第七話

 律九珠は立ち止まり、二人組と対峙した。剣吞な空気に道行く人々が眉をひそめる中、片割れが口を開く。

「律九珠だな?」

 その声を聞いて律九珠は愕然とした。持ち上げられた笠の下は、紛れもなく律九珠と世界の中心をともにしていた兄の顔だ。

「……七哥? それに六哥も」

「そうだ。久しいな、九弟」

 溌剌とした目元を貫く古い傷跡に鬱屈とした空気をまとわせて、七番目の兄が答えた。傷跡こそないものの、横に立つ六番目の兄も同じ目をして律九珠をじっと見つめている。

「剣はどこにやった?」

 その兄の、高圧的ともとれる声音。この一年すっかり忘れていた律家の空気を律九珠は唐突に思い出した。

「置いてきた」

「手放したか、この恩知らず」

 吐き捨てるような口調に、律九珠はぐわりと湧き立つ怒りを必死で抑え込んだ。

「だからどうした。もう俺には律家に戻る理由がない」

「何故だ?」

「俺も失敗したからだ。律家にとって無用な人間に成り下がった」

 一年前は屈辱で仕方なかった事実がするりと口を突いて出る。しかし、この二人の兄たちの中では、それが未だに心の奥底にこびりついてくすぶっていた。だからこそ律九珠はそれを声に出して言った。そして予想したとおり、二人の兄は形相を一変させて末の弟を睨みつけた。

 しかし、

「お前という奴は……! お前の剣才を磨くために、父上がどれだけの犠牲を払ったと思っている! 父上は律家の血が絶える覚悟でお前に剣を取らせたというのに、その思いを裏切るというのか⁉」

 七番目の兄が放った思いもよらぬ言葉に、律九珠は頭を殴られたような心地がした。途端に青ざめたにしめたと思ったのか、六番目の兄も加勢する。

「七弟の言う通りだ。父上がお前にどれだけの期待をかけていたか分かっているのか? お前が女の体に煩わされることなく剣に全力を注げるよう、父上はあらゆる手を尽くしたというのに」

「……やめろ」

「それに、聞いた話ではこの一年間、尼寺で寝起きしていたそうじゃないか。親の恩も忘れて良い御身分だな、律九珠!」

「やめろ、俺は」

「家を出たときの威勢はどうした、? 父上がお前のために払った全ての犠牲と期待に応えると言った、あの言葉はどうなった? 律家のために全てを捧げると誓ったあの約束をたがえるつもりか?」

「やめろ!」

 律九珠はついに叫んだ。兄たちの視線が、周囲の視線が、ささやく声が、針のように全身を突き刺している。さらに悪いことに、群衆の中に清丈の姿が見えた――愕然と目を見開いていた彼女は、視線が合うなり人混みをかき分けて姿を消してしまった。そして彼女の行く先と言えば一つしかない。

 困り果てた律九珠は、震える息を吐き出して兄たちに向き直った。だが、どうにかしてこの場を乗り切らなければならないというのに、思考が痺れて何も考えられない。

「……六哥、七哥。俺に何の用だ」

 とりあえず問いかけたが、その声は覚悟していたよりもずっと弱々しく、頼りなく震えていた。

「聞いてどうする。お前を律家に連れて帰る以外に俺たちの出る幕があるか?」

「あの家にはもう俺の居場所はない」

「ないな。だが父上が藁にもすがる思いで育てたお前のことだ。特別に温情をかけてもらえるかもしれんぞ」

「それに、お前には父上に従うより他に道がないだろう。嫁ぐことも娶ることもできないお前に、他の選択ができるとでも?」

 嘲るような兄の言葉に、律九珠は即座にかみついた。

「ある。俺には師父が」

「師父? いつ父上以外の師を持った? ああ、もしかして尼寺の連中か」

 七番目の兄の傷跡が意地悪く歪む。律九珠はぐっと拳を握って怒りをこらえた。限界に近い頭には「不能打手を出すな」の字だけがぽっかり虚に浮かんでいる。

「たしかに尼寺は良い行き先かもしれんな。事情さえ言えば、お前のような者でも受け入れてはくれるだろう。まあ、お前が上手く馴染めるとは思えんが。寺の門番でもしながら枯れていくのが関の山――」

