第三話
翌朝、簫無唱が部屋に来て律九珠の衣と剣を卓子に置いていった。律九珠は寝たふりをして簫無唱をやり過ごし、彼女が出ていくと寝台に寝転んだまま卓子の上の剣をじっと見つめていた。
昨日の簫無唱の言葉が未だに頭から離れない。だが、この折れた剣で一体何ができるのか。一体彼女は、全てを失い、灰色の石ころと化した自分に何ができると思っているのだろうか。
――剣が手の中にある限り勝機はある。それを諦めて剣を棄てた瞬間がお前の死だ。
父の言葉と同時に敗者の烙印を押された兄たちの姿が目の奥に浮かぶ。彼らは皆、剣を棄ててはいなかった。皆一瞬の怖気がたたって地面に膝をついただけだ。
「……勝機、か」
律九珠は起き上がると卓子の剣を手に取った。鞘を撫で、柄を握って息を吐く。だが引き抜くことはできなかった。律九珠は唇を噛んだままじっと立っていたが、やがて剣を置いて部屋を出た。
***
庵の前には二人掛けの石の卓子と椅子が置いてある。その前のがらんとした広場の真ん中に立つと、律九珠は深く息を吐いて目を閉じた。
完全なる沈黙。その中にただ、己の息遣いのみがこだまする。
律九珠は片足を引いて両腕を構えるや、おもむろに目を見開いて気合いを発した。同時に拳を突き出し、一歩踏み出してその腕に全身を寄せる。もう一度突き、踏み込み、腕を払い、体を翻して足を蹴り上げる。目の前に誰がいるでもなく、ただ虚空に吸い込まれて消えていくに任せて声を上げ、套路を演じる。空手で一連の動きを終えれば次はそこに器物が加わる——狙いを定めて飛び上がり、手刀で竹枝を折り取ると、律九珠は右手にそれを構えて虚空を睨んだ。気合い一声、右手の枝を突き出し、その手を振り下ろして体を捻りつつ剣指を作った左手を前に出す。竹枝が空を切って唸り、足が地をこすって粉塵を巻き上げる。先端を斜めに下げ、剣指を添えて停止したところで、背後から静かな声がした。
「今の手を、左を守る動きに変えなさい」
驚いて振り返ると、いつの間にか石の卓子に簫無唱が座っている。
「だが父上は……」
「変えなさい」
有無を言わさぬ空気に圧されて、律九珠は次の反論を飲み込んだ。
「ではもう一度、最初から」
簫無唱に言われ、律九珠はもう一度最初の構えを取った。凪いだ瞳を見据えて鋭く息を吐き、今度は簫無唱に向かって竹を突き出す。
その瞬間、卓子から彼女の姿が消えた。同時に竹の先が跳ね返され、簫無唱の剣指が頬をかする。体を翻して距離を取り、追いすがる簫無唱の一手を竹で受ける。簫無唱は代用の武器も持たず、両の手だけで律九珠を追い立てた。一度しか見ていないというのにこの套路で対応できない動きは一つもせず、その上剣を持っているかのように立ち回る。そしてついに、先ほど簫無唱が止めた動きがもう一度回ってきた。律九珠がそのことを思い出すと同時に、簫無唱が彼の左の体側を狙って剣指を突き出した。竹枝を体の左側に持ってくると同時に簫無唱の剣指が肉薄する。律九珠は剣指を弾くと同時に体を回し、正面に向き直って簫無唱の胸の真ん中に刺突を送った。
それに対して簫無唱は右の掌を前に出しただけだった。驚いたのもつかの間、竹枝の先が皮膚に触れた途端、うねるような力の波が律九珠を逆に打つ。律九珠は後方に弾き飛ばされ、たたらを踏んでようやく動きを止めた。いつもの動きでは相手を破れないところを破れたという感動とそれを見抜いた彼女への畏怖の念、そしてあの一撃を跳ね返した力への困惑がすっかり頭を埋めている。
「今のは一体……」
上がった息の合間に尋ねると、簫無唱は顔色も変えずに
「内功です」
と言った。
「内功をいかに扱うかは武芸の全てに通じます。剣術に限って言えば、例えば今私は守りに内功を使いましたが、攻撃に転ずることも——」
そう言うやいなや、簫無唱の顔がすっと引き締まった。右手を持ち上げ、高く掲げて振り下ろした途端に光の筋が放たれる。咄嗟に避けた律九珠の横をかすめ飛び、光は竹林の一部を破壊した。
「内功を殺傷力に転化することは誰もが知っていますが、それだけではない。十分な修練を積めば今のような使い方もできるようになります。極論を言えば剣など必要ないのです」
唖然としている律九珠に、簫無唱は続けて語る。
「剣はあくまでも道具です。そして道具は強さを保証してはくれません。使い手自身が剣となり己の力を制御すること、それが私の見出した剣の道です」
律九珠はぽかんと口を開けたままそれを聞いていた。彼女の語る剣は、父・律峰戒の教えとあまりに違う。
「……父上は、剣は強さの表れだと。己が強くあればあるほど剣も強くなると教わった。だから尚更、手放してはならないと」
「そうですか。では貴方自身はどう思いますか?」
簫無唱に問われ、律九珠は口ごもった。沈黙が流れ、風が竹を揺らす音だけが聞こえてくる。
「俺は、お前の言い分も一理あると思う。ただ」
言葉を切り、簫無唱を伺うと、簫無唱は続けろというふうに眉を上げた。
「ただ、今の俺は剣を手放すことができない。……その勇気がない」
「よく言いましたね」
うつむく律九珠の肩に、簫無唱の手がそっと置かれる。温かく、力強い手だった。
「どうすればあなたのようになれる?」
律九珠は顔を上げて尋ねた。
「御父上のことはいいのですか?」
簫無唱が聞き返す。
「律白剣譜の穴が分かるからこそ、あなたに教えを乞いたい」
律九珠は簫無唱の手を跳ねのけて跪くと、地面に額を打ちつけた。簫無唱は慌てて青年の体を起こさせたが、彼女を見上げる血の滲んだ顔は確固たる決意に満ちている。
「分かりました。貴方に応えましょう」
簫無唱はそう言うと、律九珠を立たせて庵の中へと導いた。
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