第20話 リビドーの果てに

 反射的に、狩哉はその液を避けた。

 狩哉以上に弓華達は嫌悪感を覚えたようで、顔を歪ませながら避けている。


 唯一自分から当たりにいった無無美が世音に襟を掴まれて引っ張られ、尻餅をついた。

 虚空を切った三滴の液は、狩哉達を囲むように落下。

 小さな水たまりとなる。


(何だ、あの微妙に卑猥な色の液は……?)


 狩哉が注視していると、水たまりは波紋を伴いながら拡がり始めた。

 床の上に置いた巨大な氷が急速に溶け出しているようにも見えるが、勿論ここに氷など無い。


 液体の質量は、物理法則を無視して肥大、いや『成長』している。

 マンホール程度の幅まで大きくなった液体はぶくぶくと泡立ち、盛り上がり始めた。


 それはやがて狩哉達と同じ程の背丈になり、植物のように手足が生えてくる。


 茜が星から悪魔達を呼び出した光景に似ている。


 盛り上がった液体は、完全に人の形を取った。

 服まで着ている。


 いや――人どころか、それは知っている顔だった。


「そ、その人達は、校舎裏にいた怖いお兄さん達!」


 茜が一層怯えている。


 そう、そこにいたのは、白濁ピンクの粘液に包まれた、あの不良生徒三人だったのだ。

 白目を剥き、正気も生気も一切感じられない。

 油まみれかと思うほど肌がぬるぬるしている。


 絶対に素手では触りたくない。


「え、あの人達って茜ちゃんに殺されちゃったんじゃないの?」


 弓華が余計なことを思い出す。

 茜が終末の空隙(エスカ・トロス)を展開させたときに、彼らは消えていたはずなのだ。


(追求するとなんか怖いから、スルーして触れないようにしておいたのに……)


