第5話 先生
地獄の時間は終わった。
いや、地獄の住人に文句は無い。
世音に根堀り葉堀り今まで食べたパンの数まで訊かれ、あること無いことあってはならないことまで自分達のせいにされて、狩哉達はすっかり疲弊していた。
無無美だけは興奮疲れだったが、日本の領土問題まで四騎士のせいにされかけたのだからたまらない。
視聴覚準備室を出る頃には、全員の顔から生気が失われてまるで死神だった。
(まあ元から人間にとっては死神みたいなもんだけど)
疲れに重なって、ぐう、と狩哉の腹が巨獣(ベヘモス)の寝息のような音を立てた。
「あーやばい、腹減って倒れそう」
「あれ、狩哉お昼食べてないの? マックでも寄ってこっか?」
「そうだなー。あんまり金も無いし、ハンバーガーぐらいが手頃だな」
「私はミスドを所望します」
「甘い食べ物じゃ腹が膨れねーんだよ」
「私はカラオケがいいわねーわっはは」
「お前人の話聞いてた?」
意見を戦わせていると、世音から侮蔑の視線が向けられていた。
「アンタら、本当にただの人間みたいな会話ねー。アレゴリーも地に堕ちたもんだわ恥を知れ俗物」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ……」
抗するのも虚しいが、一応狩哉は言い返す。
「堕天使の子達はハンバーガー好きじゃなかったっけ? 朝食もパン派の子が多かったし」
純粋な顔で割り込んでくる弓華。
話が脱線する上に進まない。
ぐだぐだ揉めていると、廊下の向こうから人がやってきた。
世音の瞳に鋭い緊張感が走る。
ただの四方山話とはいえ、狩哉達の正体を含んだ会話は訊かせたくないのだ。
狩哉達も口をつぐんで待っていたが、近づいてきた相手の顔を見て安堵のため息を吐いた。
「わ、坂月先生だ! こんにちはー」
パッと弓華の顔が明るくなった。
「あら、白倉さん。こんにちは。それに羽原さん達も。今日はお勉強会だったのかな?」
坂月住子(さかつきすみこ)先生。世音の担任である女性教諭だ。
目立たない紺のカーディガン。
目尻の下がった、少々頼りないが優しげな風貌。
薄く茶色いおさげ髪に、ベージュ縁の眼鏡。
担当は現代国語で、好きな作家は村上春樹と安部公房。
二十代後半のはずだが、垢抜けない印象からもっと若く見える。
制服を着ていれば学生に紛れ込めそうだ。
「はい、坂月先生。今日も楽しく仲良く、みんなで学習を進められました」
はきはきと明朗に世音が答える。
(楽しく仲良く……? どの口が言っているんだ)
つい卑屈な視線を向けた狩哉を、世音は一瞬だけ睨み返した。
狩哉が狼狽した瞬間にはもう笑顔である。
「みんな真面目ね。羽原さんが見てくれてるのなら、成績の方は安心だな」
ふわふわした口調で、先生は感心する。
その自然な笑みに、小坪と無無美は目配せしながらも苦笑していた。
嫌そうでは無い。
勉強会というのは説明するまでもなく世音の方便で、世音に視聴覚準備室の利用を許したのも先生だ。
あっさり騙されている坂月先生を、もっとみんな恨んでも良さそうなものだが。
(なんか憎めないんだよな、この人)
現世の人間に満ち溢れている煩雑な邪気を、殆ど感じられないからだろうか。
四騎士の面々は、妙に先生には懐いていた。
狩哉も最後の審判の際は、ぜひ坂月先生を選んであげて欲しいと密かに願っている。
私情を挟むのは禁物だが。
……ただの人間に脅されたり懐いたりするのは、さらに問題かもしれないが。
「先生は何やってるんすか? 校内の見回りですか?」
「うん、そうなの。最近、この学校近辺で不審な悪戯が増えてるでしょ? 自転車をパンクさせられたり」
先生の表情に陰が差す。
教員をやっていると、学業に関係の無いイレギュラーな問題に関わるのは相当なストレスになるのだろう。
「俺も今朝は自転車がパンクしてたんだよなあ――ま、関係無いかな、俺のは」
「朱見くんも!? 学校の駐輪場でも、何台も自転車がパンクさせられてたのよ。町の方でもうちの生徒の自転車ばかり狙われて、パンクさせられてるみたいだし」
「マジすか……?」
そういえば今朝、校舎裏に集まって生徒を脅していた奴らは「駐輪場で~」と口にしていた。
脅されていた生徒が悪戯をしていた、ということになっていたはずだ。
なるほど、このことだったのか。
「そうだ、僕も一昨日自転車のサドル盗まれたんだった。弓道着盗まれた子もいるみたいだし、困った人がいるもんだねこの世の中……」
弓華の声色が微かに高くなる。怯えているようだ。
(お前は全人類に怯えられる側だろ)
先生の前でツッコみそうになった。
「白倉さんもなの……怖いわね。その日はちゃんと家に帰れた?」
「はい、ブロッコリーをサドル代わりにして問題無く帰れました!」
「まあ、それは良かった」
朗らかに笑いあう二人。
(何でブロッコリーがあったんだ?)
