第八話
夜半、寒々とした月の光を浴びながら律九珠は呆然と縁側に座っていた。
目の奥に見えるのは引きずられながら見た血まみれの兄の姿だ。倒れたまま動かない六番目の兄に清儀と簫無唱が駆け寄って点穴を施し、内功を注ぎ込んでいる光景は、しかし人混みに遮られてすぐに見えなくなる。あの場から律九珠を連れ出したのは清丈だった。清丈は寺の門を跳ね飛ばすように開けて律九珠を中に押し込むと、本堂から離れた小屋に直行した。指の傷の手当てが終わっても二人は一言もしゃべらなかったが、それでも清丈は律九珠の傍を動かなかった。
しばらくして外が騒がしくなると、清丈ははじかれたように小屋を出た。それから半刻ほどして戻ってきた彼女は、
「お兄様はまだ生きておられます」
と震える声で言った。
律九珠は首を少し動かしただけで何も言わなかった。清丈はその場でじっと立っていたが、やがてため息をつくと再び小屋を出ていった。
あの瞬間、律九珠はたしかに剣そのものだった。指先に確かな力が宿るあの感覚は実際に剣を持っている感覚と全く変わらなかった。ただ、兄たちの勢いに飲まれて制御が利かなかった――果し合いのような手合わせを常に求められた昔の感覚が無意識のうちに戻っていたのかもしれない。だが、あの瞬間、己を律するために費やしたこの一年間の修行、簫無唱と過ごした一年間の日々を彼は塵芥のように崩してしまった。勝ちか負けか、生か死かの二択に返っては元も子もない。
その後は清儀が様子を見に顔を出し、清丈が来て夕餉はどうするか尋ねたが、律九珠は首を横に振るばかりで何も答えなかった。簫無唱は姿を見せなかった。誰も何も言わないということは六哥はまだ生きているのだろうと律九珠は思った。そして「だからどうした」と呟いた。こんなことをして他の兄たちと律峰戒が黙っているわけがない。次は誰が来るのか、誰を傷つけなければならないのか、考えただけで心窩が薄ら寒くなった。
青白い月に影を作っては消えていく雲の下で独り考えにふけっていると、背後に人の立つ気配がした。
「律九珠」
簫無唱の声がした。律九珠は答えなかった。彼女は今どんな顔で、何を思って自分に話しかけているのかと思うと振り返ることができなかった。
「お兄様は無事です。今は昏睡していますが、時間さえかければ必ず回復しますよ」
「……回復したところで、赦してもらえるものか」
昼の一戦以来、律九珠は初めて口を開いた。
「赦しですか。誰に赦してもらうのですか?」
「父上、六哥、それから他の兄たちに。……だが俺は全てを裏切って家の全員に楯突きました。きっと皆、赦してはくれない」
一日中考えていたことを口に出すと、どうしようもなく悲しくなってきた。こみ上げる嗚咽を飲み込んでも、目の縁に溜まる涙はなすすべもなくこぼれて落ちてゆく。律九珠は鼻をすすると締まる喉をこじ開けた。
「こんなつもりではなかったのです。こんな、こんな……兄に手を出すなど……兄と殺し合うなど、絶対にしたくはなかったのに、」
「ですが、律峰戒の野望のために誰よりも犠牲を払わされたのは貴方なのではないですか? 自分で用意した道に貴方を閉じ込めて、他の息子でさらに逃げ道を塞いで」
簫無唱が静かに言った。律九珠はしゃくり上げるばかりで返事どころではない。
「貴方が見た目通りの人ではないことは最初から分かっていましたし、清儀師太にもそのことは伝えてありました。清丈殿はあの場に居合わせて初めて知ったようですが、それでも貴方が秘密をばらされて窮地に陥っていると知らせてくれましたよ」
律九珠ははっと目を見開いた。脳裏に閃いたのは一年前、一敗地に塗れて醜態をさらした己を彼女が介抱してくれたことだ。律九珠が簫無唱の知らないところで彼女の過去を知ったように、簫無唱もまた律九珠の知らないところで彼の過去を覗き見、それを許容していたのだ。
「……でも、俺には剣以外に何もないのです。本当に、何の道も残されていない」