 茜の力で粉微塵に消滅させられたのだろうと狩哉は思っていたのだが、茜はぽかんとして小首を傾げた。


「私、殺してなんかいません。記憶が目覚めて、終末の空隙(エスカ・トロス)を拡げたら、そのときにはもういなくなってましたから」


 茜は手を下してはいないのか。

 死んでいたとしても自業自得ということで片づけようと思っていたので、狩哉は不謹慎ながらも安心する。


「それでは、私達を睨むこのぬるぬる三人組は何なのですか?」


 小坪が茜の顔を見るが、茜は無言でぶんぶん首を横に振る。


「茜ちゃんに吹っ飛ばされる直前に、この女が助けたのよ。こいつらは道具に使うには丁度いいバカ男達だったから」


 世音が倦厭そうに男達と先生を見比べる。


「またまたご明察よ羽原さん。私は、私に見取れた人間なら、肉体も魂も取り込んで手先として使える。それが汚れし者の王『バビロンの大娼婦』の力」


 道具には情など無いということなのか、先生はぬるぬる三人組には目もくれない。


「ああ、やっぱりSなんですね!」


「それは違うって言ってるでしょ!」


 無無美の言葉にまた顔を赤らめる先生。この二人、相性が良いのか悪いのか分からない。


「それにしても気色悪い……近寄るのも遠慮したいですわ」


 小坪はあからさまに不快な顔でぬるぬる三人組を見ている。


「先生、道具っつったって、こいつらただの人間だぞ。ただの人間で四騎士相手に勝てるとでも思ってるのか?」


 竹刀を構えた狩哉が、赤の光を纏う。

 同調するように、弓華と小坪もそれぞれ白と黒の光を纏う。


 無無美もここに来てようやく、第四の騎士としての蒼白い光を身に纏っていた。

 先生は何故か、不自然な量の汗をかきながら。


「ふ、ふふ。甘くみないことね。彼らはもう私の一部と言っても過言は無いわ――ほら、こうすれば」


 チラッ。


 先生はブラウスのボタンを開けて、胸元を晒した。

 ――ぷるんと白い柔肌だ。


「っ!」


 狩哉の目が釘付けになる。


「わ、見ちゃ駄目狩哉! 男の子は駄目!」


 慌てて後ろから目を塞いでくる弓華。


「お前も男だろうが! おい、ちょっと離せって! 勿体な――じゃなくて臨戦態勢なんだから!」


「……サタにゃんはああなってはいけませんよ。変態に対しては、観察する側にいなくてはなりません」


「は、はい、先輩」


 小坪と茜の嫌なヒソヒソ話がよく聞こえてくる。

 世音が呆れる気配と、無無美の荒い息づかいも肌で感じる。


 ようやく狩哉が弓華の手をふりほどき、もう一度先生に向き直ろうとするその視界に、異様なものが映り込んだ。

 ぬるぬる三人組の一人の体表が、白濁ピンクどころか煙を噴いて赤熱化していたのだ。

 狩哉の荷電粒子竹刀に少し似ている。


「な、何だ……どういうんだ? 常軌を逸する汗っかきか?」


「う……うう……うおおおぅおおおおっふ!」


 ぬるぬる男が哮る。


「狩哉、防御(ガード)しなさいッ!」


 世音の声に狩哉がハッと竹刀を掲げる。荷電粒子の刃が瞬時に肥大化したその直後――。


 ぬるぬる男子は、爆音と共に炎上した。


 天井にまで火柱が噴きあがり、衝撃と高熱の波が狩哉を襲う。


「ぐ、おおおおおっ!」


 狩哉は全力で竹刀を振り下ろす。

 音速を越える速度で空を切った竹刀、その剣先に生じた衝撃波に乗せて、狩哉はわざと荷電粒子を固定する力を解除。


 赤光の刀身が飛び出して爆炎に干渉、打ち消しあう。

 反動と爆風によって職員室内の空気が鳴動し、近くのデスクが燃えながら煙をあげる。


 後ろの弓華達や時が停止した教員達までにはダメージは伝わっていないようだが、狩哉は手の甲に軽い火傷を負ってしまった。


「人間爆弾かよ……! 卑劣なやり方ばっかりしやがって、畜生」


『バビロンの大娼婦』の力を目の当たりにしたことは無かったが、これがその力なのか。


 くすり、と先生の嘲笑が聞こえた。


「朱見くん、私は汚れきってるアレゴリーだけど、自分の手は汚さない主義なのよ」


「か、狩哉、前見て前!」


 弓華が爆風を指さす。


 しゅうしゅうと噴き上がる煙の中に、人影が立っていた。

 炎上したはずのぬるぬる男子一号が、「ふう」と肩で息をしながら呼吸を整えていた。

 赤熱化は解けている。


「スッキリした顔しやがって……」 


 こみあげる不快感と嫌悪感。


「死んではいないようですが、あの爆発の中でどうやって……?」 


 小坪が怪訝そうに先生を見やる。


「四騎士のみんなに力をお披露目するのは初めてだったわね。私は男子の内に溜めこまれたリビドーを発火作用点とし、爆発力に変換することが出来る!」


「アンタ見てムラムラした奴をエロ爆弾にするってことね?」


 世音が身も蓋も無い要約をする。


「た、確かにそういうことなんだけど……相変わらず下品なヨハネね……」


「爆弾になった人、ぴんぴんしてるよ~……?」


 弓華はよっぽどぬるぬる男子が気持ち悪いのか、視線を合わせようとしない。


「本人の汚れたリビドーが失われない限り、爆弾としての性能は落ちない……つまり死なないようにしてあるわ。それが『バビロンの大娼婦』の、汚れた霊の王国よ」


 勝ち誇った笑みを浮かべようとする先生だが、


「常にアンタがフル○起させなきゃ駄目ってことじゃん」


 あっさりと言う世音に、笑みも引きつる。


「も、もっとオブラートに包んだ言い方は出来ないの!? 黙示録ってもっとこう、寓意と比喩に富んだ、暗号的な内容でしょうが!」


「文書にするときはそうするわよ、最近規制規制ってうるさいしさあ、適度に誤魔化さないと引っかかるし」


(誰が規制して何に引っかかるんだ……)


 狩哉の知らない新条例が天上で通ったのだろうか。 


「世界中のスケベ男どもを『爆発しても無くならない爆弾』に変えられる力――確かに恐ろしいですわね」


「うう、地獄絵図ですね先輩」


 小坪の言葉に、地獄の王が顔を歪める。


「…………」


 無言だった無無美も、何故か不快そうに顔を歪めていた。


「ほ、ほらほら。さっき程度の爆発力で満足されちゃ困るわよ。高校生男子の溜まりに溜まった爆発力はとんでもないわよ!? いくらでも最高にハイっちゃうんだから!」


 先生の口上も大分ヤケクソ気味になってきている。


「ふん、どんどんやりなさいよこのエロ教師。アンタが平気なら、だけど」


 決して崩れない世音の余裕に、先生は唇を噛む。


「や、やれるわよ! やれるもの!」


 先生は目を血走らせながら羽織っていたカーディガンを脱ぎ、こちらに投げ捨ててよこした。

 ぬるぬる男子達がぴくりと反応を示す。


(白目剥いてるのに何が見えてるんだあいつらは……)


