第四話
新しい師のもとでの暮らしは律家のそれと似ているようで全く違った。夜明けとともに起き出し、簫無唱と手分けして庵を掃除することから一日が始まり、それが終わると簫無唱は奥の部屋で経を上げた。その間に律九珠は朝餉の支度を整え、食事が終わると庭の畑の手入れをする。それが終わると剣の稽古、稽古が終わってから夕餉の時間までは一人で体を鍛えたり稽古の復習をしたりして過ごし、夜は寝る前に瞑想をする。簫無唱は稽古の時間以外はほとんど口を開くことがなく、ましてや剣以外のこととなると全く話す気配がなかった。だが、律九珠もあえて沈黙を乱すことはしなかった。師に逆らわないのが絶対条件ということはさておいても、彼女の静寂を心地良いと感じていたのが大きな理由だった。
日課に慣れるのは容易かったが、野菜だけの食事と毎晩の瞑想にだけはなかなか慣れることができなかった。肉のない食事はどれだけ腹に入れても頼りなく、稽古が激しい日などは特に、一日が終わって瞑想の時間になると腹が鳴りだして集中できなかった。そうでなくても、
酒がないのもやや退屈だった。もとから大酒飲みというわけではなかったが、それでもふとした瞬間に思い出す干し肉を肴に飲む酒の味が懐かしくて仕方ない。律九珠は尼僧に弟子入りしたのだから仕方がないと自分自身に言い聞かせ、俗世の幻影を忘れさせるかのように日々の仕事に集中した。幸か不幸か、律九珠はずっとひとつの道を追い求めて生きてきた――強いられた道で病癖のように染みついた執念は、しかし己の原動力とするには十分だ。ひと月も経てば瞑想しながら寝ていることもめっきり少なくなっていた。
***
ある日の朝、律九珠は簫無唱から別の仕事を頼まれた。籠と路銀、小さな木箱、それから一通の手紙を渡し、簫無唱は彼に町に使いに出てほしいと言った。
「竹林を出て東に三里ほど歩けば小さな町があります。そこに尼寺があるので、まずはそこの住職にこの手紙を渡してください。それから西瓜売りのご主人から種をもらってくること。必ずこの木箱と交換するのですよ、路銀で支払うのではなく」
「ではこの金は」
律九珠が首をかしげると、簫無唱は口角をわずかに持ち上げて言った。
「日用品を揃えたいかと思いまして。そうですね、ここには古着しかないので、衣服を買っては如何でしょう?」
たしかに、ここでの律九珠の服は最初に着ていたもの以外全て古着だった。大きさが合わないことはなかったが、体格の立派な男が着ていたものを簫無唱が直したのであろうことは、服に染み付いた匂いと雑巾になった切れ端の量を見れば察しがついた。しかし、顔を見ずとも分かるほど彼女は自分のこととなると寡黙だった。だから律九珠は訝しみこそすれ、その真相を確かめる術はなかったのだ。
律九珠は言われたとおりに町に入り、目当ての寺の門を叩いた。中から現れたのは丸めた頭に白布を被った小柄な壮年の尼僧だ。
「何のご用でしょう、施主」
「簫無唱尼姑より、この手紙をここに渡してほしいと頼まれて参りました」
尼僧は一瞬ぽかんと律九珠を見つめたが、彼が手紙を差し出すと合掌して受け取った。その場で封を開き、文に目を通す尼僧を律九珠はじっと見つめていた。今の挨拶のどこに驚かれる要素があったのか?
尼僧は手紙を読み終わると、にこりと笑って律九珠を見上げた。
「そうですか、簫殿のお弟子さまですか。最近顔をお見せにならないと思ったら、律施主を教えていたのですね」
「殿? 師父は出家していないのですか?」
驚いて聞き返した律九珠に、尼僧は笑って「そうですとも」と答える。
「あの方は在家の弟子なのですよ。お家の騒動で御亭主と
尼僧の語る話はまったくの初耳だった。目を丸くしている律九珠を見て尼僧もそれを察したのだろう、
「彼女は滅多なことではこの話はしませんからねえ」
と言って優しげな眉を少し下げた。
「……では、今の話は、俺は聞いてもよかったのですか」
「ええ。施主は簫殿の信頼を得ておいでなので」
尼僧は最後に
清儀以外にも、この町には簫無唱を知る者が何人もいた。たとえば屋台で西瓜を売っている老人は、簫無唱が数か月に一度、野菜の種と交換で薬草を渡している相手だった。律九珠が簫無唱の弟子だと名乗ると、彼は安堵の表情を浮かべて
「大変な方だったが、そうか。ようやく弟子を取られたか。善哉、善哉」
と独り言のように呟いた。
また、服を買いに入った日用品の店では、律九珠が身分を告げると主人とその妻は各々眉を持ち上げて互いに顔を見合わせた。
「そうかい、簫さんのお弟子さんかい。また大変な人についたもんだねえ」
「ご家族のことなら、清儀師太から聞いたが」
律九珠が言うと、妻はとんでもないと言わんばかりに目を見開いた。
「そりゃ私たちだって、可哀想だとは思うけどね。でも、剣なんて振り回す女の嫁ぎ先がそもそも普通なわけないだろう。実際、物騒な連中がここにも出入りしてたんだしねえ。お家騒動で夫を亡くして家も追われたっていうけど、そんな家ならありそうなことさ」
声をひそめて早口に言う妻に、律九珠は曖昧に答えるだけにしておいた。もっとも、胸の内では、簫無唱が嫁いでいたという家がどこであるにせよ、そこが普通でないなら律家はもっと異常なのだがと思わざるを得なかったのだが。
その後も律九珠は、簫無唱に関する様々なうわさを耳にした。大きな家に嫁いでいたとか、このあたりでは一番の武術の達人だとか、女子としての素養ではなく武術で婚姻をもぎ取った不届きな女だとか、皆の言い分は色々だったが、律九珠は全ての言葉に頷き、夕暮れの前に帰路についた。いつか彼女の口から真実を聞くことがあればそれで良いと思ったのだ。
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