「剣の道しかなくとも、律峰戒に服従するのが唯一の道ではありません。なぜ律峰戒が名誉回復に固執しているか、それがたった一度の敗北によるものであることは貴方が一番よく知っているでしょう? 剣で天下を取れなかったばかりか二度と表舞台に立てなくなった、それが彼の語る剣の道の奥底にあるものです。だからその文脈でしか彼は剣を語れない。私が貴方に示したのは江湖にはもっと多くの道があるということです。それに貴方は実力もある。貴方が自分で見出した道を行けば、私が九天剣訣を編み出したように、いつか自分だけの剣譜を作り出せるようになるかもしれない。家の栄光などそれを思えばちっぽけなものです。今、貴方が律家と縁が切れたと感じるのであれば、その思いに逆らうべきではありません」
簫無唱が隣に腰かけたのが気配で分かる。律九珠は涙に濡れた顔を上げて師を見た。
彼女は笑っていた。律九珠が今までに見たどの笑顔よりも朗らかに、明るく笑っていた。
「己を律し、己の道を行きなさい。さすれば貴方だけの栄光が、貴方を真の宝珠とならしめるでしょう」
律九珠はついに声を上げて泣いた。簫無唱に肩を抱かれると、その体に取り付いて泣いた。
生まれたときから律九珠は男だった。兄たちに混じって剣を学び、男の服を着、男として育てられた。残る兄弟は無垢で幼稚な疑問を持つことすら許されず、ただ父が「男」と言う子を男と認め、弟と呼びならわした。唯一反対の声を上げた母親はある日を境に姿を消し、子どもたちは母親を話題に出すことを禁じられた。そして少女は女体を潰され、ここに律家九人兄妹の紅一点は消滅した。こうして律峰戒は理想の息子を手に入れ、律九珠は今まで以上に律峰戒に従うようになった。そうするより他に道がなかったのだ。しかし律峰戒によって強いられたこの道は、簫無唱との出会いで完全に塞がれ、途絶えてしまった。
簫無唱は自作の剣譜を破ることを条件に婚姻を受けると言い、実際に破られて公天鏢局の夫人となった。負け知らずの女侠は敗北と従属を知ったが、そこで彼女は終わらなかった。彼女の道が絶えた瞬間、それは公天鏢局が落ちた日に他ならない。
だが、途絶えた道の先に新たな道があるのだとすれば。律九珠は顔をどけて目元を拭うと、深呼吸をして簫無唱をしっかり見据えた。
「俺は律の名を捨てます。彼らと殺し合うしか方法がないのなら、俺の方から縁を切ると父上に言います」
「そうですか。これからは何と名乗るのですか?」
「……師父さえよければ、簫の姓を私にくれませんか」
律九珠が言うと、簫無唱は驚いたように目を丸くした。
「ですが、私のこれは本名ではありませんよ」
「分かっています。でもそんなことどうだっていい」
簫無唱はふっと微笑むと、「分かりました」と答えた。
「では、しっかり話をして、必ず帰ってくるのですよ。寂寧庵で待っています」
「……はい。穏便に済めばいいのですが」
「貴方なら大丈夫です。どうしてもと言うのなら剣を持っていくと良いでしょう……寧弟の剣がありますが、使いますか?」
そう言うなり、簫無唱は右手にふっと力を込めた。その手の中に現れた細身の長剣は月光をたっぷり受けて、再び抜かれるときを待ちわびているようだ。
だが、律九珠は首を横に振って剣を仕舞うよう簫無唱に促した。
「自分のを持っていきます。半分だけのあいつで話を付けたい」
「分かりました」
簫無唱は頷くと腰を上げた。律九珠も立ち上がり、師の顔をしかと見つめる。
「清丈殿によれば、もう一人のお兄様が騒ぎに紛れて逃げるのを見た者がいるそうです。彼が律峰戒に事を報告しに行ったとすれば、律峰戒もまたこの近くにいるのかもしれません」
「分かりました。ありがとうございます」
律九珠はそう返すと、拱手して一礼した。
「行ってまいります」
言い終えて顔を上げ、律九珠は寺の門へと足を向けた。不思議と心は凪いでいた。もしかすると言葉では足らず、また実力で相争うことになるかもしれない。それでも良かった。この一戦を限りに律家の誰とも戦わずに済むのならそれで十分だ。
律九珠は夜道を急いで寂寧庵に戻り、自室の卓子に置いたままの剣を手に取った。柄を握り、息を吸って吐く。刃の半分しかない剣を引き抜いた律九珠の顔には、恨みも、憎しみも、怒りも宿ってはいなかった。
この鎖を断ち切ってこそ宝珠は輝きを得るのだという確固たる確信だけが、ただ静かにそこにあった。
九珠の剣 故水小辰 @kotako
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