 エロスは魂で感じるものなのだろうか。隣人愛(アガペー)は皆無だったくせに。


「ほ、ほら、これはどう?」


 先生はカーディガンの下のブラウスも脱ぎ捨て、こちらに投げてよこした。

 清潔そうな白いブラが丸見えだ。


 言葉とは裏腹に、先生は顔も耳も、背中までも真っ赤である。


「なんとー!」


 ぬるぬる三人組が大きく両手を上げて歓声を上げる。

 高校生男子としては自然な反応ではあるのだが、狩哉は同じ男として恥ずかしい。


「狩哉は見ちゃ駄目だったら!」


 またしても弓華に目を隠される。


「こらこらこらこんなことしてたら爆発する爆発ー!」


 弓華の手を振り払ったときには、ぬるぬる三人組はすでに真っ赤に赤熱化していた。


 爆発力が無限に近いとはいえ、狩哉が本気で荷電粒子竹刀で斬りかかれば殺すことは可能だろう。

 弓華の極低温の矢や小坪のブラックホール、茜の力場でもそれは確実だ。


 だが。


 人間を殺すことだけは、絶対に世音が許さない。


 狩哉達四騎士は世音と出会って以来、耳にタコが出来るほど聞かされてきた。


 今も狩哉達を見据えていた世音は、口癖のように言っていたその言葉を口にした。


「アレゴリーなんかに人間は殺させない。終末なんかに人間は負けない」


 厳格に毅然と、世音は先生を睨み返す。


「人間の分際で世界の終わりから逃げられると思っているのは哀れだわ、羽原さん!」


 先生が鋭角的に目をつり上げて笑う。

 世音の近くにいたぬるぬる男子が、「うおおおおっふうん」と奇声を上げた。

 顔から煙が噴き上がっている。ここから走っても間に合わない。


(しまった!)


 ぬるぬる男子の体から火柱が上がる。先程の男子とは比べものにならない熱量であることが、見ただけで分かる。


 狩哉は咄嗟の判断で爆発が世音に届く寸前に、竹刀の荷電粒子を肥大化・伸展。

 真横から爆炎を切り上げるが、元々防御向きではない狩哉の赤光の竹刀では衝撃を防ぎきれない。


 世音は爆風の余波で、悲鳴すら上げずに後方に吹き飛ばされた。 


「世音ー!」


 叫びながら手を伸ばし――

 狩哉はふと思う。


 叫ぶ必要があるのか。

 叫ぶ理由があるのか。


 世音は狩哉達四騎士にとっても目の上のたんこぶであるはずなのに。

 か細い世音の体が宙を舞う姿が、どうして狩哉の心を引き裂くのか。


 それでも狩哉は駆け抜ける。眼前に爆風が迫る。


 その刹那。


「狩哉に手を出すなあぁぁぁー! その男は、オレのものだあああぁぁぁー!」


 弓華が気になることを叫んだ。


(今何て!?)


 聞き返す暇の無い狩哉の頭上を、白光の矢が何本も通り過ぎる。

 床に突き刺さって格子のようになった矢が干渉しあう光によって、もう一人のぬるぬる男子が発した爆炎を防ぐ。


「ぐ……!」


 しかし弓華の矢も、防御に向く能力ではない。

 矢と矢の僅かな隙間から逃げてきた爆風が、狩哉を真横に吹き飛ばす。

 床に顔面が擦れ、激痛が走る。


 転がりながら、小坪とその背に隠れる茜の様子が見えた。


 もう一人の体から生じた爆発と爆風を小坪がブラックホールで吸い込み、抑え込んでいる。

 小坪の力ならそれも可能だが、相手の体を吸い込んでしまっては人間を殺すことになってしまう。

 また茜の力『月光背』では、爆発ごと三人の人間を巻き込んでしまう。


 皆、最強の力を持ちながら自由に動けない。


「ちきしょう、人間ごときがよ!」 


 負け惜しみを言うファンタジーの敵役のような台詞を吐きながら、狩哉は何とか立ち上がって猛然とひた走る。

 世音は、仰向けに倒れていた。


 所々制服やスカートが破れて、年齢の割に薄い乳房が露わになり、腕や足には小さな火傷が出来ている。伸びやかな亜麻色の髪も乱れ、一部はチリチリに焦げていた。


「おい世音、生きてるな?! 負けないんだろ、人間は終末によ!」


「う……」


 細い喉から呻き声を漏らしながら、虚ろに狩哉を見上げてくる。

 意識はあるようだ。


 狩哉が上半身を抱き起こしてやると、苦しそうに顔を歪める。 


「お前なあ……自分の身一つ守れないくせに相手を挑発すんなよ。おっぱい出てるぞ」


「見るなバカ……前線で戦う聖人なんてジャンヌ・ダルクっぽいでしょ……?」


 胸を火傷した腕で隠し、満身創痍ながらも不敵に笑うことを忘れない世音。


「うるせえよ、たかが人間が。ジャンヌ・ダルクじゃ焼死しちまうだろ」


「黙りなさい……アレゴリーごときが。真の聖女である私が、簡単に死ぬもんですか……」


 口が減らないのも変わらない。

 気勢も戻ってきたようだ。


「狩哉! 次が来るよ!」 


 弓華の声に振り向くと、先生はスカートまで脱いでついに全身下着姿になっていた。 

 おさげ髪を留めていたゴムも外して、ふぁさり、と髪が舞う。


「さ、さあどうかな、あられもない先生の最高の艶姿よ」


 ぎこちなく言いながら、男子達の方には視線を向けない。


「何でウインクとかしないんだろ……目線って結構エロいと思うんだがな」 


 非常時にどうでもいいことを口にしてしまったが、世音は「あは」と愉快そうに吹き出した。


「へー……狩哉も気づいた? あのド淫乱教師、無理しちゃって」


「は?」

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