 六番目の兄が嘲笑したが、彼が最後まで言い終わることはなかった。ゴッ、と鈍い音がすると同時に、彼は鼻血を噴きながら後ろ向きに倒れ込んだ。

 群衆がどよめき、一斉に後ずさる。その輪の中心で、律九珠は血のついた拳を真っ直ぐ前に伸ばして立っていた。

「黙れ」

 低い声で唸る律九珠に、七番目の兄がじりじりと距離を取る。睨み合う二人が次の行動に出る前に、倒れていた六番目の兄が飛び起きて弟に殴りかかった。

「六哥!」

 一つ下の弟の叫びも聞かず、伸びた拳が末弟に向かう。律九珠は片脚を引いて避けると、その腕を掴んで反撃に出た。兄も負けじと掌を返し、二人は一手でも先に相手の隙を突こうと熾烈な攻防を始めた。

 もはや兄弟は語り合う言葉を持たなかった。

 律九珠は力で離反を宣言した。このまま力で押し通し、勝てば自由、負ければ地獄の賭けに出るしかなかった。負けて帰ってきた兄たちがどうなったか、律九珠は鮮明に覚えている。一番目から八番目まで誰一人として無事で済んだ者はいない。武功を絶たれるのは当たり前、それも少しでも嫌がったりやり直しを乞うたら拳骨が飛んでくる。事実、今ここにいる七番目の兄はそのときに負った傷のせいで今も片目がよく見えていない。瞼が裂けた跡もそう簡単に消えてはくれず、烙印さながらに残り続けている。

 律九珠を待っているもの、それは人生の断絶だった。どんな秘密を抱えていようと剣の腕さえ立てば江湖ではまず生きていける。そこから弾かれることがあれば律九珠は完全に八方塞がりだ。ついに剣を抜いた兄たちを空手でいなしながら律九珠は考えた。二人を殺すことはない。力の差さえ分からせて、縁を切ると伝えればそれで済む――父の言葉に逆らってでも敗北の泥沼から這い上がった己と、そのまま泥沼に沈んでしまった二人との差を見せつけてやればそれでいい。

 律家の兄弟は全員律白剣譜を使う。次々と繰り出される招式を受け、流し、避け、また自らも攻め込むことなど兄弟にとっては息をするようなものだった。だが、常に剣と剣で行っていたそれを律九珠は空手でやってのけた。二人の兄は剣を持たずに律白剣譜を使う弟に目を白黒させている。律九珠は確信した。内功と冷静な思考、これさえ保ち続ければどうとでもなる。

 兄たちは顔を見合わせることもなく、一様に剣を構えて腰を落とす。二人が地を蹴って刺突を送るのと律九珠が切っ先に身を投じるのとが同時だった。群衆がどよめき、二人の兄はぎょっと目を見開く。この躊躇で剣先が一様にぶれた瞬間を律九珠は逃さなかった。右手の剣指で片方の刃を挟み、同時に半身を翻してもう片方の攻撃をかわす。平衡の崩れた背中を左の手刀で打ち、剣を制した指先に内力を集めて手首をひねると、パキンという音とともに指に痛みが走った――放たれた衝撃に乗って後退すると、地面にぼたぼたと赤い軌道が描かれる。痛みに顔をしかめる隙もあればこそ、今度は手刀で倒した方が起き上がって襲いかかってきた。首筋を狙った横なぎの一撃を律九珠はのけぞって避け、続く数手を流して左手で兄の胸を打つ。衝撃を利用してもう一度距離を取り、次の一手に備える。兄がぐっと剣を引いて構える間に律九珠は血の滴る剣指を掲げて足を引き、二人は同時に地を蹴って相手に突進した。律九珠の指先に集まる内功が血の赤をまとって凝結し、一筋の剣となって襲いかかる。

 その刹那、正面にとらえた兄の目が据わり、剣が横たえられた。

 驚いた律九珠が勢いを緩めようとしたのもつかの間、真っ赤な剣指はそのまま刃にぶつかり、剣気は鋼鉄を突き抜けて兄の胸部をまともに貫いた――



「律九珠!」

 簫無唱が叫ぶ声がした。その瞬間、周囲の音が律九珠を包み込む。周囲を埋め尽くす騒ぎは恐慌か、非難か、それとも心配の声なのか。

 口から血を噴いて倒れる兄を前に呆然と立ち尽くしていた律九珠は誰かに腕を掴まれ、半ば引きずられるようにその場から連れ出された。

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