。
「今でもみんな、私の可愛い生徒には違いないのよ、玄野さん? 勿論、真田さんもね」
「ひ……」
茜が怯えた目で小坪の背中に隠れる。なんだかんだで頼りにされている小坪先輩だ。
「茜ちゃん、アンタはこの人に何て言われたんだっけ?」
動じない先生と対峙したまま、世音は毅然として茜を促す。
「せ、先生は、迷っていた私にアレゴリーのことを教えてくれました。アレゴリー同士が協力して、世界の終末を早めさせようって――四騎士は頼りにならないから、二人で世界を終わらせようって」
茜は小坪の背中から顔を半分だけ出して、びくびくしている。
「そうだったわねぇ、真田さん。私はきちんと自分の『名前』を語って、真田さんに協力を仰いだつもりだったのに。裏切られた気分だな」
先生は茜を見つめながら、これ見よがしに足を組み交わす。
悲しいが目を離せない。
「ふん、アンタは茜ちゃんの名前は敢えて言い当てなかったんでしょ? 目覚めのタイミングを意図的にズレさせるために。違う?」
「すっごい、大当たりよ、羽原さん。さすが若くても預言者ヨハネの一人ね」
さらりと自然に、先生はその名を口にした。
「……先生は、世音がヨハネだって知ってたんすか!?」
声を上げた狩哉も、四騎士達も茜も面食らっていた。
「え、ええ……一応ね。まあいいでしょ、そのことは」
何故か先生の表情が途端に曇った。
世音が気にせず続ける。
「茜ちゃん、アンタは協力を仰がれたんじゃないわ。この女に利用されただけよ。そこの大娼婦は、わざと狩哉達四騎士の周囲で、茜ちゃんにストレスが向かうようにし向けた。憤怒の元に目覚めた古き蛇の力で、邪魔者を消し去ろうとしたの」
「り、利用……? 先生は、仲間だって言ったのに」
ぎゅっと小坪の袖を掴み怯える茜。
「邪魔者って、僕達四騎士のこと? どうして、同じアレゴリーである先生が僕達を邪魔者扱いするの」
混乱している弓華だが、狩哉はすぐに気づいた。
「……違う、弓華。先生が世音の正体まで知っていたのなら、邪魔だったのは世音の方だ。それに同じアレゴリーといっても、俺ら『四騎士』は天の法に従って破壊を行う者。けど、『古き蛇』と『バビロンの大娼婦』は違う。天に呪われ、黙示録の中では滅ぼされる存在だ。終末を訪れさせるという大目的は同じでも、相入れない部分もあるんだよ」
「狩哉のくせに勘が鋭いじゃない。確かに、先生の目的は私よ。新しい預言がアンタら四騎士や人間にもたらされれば、自分達が不利になる可能性だってあるものね」
へらへらと笑う世音。
そこまで知っていて、この余裕は何なのだろう。
「預言をねじ曲げて、自分達に都合のいい終末をもたらそうというのですか! なんという破廉恥な!」
茜の頭をよしよしと撫でながら、小坪は侠気に任せて憤る。
「破廉恥で結構。『バビロンの大娼婦』が、ただ黙示録に従うだけの盲目な存在だと思わないことね……」
先生がまたしてもこれ見よがしに足を組み替えて、眼鏡の奥で目を輝かせる。
飲み込まれそうな色気だったが、世音は呆れていた。
「アンタねー、そのキャラ……まあ、いいけどさ。茜ちゃん、もう分かったわね? この女の目的は私を倒すこと。そのために茜ちゃんは目をつけられて、校舎裏で救いの無いDQNどもに襲われたのよ。あいつらに茜ちゃんが悪戯の犯人だって教えたのも、この女なんだから」
「あの人達を、先生が……!」
乱暴されかけた茜は鮮烈なトラウマが蘇ったようで、震えながら無意識に、小坪の腕に爪を食い込ませていた。
小坪は相当痛いはずだが、声一つ立てない。
先生は艶めかしく唇を指でなぞり、流し目で茜を見た。
「ごめんなさいね、真田さん。貴方の悪戯の悪質さが知れ渡ってる状態で、あの騒ぎを起こせば、確実に貴方は『古き蛇』の名を思い出すと思ったの。すでに貴方と出会っていた羽原さん達なら、それを食い止めようとするはずだったから」
暴走するアレゴリーとアレゴリーを鉢合わせさせての、同士討ち計画。
イスカリオテのユダ級の悪質さだ。
「世音といい先生といい、考えることが下劣すぎるだろ……」
「僕、学校の先生って聖職者だと思ってた……」
狩哉は女性不信、弓華は教育者不信に陥りかける。
茜も今にも泣きだしそうだ。
すっかり泣き虫になってしまった人類の敵対者である。
うっとりしている無無美は心底どうでもいい。
「せこい真似を考えるわね、アレゴリーごときが……ま、アンタの思惑とは違って茜ちゃんは私の軍門に下ったけど?」
嘲笑する世音。
軍門というか、隷属であるが。思考まで堕ちたつもりはない。
「そうね、計画が上手くいかなかった以上は私もいらぬ韜晦などしていないで、本当の力でお相手しなくてはいけないようね……」
そう言うと先生は、自分のデスクの上にあった緑茶の湯呑みを手に取った。
湯呑みは先生に触れられている部分から、みるみる黄金色に染まって輝いていく。
大娼婦が手に持つという黄金の杯、その東洋バージョンであろうか。
中に入っていた緑茶は、白濁したピンク色をした謎の液体に変化し始めた。
「ふん、お気楽にティータイムでも始めちゃうのかしら? 大娼婦さん」
アレゴリーの力の発現を目の当たりにしながら、世音は一切気勢を削がれない。
「湯呑みだと、大娼婦と言うよりぬらりひょんですわね」
どうでもいい比喩を小坪が口走る。
時の止まった職員室を、さらなる静寂が襲った。
「小坪……前から思ってたけどお前、思いついたこと全部言っちゃうタイプだろ」
「スベった人間に追い打ちをしないで下さいまし!」
真っ赤な顔で声を荒らげる小坪。
湯呑みを持ったまま、先生は硬直している。
「えーと……始めていいのかな私」
「気にしないで進めちゃって下さいー先生。僕らはいつものことなんで」
弓華が一人、謝罪する。
場の空気をグダグダにしておいて「進めろ」というのは無茶振りにも程があるが、先生には若手さながらの勇気があるようだ。
何の話だ。
「そちらがいいと言うのなら……」
気を取り直した先生は、おもむろに湯呑みに人差し指、中指、薬指の三本の指を浸す。
熱いどころか涼しそうな、気持ちよさそうな顔をしている。
「わはー……先生もドMなんだ。私、頑張ればどっちも行けるけど、どうせならSが増えてほしかったなー」
残念そうに無無美はフェティズムを放り込む。
「ち、違うわよ!」
さすがの先生も顔を赤く――
――どころか、たちまち耳まで真っ赤になった。
セクハラを受けた田舎の中学生のようだった。
「じゃあ隠れS?」
「MとかSとかそういうんじゃなくって……! ああもう、説明するよりこれを見なさい!」
赤面したまま先生は、手を振り上げて、思い切り指についた白濁ピンクの液を飛ばしてきた。
(なんかきたねぇ!)
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