第五話

 翌朝からはまた決められた日課をこなすばかりの日々だったが、そこに町への使いも含まれるようになった。

 清儀はおおらかな尼僧で、二回目の訪問以降は茶を振る舞い、話を聞いてくれることもしばしばあった。何度も足を運ぶうちに町の住民とも顔なじみになっていった。西瓜売りの老爺――屋台の品物は季節によって色々だったが――は特に律九珠を気に入っているらしく、野菜の種のついでに何かと土産を持たせたがった。そんな日の翌朝は、決まって老爺のくれた野菜や饅頭が朝餉になるのだった。

 剣の稽古は初日とは比べ物にならないほど激しいものになっていった。剣の代わりに竹枝を使うことはもうなく、しかし剣を使うよう指示されることもない。代わりに律九珠に課されたのは全ての剣譜を空手で完璧に使いこなすことだった。

 すなわち、律九珠自身が剣となり、己の力を制御する訓練だった。使うのは己の肉体、特に両手の剣指と内功のみだ。律九珠が律白剣譜を空手で完璧に使いこなせるようになると、簫無唱は彼に自身が編み出した剣譜「九天剣訣きゅうてんけんけつ」を伝授した。


 ある日の午後、簫無唱は稽古の代わりに座学をすると言って彼を書斎に座らせ、『九天剣訣』と書かれた一冊の書物を渡した。中に記された招式はたった九つ、しかしこの九つを破ることができた者はただ一人を除いていないという。律九珠が興味本位で尋ねると、今は亡き義兄だと簫無唱は答えた。

「三十になる頃でしたか、私はある鏢局ひょうきょくの次男から求婚されました。当時の私は九天剣訣で得た名声で鼻高々だったので、私に剣で釣り合わない方とは結婚しないと言って断ったのです。ですが彼は私を追い続け、私は彼を追い払い続け、九天剣訣で負かし続けました。ついに彼の兄が出てきて勝負することになり、その人は私を三手で破りました。私は約束どおり鏢局の次男に嫁ぎました――その人の兄は公孫逸こうそんいつです」

「公孫逸⁉ では、師父の嫁ぎ先というのは公天鏢局こうてんひょうきょくだったのですか?」

 驚いた律九珠が尋ねると、簫無唱は珍しく笑みを浮かべて頷いた。

「そのとおりです。さあ、雑談はこれくらいにして、剣譜の暗記に戻りなさい」

 律九珠は頷いて本に目を戻したが、妙な興奮で頭が冴えて内容は全く頭に入ってこなかった。公孫逸の名と、彼の代に最盛期を迎えた公天鏢局の興亡を知らぬ者は江湖にいない。公孫逸は小さな家族商売に過ぎなかった公天鏢局を江湖一の鏢局にのし上げた立役者だが、彼の死後、十一人いたという残りの兄弟とその家族、鏢局に詰めていた客卿をも巻き込んだ後継者争いが勃発し、血で血を洗う内乱の果てに全てが焼けて灰燼に帰した。それもたった五年前のことで、律九珠を始め渡世人たちの記憶には鮮明に残っている。

「何か気になるのですか?」

 気もそぞろになっている弟子を簫無唱は見逃さなかった。律九珠が返す言葉を探していると、

「清儀師太や町の方々から、私の過去は聞いて知っているのでしょう。公天鏢局の物語としてではないにせよ」

 と簫無唱の方から言ってきた。

「ですが……」

 律九珠は口ごもった。人の口から聞いたと知れては失礼かと思って黙っていたのに、それすら見抜かれていたというのか。

「皆色々に言っていましたし、清儀師太以外の言葉は信用に足らぬと思っていたのですが」

 どうにか言葉を捻りだした律九珠に、簫無唱はついて来るよう手招きした。廊下を歩いて着いた先は、彼女がいつも経を上げている部屋だった。

 律九珠は初めてその部屋に入った。部屋の奥に安置された仏像に見入っていると、簫無唱はその隣、隅に佇む白い台に彼を導いた。台の上には位牌が二つ並び、その前に質素な香炉が置いてある。

「私の夫、公孫ぜんと、末弟のねいです」

 左から順に位牌を指して簫無唱は言った。

「逸大哥兄さまは生涯独身でしたから、本来であれば次男の夫が当主を継ぐことになっていたのですが……それを気に入らなかった義弟の誰かが使用人をけしかけて、そこから先は誰が何を思っているのかも分からぬままに皆で殺し合いました。私も何人を手にかけたものか。皆、家族同然の大切な仲間だったというのに」

 簫無唱は淡々と語った。枯れ果てた悲嘆の名残りが彼女の全身を覆っているのが目に見えるようだった。

「夫は公天鏢局の再興に賭けて私を離縁し、寧弟とともに逃がす手筈を整えていました。寧弟は夫を好いていましたし、私のことも慕ってくれていましたから、誰がことを始めたのか分からない以上、夫からすれば私たち二人が唯一の味方だったのでしょう。

 清儀師太に協力してもらい、私は寧弟とともに寺に身を寄せ、そこからほとぼりが冷めるまで方々を回ることになっていました。ですが、あとは屋敷を出るのみというときになって夫は殺され、寧弟と私は無理やり包囲を破って逃げざるを得ませんでした。

 寧弟は鏢局でも指折りの剣客でした。九天剣訣も使えたのですが、両脚を落とされてはどうしようもありませんでした。私は寧弟を背負って逃げ、どうにか清儀師太の寺までたどり着いたのですが、数日の後には……生きていれば、貴方より少し歳上でした」

 律九珠は位牌に目を落とした。きっと、清儀を除いて誰も事の真相は知らないのだろう。西瓜売りの老爺は彼女の夫とその弟が無惨な死に方をしたことに同情を示しているのだろうし、日用品店の主人夫婦は元剣客という彼女の過去と公孫家の凄惨な事件を結び付けたのだろう。それに今の話から察するに、簫無唱が用意してくれた古着はおそらく公孫寧のものだ。律九珠は、この庵に漂う空虚さの正体を見た気がした。剣客としての彼女も、公天鏢局の二夫人としての彼女も、五年前の騒動でとっくに死んでいたのだ。

 ふと、律峰戒の言葉を律九珠は思い出した。たしか、公天鏢局の剣客も彼の執念の矛先にいたはずだ。

「父上は、公天鏢局にひどく執着していました。名だたる剣客を排出し、また取り込んだ公天鏢局の面々こそ律白剣譜で破るべきだと」

 独り言のように言うと、簫無唱は無表情のまま「そうですか」と言った。

「ですが、貴方がここに来たのは私の素性を知ってのことではないのでしょう?」

「はい。律白剣譜で天下の剣の名手を破ることだけが俺の目的だったので」

「では、これも何かの縁なのでしょう。貴方がここで剣を学び直す決意をしたことも、私がこうして再び九天剣訣を教えていることも」

 簫無唱はそう言うと、パンと手を叩いて言った。

「さて、稽古に戻りますよ。今日中に第一から第三までの招式を覚えて、しっかり使えるようにしなさい」

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