訊かないことにした。
「私の靴にガムが入っていたのも、同じ不埒者の悪戯でしょうか? 万死に値しますね、その愚か者は」
そういえば、小坪も謎の悪意の犠牲者だった。
「玄野さんも? 羽原さんと蒼木さんは大丈夫?」
「私は大丈夫です。日頃の行いが良いですから」
世音が何か言っているが、狩哉はもう視線すら向けない。
「今のところ何も無いけど、私の業界ではご褒美だわねー」
無無美はもう何を言っても戻れない気がした。先生も笑顔が引きつっていた。
「せ、先生も気をつけるし、早急に職員も対応するから、みんなもおかしな人達には気をつけるようにしてね。色んな人がいるから」
「はーい」
全員が威勢よく返事する。
「坂月先生~」
廊下の向こうから男の声がした。
破顔して頷いた先生の後ろの方に、見覚えのある男性教師の姿が見えた。
同学年を担当する、坂月先生にとっては同期の若い教師だ。
ハッと息を呑んだ坂月先生は、振り返らずに表情を固まらせる。すっかり赤面して、目が泳いでいた。
「先生、呼ばれてますよ」
世音が促すが、先生はふるふると首を振る。
「う、ううん。いいのよ、気にしなくて……」
「坂月先生~、お電話が入ってますけど~」
男性教師がしつこく声を上げる。
狩哉が怪訝に見つめるが、先生は耳まで朱に染めてやはり振り返らない。
こんな先生は初めてだ。
「…………うぅ」
もじもじしている先生をしばらく眺めて、男性教師は小さく肩を落とし、
「……今は出られないって伝えておきますね~」
行ってしまった。足音が遠ざかるのを待ち、先生はホッと息を吐く。
「じゃ、じゃあ。私も行くわね。何かあったら、すぐに言ってね」
震える声で告げて、先生も足をもつれさせながら去っていった。
右手と右足が同時に出る人間を狩哉は久しぶりに見た。
奇跡の復活を目の当たりにした使徒達がこんな感じだった気がする。
奇妙な沈黙が、狩哉達四騎士と世音の間に流れる。
「なんだあ……? 先生、変だったな」
「本当に何なんでしょうか? 死に至る病でしょうか。天然痘とか」
小坪が頷きながら、不穏なことを口走る。
「小坪ってば、天然痘は表向きには滅んだことになってるわよ」
無無美もにこやかに、気になることを口走った。
「ったく……アンタらは人の何十倍以上も生きてるくせに、鈍いわねえ」
「本当だね。異性の心を分かってないね」
世音と弓華は一緒に呆れている。
弓華から見た異性とはどちらのことなのだろうか。
(何千年生きようと、分からんものは分からんつーの……)
狩哉は胡乱な気分で
「へーへー」
とだけ返し、空腹だったことを思い出した。
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