第六話

 月日は流れ、律九珠が寂寧庵じゃくねいあんに来て一年が経とうとしている。

 律九珠は九天剣訣をふた月で使えるようになり、今では簫無唱が認める二人目の継承者となっていた。一人目は言わずもがな今は亡き公孫寧だ。

 だが、律九珠はこの一年間、剣を手に取っていなかった。窮地に立たされると闇雲に攻撃を繰り出す癖が治らないのがその理由だった――幼い頃から叩き込まれた戦法を無意識のうちに頼っているのだと簫無唱は言い、律九珠もそれが分かるほどには成長している。しかし、万事休すというときに浮かぶ父の声と兄たちの姿は一朝一夕に振り払えるものではなかった。律家の栄光には昔ほど執着もないはずなのに、未だに父の教えから離れられない自分がかえってもどかしい。だが、苛立ちを募らせる律九珠に簫無唱が語るのはいつも同じことだった。

「百の剣客がいれば百通りの剣の道があります。律峰戒が貴方に教えたこともまた、剣の道の上では真実に変わりありません。重要なのは貴方がどの道に真を見出すかです。貴方が真だと信じるもの、それが貴方の剣の道です」

「では、俺がどちらも正しいと言えばどうなるのですか」

「それが貴方の揺るがぬ答えだと言うのであれば、私は異を唱えることはしません」

 こういうとき、律九珠は決まって自室にこもり、折れた剣を磨いた。これを棄ててしまうと、全ての指標が霧の中に消えてしまうような気がしてならなかったのだ。



 ある朝、二人は揃って庵を出て、言葉少なに竹林を抜けて町に向かった。まだ動き出す前の静かな通りを抜けて寺の門を叩くと、清儀と同じ格好をした若い尼僧が顔を出した。

「ええと……何の御用でしょう……?」

 尼僧は律九珠を見て明らかに困惑している。すかさず簫無唱が進み出て清儀師太に会いに来たと告げると、尼僧は怪訝そうな顔をしつつもお待ちくださいと言い置いて中に戻っていった。

「初めて見る顔ですね」

「俺も初めて会いました。師太のお弟子様でしょうか」

 簫無唱と律九珠が言葉を交わしていると再び門が開き、今度は清儀がにっこり笑って現れた。

「お久しぶりです、簫殿、それに律施主も。さ、どうぞ中へお入りくださいな」

 清儀は二人を案内する道すがら、簫無唱にこの一年のことをあれこれ聞いていた。律九珠が来てからというもの、町や寺への使いは全て律九珠に任せきりで簫無唱はほとんど庵から出ていなかったからだ。それにしても、簫無唱の静けさは清儀と話しているといよいよ浮き彫りになる。まるで雪の積もった竹林と静寂を溶かす春風だと、清儀の柔らかな笑い声を聞きながら律九珠は思った。

 通された講堂では、先の若い尼僧が茶を淹れて待っていた。清儀が使い走りを頼むと、彼女はいそいそと出ていった——通りすぎざまにちらりと盗み見られたのを感じながら律九珠は腰を下ろした。

「すみませんねえ、あの子はまだここに来て日が浅いもので。まだ不慣れなのですよ」

 苦笑する清儀に律九珠はとんでもないと手を振った。普段男が立ち入る空間でもないのだから当然だ。

「お弟子様ですか」

 簫無唱が尋ねると、清儀は大きく頷いた。

「ええ。それも有難いことに総本山から来てくれましてねえ」

「そうでしたか。ここは総本山とも勝手が違うでしょうし、きっと良い経験になるでしょうね」

「ええ、本当に。律施主のようによく学んでもらわないと」

 おどけた口調で笑う清儀に、簫無唱も口の端をわずかに持ち上げた。その後も世間話を続ける二人を、律九珠は茶をちびちび飲みながら聞いていた。こんなにも朗らかに話す――とはいえ清儀に比べたら随分静かで口数も少ないのだが――簫無唱は初めて見た気がする。最近は笑顔を見ることも増えていたが、やはり相手が清儀だからこそ感じられる安心感があるのだろうと律九珠は思った。

「……ああ、すみません律施主。私たちだけですっかり話し込んでしまいました」

「いえ、お気になさらず」

 ふとこちらを向いた清儀に、律九珠は大丈夫だと手を振った。

「私が忍耐を教えましたから、きっとこのくらい何ともないでしょう。最近は朝の読経にも付き合ってくれるのですよ」

 簫無唱はそう言うと、律九珠を見てふっと笑みを見せた。どきりとして居住まいを正した律九珠に、「しかし、」と簫無唱は言葉を続ける。

「自分は関わり得ない話を聞き続けるというのもあまり良いことではないでしょう。どうですか、少し町を散策してきては? ここ一年、庵の仕事と剣の稽古ばかりで休みもなかったことですし」

「よろしいのですか?」

 目を丸くする律九珠に、簫無唱は柔らかく頷いた。

「ええ。特別に許可しましょう」

「ありがとうございます、師父」

 律九珠は深々と頭を下げると、清儀に一礼して寺を出た。若い尼僧はまだ戻っていなかった。



***



 この一年で律九珠はすっかり町にも溶け込んでいた。顔を見れば挨拶を交わし、他愛のない話に相槌を打って別れるだけの関係という、父と兄と剣しか知らなかった律九珠にとっては初めての世界がこの町には広がっている。通りをぶらつき、茶楼の前で店主と言葉を交わしながらふとあたりを見回すと、例の尼僧がこちらをじっと見ているのと目が合った。尼僧はぱっと視線を逸らすと慌てて通りを去っていった――店主は笑いながら尼僧を見送ると、律九珠の腕を軽く小突いてささやいた。

「出家してても根は女子ですなあ。だが俺だって、もし自分があれくらいの娘っ子で、家の近くで律さんみたいな偉丈夫にばったり会ったら間違いなくじろじろ見ちまいますね」

「そういうものなのか?」

 首をかしげる律九珠をからかうように、店主は「またまた!」と声を上げて笑う。

清丈せいじょうさんだって年頃の娘さんですよ? いくら小さいうちからお寺で修行してたって、若くて顔の良い男がいたら気になるに決まってるじゃないですかあ!」

 どうやら尼僧は名を清丈と言うらしい。律九珠があいまいに頷いて相槌を打つと、店主は

「文句なしの好青年が、どうしてこう鈍いかなあ」

 と聞こえよがしに呟いて頭を掻いた。

「……俺はてっきり、男が尼寺に出入りしているから怪しんでいるのだとばかり」

 ぼそりと言った律九珠に、店主は「ああ」と神妙な面持ちになって大きく頷いた。

「それはあるでしょうな。清儀さんのような融通は、大きいところじゃ利かせてくれないでしょうし」


 店主と別れたあと、律九珠は通りをあてもなく散策した。顔見知りの人々が右に左に通り過ぎる中に混じって歩を進め、時折世間話に応じてすぐに別れる。平和だった。江湖に身を置きながらこんなに静かな時間を持てるとは、きっと昔の自分は想像すらしなかっただろう。

 しかし、この日は見慣れた通りに見知らぬ影が二つあった。笠を目深に被り、えらく顔を近づけて話し込む様子を律九珠は注視した。ただの旅人ではないと勘が告げている。そして案の定、すっと視線を逸らせた矢先、二人組は人の流れを割りながらこちらに向かって歩いてきた。

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